第一話
——何度。
何度ここに来ただろうか?そして何度、恐れただろうか…。
何度無力さを味わい、何度絶望に沈んだだろうか。
エリアス=ヴァルドは、重厚な黒檀の扉を前に、小さく息を吸い込んだ。埃とカビと、そして血の匂いが、肺腑に忍び込む。
扉には魔法の光線が交差し、六つの角を幾重にも作り出していた。凍てつく氷の結晶にも似た”時の封印魔法”は、がんじがらめに張り巡らされた鎖のように扉を戒めている。
ほの暗い石の城内で、扉を補強する金属の縁が静かに魔法の光を反射している。
彼を見下ろす天井は高く、今もなお、どうにかぶら下がっている燭台だけが、蜘蛛の巣を纏って中空で揺れている。壁の紋章は掠れ、一目では何を模ったか分からない。
石壁の一部が崩れ、ぽっかりと開いた穴から、淡い日の光とわずかに透明な風が入ってくる。
青白いその文様は、風にさえ揺らぐことはない。時間そのものを凍りつかせた、光の結晶のように。
エリアスはマントを外し、肩から剣帯を下ろした。擦り切れた分厚い布がかび臭い床に落ち、静寂を微かに震わせる。
王家の剣は、黒い鞘に収められ沈黙を守っている。
エクリア=ノクス——。
王族以外の者が抜けば、たちまちその者の命を刈り取ると言われる、異世界ヴェル=ノクスをも斬る剣。
エリアスは、湿気を帯びた石の床に跪くとグローブを外した。エクリア=ノクスを地に立て、自分の鼓動を感じながら頭を垂れる。
もう、戻ることは出来ない。この扉を探し続け、そして見つけてしまったあの日。それは祝福でもあり、罪でもあった。最後のヴァルド。最後のエルノヴァの騎士として。
エリアスは深く息を吸い込み、そして目を閉じた。吐き出す呼気と静寂が、瞼の内側の闇に寄り添う。
呼吸を繰り返すたびに、エリアスは深い記憶の中に意識が沈んでいくのを感じた。
——背中に縋りつく震えて冷たくなった手の感触。両腕の筋肉が震え骨が軋むほどの重さを発する光。そして、掠れて途切れた約束——
エリアスは目を開けた。遠い、少年の頃の思い出の世界から、一気に現実へと引き戻される。目の前には封印の扉が、相変わらず冷たい佇まいを見せてそこにある。エリアスは、エクリア=ノクスの柄を握りなおした。
「ヴァルドの先人たちよ——」
誰もいない、荒廃し遺跡と化す寸前の廊下で聞く自分の声は、別人のそれのようだ。左手で剣身を支え、柄にかけた右手に力を籠める。
「今ここに、守り継いだ戒めを破る。我が名において、我が命において、・・・我が誓いにおいて」
エリアスの声が、苔むした石レンガに反響を残した。
「焔裂の剣、エクリア=ノクスを抜き、封印を解き放つ」
強く握れば握るほどに、柄の冷たさが伝わってくる。まるで、氷の塊を直接握っているような冷たさにエリアスは手に力を込めた。
「それが、我が罪であるのならば——」
一度呼吸を整え、エリアスはゆっくりと剣を鞘から持ち上げた。
空気が軋む。目に見えない衝撃が、僅かに抜かれた刃から放たれる。
瞬間、冷たい痛みが全身を突き抜けた。喉から胸にかけて、冷たいのに焼けるように熱い。その冷気を放つ熱が、悲鳴を上げるすら許さないとでも言うように、エリアスの喉をギリギリと締め付ける。これが命を削られる感覚か。
呼吸が追いつかない。一瞬意識が遠のき、エリアスは更に強く柄を握りしめた。
柄が脈打つように震えているように感じるのは、気のせいだろうか?まるで剣そのものが意志を持ち、命を吸い取っているかのように。視界がぶれる。これが自分に課せられた罪なのだとしたらそれも悪くない。罪を犯すことで彼女を助けられるのなら、痛みの罪も、その先に待っている”死”さえも受け入れよう。
ふと霞む視界に希望が見えた。光の六角形が揺らいで消えていく・・・。
「・・・その罪を、姫の、目覚めに、捧ぐ・・・」
封印の線が音もなく砕け散り、エリアスは素早く剣を鞘に戻した。
肩が激しく上下する。地面に突き立てたエクリア=ノクスに縋り、エリアスはひたすら呼吸を繰り返した。胸の奥に残る熱が、ゆっくりと冷えていく。かび臭く湿った空気でさえ、体に最高の御馳走のようだ。せわしなく胸が空気を貪って上下を繰り返している。
結局命は残った。それが祝福なのか、それとも罪の上塗りなのか分からないままに。
エリアスはゆっくり立ち上がった。膝ががくがくする。震えをどうにか抑え、肩の剣帯を背負いなおし、マントでエクリア=ノクスを覆った。体の重心がまだふらつく。マントを留める指先が微かに震える。
封印は壊れた。命がある以上、見届けなければならない。彼女がここにいるのか。彼女がまだ、無事なのか——
ガタ。
重い音にエリアスは弾かれたように向き直った。魔法の印が消えた扉の足元に、ゆっくりと隙間が出来て、暗い廊下に細い光の筋が、彼の足元に向かって伸びている。誰かが、中から扉を開いている?
