第二部 器と鬼
「残響」
試合は、そのまま勝った。
派手な逆転も、劇的な一打もない。
ただ、
最後まで崩れなかったという勝ち方だった。
ベンチに戻ると、
皆が笑っている。
秀吉の継ぎ手は大声で笑い、
アキトは何も言わず、ただ頷いた。
「いい球だったな」
それだけ。
恒一は、曖昧に笑い返した。
家に帰る。
シャワーを浴びて、
汗と土を流す。
いつもと同じはずの天井。
いつもと同じ、狭い部屋。
だが。
「……うるさい」
頭の奥が、
ざわついている。
耳鳴りじゃない。
痛みでもない。
“気配”だ。
(……まさか)
ベッドに腰を下ろした、その瞬間。
「——ほう」
知らない声。
だが、
どこか“遠い時代”の匂いがする。
「器が、目を覚ましたか」
(誰だ)
返事の代わりに、
別の声が重なる。
「落ち着け。
まだ完全ではない」
「いや、これは面白い」
「静かにしろ。
主が混乱する」
恒一は、思わず頭を押さえる。
(……一人ずつ話せ)
一瞬。
声が、止まった。
沈黙。
そして。
「……聞こえるのか」
最初に聞いた声が、
慎重に言う。
「久世だけではない」
別の声。
「我らは、
“残った者たち”だ」
(残った……?)
「時を越え、
名も役目も終えられなかった者」
恒一の喉が、鳴る。
(……何人いる)
間。
数えるような気配。
「七」
「いや、八だ」
「いや……
まだ“眠っている”のもいる」
恒一は、深く息を吐いた。
(……冗談だろ)
その時。
よく知っている声が、
静かに割って入る。
「……すまんな、恒一」
久世。
「どうやら、
俺が“扉”を開いてしまったらしい」
(……聞いてない)
「だろうな」
苦笑する気配。
「だが、これは避けられなかった」
久世の声が、少しだけ真剣になる。
「第二部だ」
恒一は、思わず言い返す。
(何のだ)
返ってきたのは、
短い答え。
「——選別だ」
部屋の時計が、
カチ、と鳴った。
夜が、深くなる。
恒一は、理解する。
これはもう、
一人の話じゃない。
そして。
その中心にいるのは、
間違いなく——
自分だ。
眠れなかった。
目を閉じると、
静寂の裏側がざわつく。
(……さっきのは、夢じゃないな)
「その通りだ」
即答。
恒一はため息をつく。
(……まとめて話せ)
「無理だ」
「順序がある」
「名は重い」
被せるように声が重なる。
「焦るな、主」
その言葉に、恒一は眉をひそめる。
(“主”って呼ぶな)
「……ほう」
「拒むか」
空気が、わずかに張る。
だが、すぐに別の声が割って入った。
「やめろ。
ここで折れれば、器が歪む」
(……久世)
「俺じゃない」
即否定。
「だが、
似た立場だった者だ」
その瞬間。
恒一の脳裏に、映像が滲む。
陣幕。
軍配。
盤上の駒。
(……将棋?)
「違う」
だが、次の言葉で確信する。
「盤ではなく、
陣を見ていた男だ」
(軍師……?)
返答はない。
ただ、肯定に近い沈黙。
次に、別の声。
「俺はもっと単純だ」
声が、明るい。
どこか人懐っこい。
「力で押す。
前に出る。
細かいことは後だ」
(……秀吉?)
