第二話
エリアスは言葉を詰まらせた。知らぬうちに視線が泳いでしまう。
無事・・・と言えるのか?
確かに敵国は滅び、民は虐げられずに済んだ。戦火に包まれることも、土地を蹂躙されることもなかった。
けれど国は内側から崩れた。王は消え、秩序は失われ、百年の間に民は手が入らぬ農地のように荒れ果てた。
それでも生きている者はいる。地を耕し、工夫を重ね、耐えることを誇りとしながら、エルノヴァの民は生き続けてきた。
——自分がそうであるように。
けれど、それは果たして”無事”なのか?収穫は決して十分とは言えず、冬ともなれば簡素な家の壁は凍りつく空気を防ぎきれず、外にいるのとなんら変わりはない。屋内にいても、毎年必ずと言っていいほど凍死者が出る。夏はまだいい。凍死の危険が過酷な労働に変わるだけだから。
エリアスには分からなかった。分からぬまま、ただ事実を話した。
「我らは、生き延びました。ですが国は・・・、エルノヴァは、もうありません」
アルフリーダの唇がピクリ動く。だが、その紅色の唇は開かれない。彼女の視線は汚れたドレスの裾に消え、 感情の残響すら感じ取れなかった。
「では——」
アルフリーダの目線が上がり、ゆっくりと跪くエリアスを見つめる。アメジスト色の瞳は、宝石のように光を跳ね返し、エリアスは一瞬、我を忘れて、その瞳に見入ってしまいそうになる。
「王は。・・・リアム=ヴェルセリオン=ノルヴァンは、どうなりましたか?」
——リアム=ヴェルセリオン=ノルヴァン。
その名前に、エリアスは慄いた。
かつて二つの大国を死に追いやった王。エルノヴァを数えるのなら三つの国を——
打ち鳴らされる鐘のように、王の名前が冷たくエリアスの耳の奥で響いている。その響きが胸の奥を冷やし、彼から言葉を奪い去っていく。
彼女に、事実を伝えていいのか?いや、伝えなければならない。なぜならノルヴァン王は、彼女の兄なのだから。知る権利がある。
だが、どう言えばいい?
焦りが身を這い上り、思考を混乱が掻き回している。エリアスは、暗闇の中に言葉と答えを見つけ出そうと、目を固く瞑った。
視界が闇に塗り潰されても、焦燥感は拭えない。どうにか自分を落ち着かせようと、息を吸い込んだ時——
胸に当てた拳に、ふわりと冷たい感触が下りた。驚いて目を開くと、目の前にアルフリーダ顔があった。絹のドレスが、苔がこびりついた石の床に広がっている。
アルフリーダのしなやかな手が、エリアスの手を両手でそっと包み込んでいた。その手は冷たく、雨に打たれたようにところどころが濡れていた。
けれどその冷たさが心地よい。彼の焦りを冷やして、そして溶かして行く。アルフリーダが微笑んだ。
「あなたは、お優しい方なのですね」
その言葉は微笑と共に、まるで春の日差しのように、彼の胸に届いた。
「・・・優しい・・・?」
自分が優しいなどと、思った事もない。むしろ最後のヴァルドとして、優しさよりも礼節、笑顔よりも冷静さを意識してきた。
「ええ」
エリアスの震える手を包んだまま、アルフリーダが静かに頷いた。
「あなたは、私が傷つかない言葉を、懸命に探して下さっているのでしょう?」
エリアスは答えられなかった。ただ一つ、胸の奥で心臓が跳ねた。アルフリーダの手が離れ、祈りを捧げるように胸の前で組み合わされる。
「私は、エルノヴァの姫です」
笑みがすっと収められ、アルフリーダの背筋がすっと正しされる。
「あなたのお気遣いは嬉しいです。ですが、私には全てを聞く義務があります」
エリアスは一度目を伏せ、そしてゆっくりと口を開いた。
「——王は、ヴェル=アリムの力を纏い、二つの大国を死の穢れで覆いました。そして、ザイレムとアヴァリーを滅ぼした後、王はいずこかへ飛び去って行ったそうです」
「いずこかへ?では王の消息は・・・?」
エリアスは小さく首を振った。
アルフリーダの唇から息が漏れ、アメジストの瞳が瞼の向こうに隠れた。
涙を流すわけでも、嘆くわけでもない。ただ静寂と共に、ありのままの現実を受け入れている。エリアスは、その静けさの中に姫の矜持を見た気がした。
「ありがとうございます。あなたには、辛い事を言わせてしまいましたね」
エリアスが「いえ」と言いかけた時、アルフリーダが口内で小さく呻いた。ハッとして彼女を見ると、こめかみを押さえて眉をしかめている。
「どうかされましたか?」
「いえ。大事ありません。ただ、少し頭が・・・」
頭痛か?