エリアスは微動すら出来ずに、視線がそこに釘付けになった。
やがて人一人分の隙間に影が射す。部屋から廊下へと漏れる光。それが、崩れた壁から差し込む光と重なり、ドアの隙間に佇む姿をまともに照らした。
長い金色の髪——。目に見えない埃すら、微細な光の粒となって彼女の周囲を舞う。肌は雪よりも淡く、けれども確かに命の温もりを宿している。
静けさを内包し、輝きを身にまとった姫。
エリアスは、思わず姫に手を差し伸べた。何度も夢で見た姫君の姿が、そこにある。もう少し手を伸ばせば、触れられるところに・・・。
姫君の紫色の瞳が揺れる。エリアスを見、そして差し伸べられた手を見る。けれど、彼女の瞳は微かに怯えの色を滲ませたまま、握った拳は拒むように胸に押し当てられている。
警戒されている?
エリアスは自分の軽率さに気が付き、慌てて手を戻した。
当然だ。彼女は何も知らない。伝承や文献の通りなら、百年前の封印の日から姫の時間は止まっているのだから。
「ご安心ください。あなたを傷つけるつもりはありません」
エリアスは、片膝をつき右拳を胸に当てて、頭を垂れた。服従の姿勢。彼女を怯えさせたくはない。
「・・・お尋ねしても、よろしいでしょうか?」
女性は応えない。けれども彼女の静かな息遣いは整っていて、早くはない。
ほんの少し顔を上げ、姫君の顔を伺う。
「あなたは——、アルフリーダ様でいらっしゃいますか?」
さぁっと日の光が部屋から漏れ出し、彼女の姿を溶かした。金色の輪郭を纏った姫君の顔は眩すぎる。それでも、エリアスには見えた。スッキリとした顎が微かに上下するのを。
胸の奥の方で、何かが震え、そして静かに崩れ去っていく。
それは彼が長く抱えていた焦燥と、孤独と、願いの残骸だった。
「私はエリアス=ヴァルド。あなたに忠誠を誓う者です」
その時、微かな声が彼の耳を掠めた気がした。
「…ヴァルド…」細い女性の声が、確かにそう言ったような——
ひんやりとした風が流れ、また仄暗さが戻る。エリアスは、二、三度、目を瞬かせた。ヴァルドの名が、何か姫の心に引っ掛かるのだろうか?
ふと、目の端で彼女のドレスの裾が揺れた。光をそのまま溶かしたような、象牙色のドレス。その裾が、まるでぬかるみでも歩いてきたように、泥にまみれていた。
違和感に不安が混じり、視線をもう少し上げたエリアスは、小さく息を飲んだ。
血だ。
まだ乾いていない血が、細い腰の辺りに張り付いている。
なぜ、このような姿に——
思わず言葉が、口をついて出そうになる。
先ほどまでは眩い光のせいで、気づかなかった。金の髪は濡れて乱れ、顔に張り付いき、胸に押し当てられた袖口からチラリと覗く赤味。エリアスは今度こそ堪えきれず、眉を寄せた。
あれは、・・・指の痕。
何者かが、彼女の手首を酷く乱暴に掴んだように見える。誰が、姫君にこのような——?
エリアスの視線に気づいたのか、ただの偶然か。アルフリーダが手を下ろした。繊細な刺繍がほどこされた袖が下がり、痣をそっと覆い隠す。
「心配は無用です。・・・それよりも、お聞きしたいことがあります。ヴァルド卿——」
澄んだ清水を思わせるような声が、場違いな呼び名で彼に呼びかけた。
卿・・・。エリアスは目を伏せた。
騎士に付ける敬称だという事くらい、祖父からは聞いて知ってはいた。けれどエリアスには、遣える主君もなく、治める領地もない。そもそも騎士団という組織すらないこの場所で、自分がそう呼ばれるには、どうにも身に余る気がする。
「姫・・・。私には、騎士の称号がありません」
アルフリーダの息遣いが、一瞬途切れる。エリアスは、ますます深く頭を垂れた。
「どうぞ、ただエリアスとお呼びください」
一瞬の沈黙。
「では、エリアス」
ハッキリとした声が、エリアスの顔を姫へと向けさせる。
「民は無事なのですか?」