「おい」
笑いを含んだ声。
「今は名乗らねぇよ」
「だが——
俺の“やり方”は、
もう知ってるはずだ」
確かに。
あの試合。
限界を超えた無茶。
恒一は、唇を噛む。
(……あと何人いる)
間。
今度は、
はっきりと重い声が落ちてきた。
「……血の匂いが薄い」
空気が冷える。
「ここは、
随分と平和だ」
(……誰だ)
「名を知れば、
逃げられなくなる」
淡々とした声。
「だから今は、
影だけでいい」
恒一は、背中に冷や汗を感じる。
(……全員、
歴史の中の人間か)
「そうだ」
久世の声。
「だが、
全員が“英雄”ではない」
「敗者もいる」
「忘れられた者もいる」
「名を残せなかった者もな」
恒一は、拳を握る。
(……なんで、俺なんだ)
静かに。
だが、はっきりと答えが返る。
「偶然だ」
「必然だ」
「どちらでもいい」
最後に、久世が言った。
「重要なのは一つだ」
恒一の胸の奥に、
重く響く。
「——お前は、
聞こえてしまった」
時計の秒針が、
やけに大きく鳴る。
恒一は、天井を見つめたまま呟く。
「……やっぱ、
普通の野球じゃ済まないか」
返事は、
なぜか少し楽しそうだった。
「第二部だ」
「ここからが、本番だ」
朝。
目は覚めている。
体も、ちゃんと自分のものだ。
……だが。
(……いるな)
「いるな」
久世の声が、静かに重なる。
「全員、
お前が起きるのを待っていた」
(待つなよ……)
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分は、
昨日と何も変わらない。
なのに。
(……もし)
恒一は、ふと考える。
(もし、
昨日の場面で——)
(違う“誰か”が出てたら?)
その瞬間。
「ほう」
声が、反応した。
「今のは……
問いかけだな」
(……ああ)
恒一は、歯ブラシを置く。
(俺が必要な時に)
(その場に合った奴が出るなら)
(それでいい)
空気が、静まる。
「……いいだろう」
久世が言う。
「だが、条件がある」
(条件?)
「主導は、
常にお前だ」
別の声が続ける。
「呼ばれない限り、
我らは前に出ない」
「力を貸すだけだ」
「奪わない」
恒一は、ゆっくり息を吐く。
(それなら……)
(使う)
その言葉に、
一瞬、ざわめきが走る。
だが、すぐに——
「いい覚悟だ」
「主に値する」
「……やっと、
話が分かる器が来たな」
恒一は、はっきり言う。
「勘違いするな」
「俺は、
英雄になりたいわけじゃない」
「勝つために、
借りるだけだ」
沈黙。
そして。
久世が、少しだけ笑った。
「それでいい」
「それが、
最も現代的な在り方だ」
その夜。
久遠クラブのグラウンド。
恒一は、一人マウンドに立つ。
(今日は……誰だ)
問いかけると。
「守りを固めたいなら、俺がいい」
「流れを変えたいなら、俺だな」
「……冷静さなら、こちらだ」
選択肢が、
名を伴わずに並ぶ。
恒一は、目を閉じる。
(……今日は)
(俺が投げる)
ざわめきが止まる。
久世だけが、静かに言った。
「……それも正解だ」
恒一は、構える。
借りない。
逃げない。
それでも——
一人じゃない。
ボールが、
夜空に吸い込まれていった。
――打った。
芯を食った、という感触はなかった。
だが次の瞬間、
ボールは内野を抜けていた。
「ヒット!」
審判の声が、
やけに遠く聞こえる。
(……今の)
恒一は、一塁へ走りながら気づく。
(速い)
自分の脚じゃない。
フォームも、
重心の置き方も、
知っている自分と違う。
その瞬間。
――風が、入った。
(……っ!?)
「静かに」
はっきりとした、
凛とした女の声。
頭の奥ではなく、
背骨の内側に響く。
「今は、考えなくていい」
(誰だ)
「名はまだ」
だが。
「“駆ける”ことだけ、貸す」
一塁ベースが、
一瞬で迫る。
(——速すぎる!)
足が、
地面を蹴り抜く。
無駄がない。
溜めがない。
「止まらないで」
声が、
背中を押す。
(まだ……行くのか!?)