一見すると、顔色は悪くはない。頬には赤味があるし、唇も震えてはいない。けれど、残酷な現実を聞いたばかりだ。気丈に振舞ってはいても、心痛はいかばかりのものか・・・。
エリアスは、床の置いたままのグローブを掴むと、アルフリーダの手を取って、ゆっくりと立ち上がらせた。
「外郭に、私の住まいがあります。そこへ参りましょう。少なくとも、ここよりは安全です。歩けますか?」
「ええ。もう平気です」
アルフリーダの手は、強く握ると折れてしまいそうに細い。その手をそっと握り、エリアスは階段へと向き直った。
「ちょっと、待ってくださいエリアス。ここよりは。とはどういう意味です?城が危険なのですか?」
「この城にはノクスベインがいます。ここまでの道のりで、あらかた片付けましたが、奴らは不死です。いつまた動き出すやもしれません」
「ノクスベイン…?とは?」
エリアスは、今更ながら自分の失言に臍をかんだ。不死の騎士のことを説明するには、また話がノルヴァン王のところに戻ってしまう。
「・・・異世界ヴェル=ノクスの穢れに触れた、騎士の呼び名です」
短く説明し、あえてアルフリーダの方を見ずに行きかけた時、抗うように彼女の手がエリアスの腕を掴んだ。
「ま、待ってください。このような見苦しい格好では・・・」
その言葉にエリアスは足を止めた。
見苦しい?
目を向けると、彼女は汚れた衣を気にして視線を落としている。
「外郭では人の目があるのでしょう?・・・民が怯えます。誤解を・・・されるかもしれません」
その迷うような一言が、エリアスの胸に刺さった。
それは、”俺が彼女に何かしたように見える”と言うことか。
アルフリーダの目が、一瞬後ろの扉に注がれる。
「着替えてきますから、ほんの少し待っていていただけませんか?」
確かに、彼女の言うことは分かる。
上質な絹のドレスを身に着けたアルフリーダ。それだけなら目立つが、まだいい。血と泥に汚れ、髪も乱れた彼女を連れていては、町の者たちが何と噂しあう事か。
きっと、何か——。俺が彼女に・・・、狼藉を働いたと思われるだろう。
「では、ここで待っています」
アルフリーダの顔がパッと笑顔になった。
「感謝します。エリアス」と、アルフリーダは扉の向こうに消えて行く。
その背中を見送って、エリアスは、蜘蛛の巣まみれの壁に身を預けた。溜息が漏れる。
グローブをはめようとした時、ふとアルフリーダの手の感触が蘇った。
柔らかく、細く。そして冷たく、濡れていた。 その冷たさが、彼の右手に宿り続けている気がして、エリアスは右手をそっと握る。
あの白い手首に痛々しく残った赤い痕。
あれも、もしかしたら俺のせいだと噂されるかもしれない。
今まで、エリアスは騎士であり続けようとしてきた。夜明け前から剣を振るい、昼は人々に混じって畑を耕し、夕暮れには町を見回る。誰に命じられたわけでもなく、ただ己の誇りに従う日々。
町の人々は、彼を遠巻きに眺めるだけ。感謝の言葉はなく、奇異の目だけが向けられる。
「変わり者」——それが彼に与えられた呼び名。
その変わり者のエリアスが、暴力の痕跡を残したアルフリーダを連れていたら——
苛立ちが、ゆるくエリアスの足元から這い上って来る。
けれど…。エリアスは、何もない掌を見つめた。
アルフリーダのひやりとした手の感触。お優しいのですね。と言う甘やかな声。それらが彼の内側で、静かな熱を灯していることに、エリアスは気づいた。
彼女なら、変わり者でない、本当の自分を見てくれるかもしれない。
彼はグローブをはめる代わりに、腰のベルトにそれを挟み込んだ。
黒檀のドアが重そうな音を立てて開き、アルフリーダが姿を現した。
「お待たせして、申し訳ありませんでした」
壁から身を浮かせ、胸当てにかかった蜘蛛の巣を払おうとした手が、ふと止まった。
てっきり、また別の豪奢な衣装で現れるものと思っていた。けれど、今目の前にいるアルフリーダのいで立ちは、それとは違っていた。
陽だまりのように、黄色を含んだ白っぽい衣に派手さはなく、腰の細いベルトには繊細な銀の金具が光っている。裾と袖口に、細やかな白糸の刺繍。髪は丁寧に結われ、手には小さな布包みを持っている。
その質素な服は、かつて見たことのある、どんな衣装よりも彼の心を打った。
「どうでしょうか?」
肩にかけた暗い緑色のショールを整えて、アルフリーダは少し首を傾げて微笑んだ。
意表を突かれたエリアスは、一瞬言葉を失った。喉が詰まり、視線を逸らしかける。何かを言わなければと思えば思うほど、金属の胸当ての下で、どっと汗がにじみ出る。
「え、ああ、その・・・。い、良いと思います」
どうにか、言葉を絞り出した瞬間、エリアスは後悔した。
もっと良い言葉があっただろう?と、もう一人の自分が責める。せめて「良くお似合いです」とか言えれば——
その時、鈴を振り鳴らすような小さな笑い声が、エリアスの耳をくすぐった。
「良いと言って下さって、嬉しいです」
その笑みが、彼の心をゆっくりと解きほぐした。
エリアスは、グローブをしていない手を、そっとアルフリーダに差し伸べた。
「行きましょう。私があなたをお守りします」
アルフリーダが微笑みながら、エリアスの手に自分の手を重ねると、そっと彼の手を握った。
その手には先ほどのような冷たさは、もうなかった。エリアスの胸に、温かな物がじんわりと広がっていく。
この手を守りたい。
喜びと決意が、一つになった瞬間だった。