視界の端で、
外野手がもたつく。
その“隙”を、
身体が勝手に理解する。
「今」
次の瞬間。
恒一は、
二塁に立っていた。
ざわめく観客席。
「……今の、二塁打?」
「脚、速くね?」
恒一は、息を整えながら
内側に問いかける。
(……お前)
返ってきた声は、短い。
「私は、
逃げ切る戦を知っている」
映像が、
一瞬だけ流れ込む。
山道。
夜明け。
追手。
だが、血はない。
叫びもない。
ただ——
生き延びるための速さ。
「力じゃない」
「判断と、一歩目」
久世の声が、
どこか感心したように言う。
「……なるほど」
「この局面で、
それを引くか」
(久世、知ってるのか)
「少しな」
女の声が、静かに言う。
「この身体、いい」
「反応が、正直だ」
(褒められてんのか、これ)
「事実」
ふっと、
気配が薄れる。
脚が、自分の感覚に戻る。
恒一は、二塁ベースを踏みしめた。
(……一瞬だったな)
久世が答える。
「それでいい」
「彼女は、長居する者じゃない」
ベンチを見ると、
アキトが目を細めている。
まるで、何かを確信した顔で。
恒一は、胸の奥で呟いた。
(……選んだ、ってことか)
返事はない。
ただ、
まだ微かに残る——
風の感触だけが、
脚に残っていた。
夜。
久遠クラブのグラウンドは、
照明も落ちて、静まり返っている。
恒一は、一人でベースに立っていた。
(二塁……)
昼の試合。
あの一瞬。
脚に残った、
風の感触。
(……もう一度)
目を閉じる。
(“駆ける”力)
(判断の速さ)
(生き延びるための、一歩目)
(もう一度、貸してくれ)
沈黙。
風もない。
音もない。
(……ダメか)
「——焦るな」
久世の声。
「呼び方が違う」
(呼び方?)
「お前は、
力を指定した」
「だが彼女は、
力では来ない」
恒一は、ゆっくり息を吸う。
(じゃあ、何だ)
少し、間があって。
「……状況だ」
久世が言う。
「追われている時」
「迷いが許されない時」
「“今動かなければ終わる”時」
恒一は、目を開ける。
(……なるほど)
ゆっくり、ベースを離れる。
そして——
わざと、崩れた体勢を作る。
足をもつらせ、
重心を後ろに残す。
(今の俺じゃ、間に合わない)
(——このままじゃ、アウトだ)
その瞬間。
空気が、
きゅっと縮んだ。
「……来た」
背中に、軽い圧。
「今度は、ちゃんと呼んだな」
凛とした女の声。
(来た……!)
だが、昼とは違う。
力が入ってくる、というより——
視界が澄む。
「前だけ見て」
「考えるな」
「身体が、もう知っている」
恒一は、
踏み出した。
速い。
だが、暴走しない。
(……制御できてる)
「それが、二度目だ」
女の声が、
どこか満足そうに言う。
「一度目は、偶然」
「二度目は、選択」
走り切った先で、
恒一は息を切らして立ち止まる。
気配が、
ゆっくり離れていく。
「次は……?」
恒一が、内側に問いかける。
返事は、静かだった。
「三度目は、来ないかもしれない」
「だが」
「必要なら、必ずいる」
久世が、
締めるように言う。
「覚えておけ、恒一」
「選べるようになった瞬間、
責任も生まれる」
恒一は、夜空を見上げた。
(……それでいい)
(借りるだけじゃない)
(“使いこなす”んだ)
静かなグラウンドに、
一人分の足音が残る。
それはもう、
偶然の音じゃなかった。
翌日。
久遠クラブの練習は、いつも通り始まった。
ノックの音。
ボールの弾む乾いた音。
何も変わらない。
……表向きは。
恒一が軽く走った、その瞬間。
「今のは」
低い声。
後ろからだ。
「呼んだだろ」
恒一は、足を止めた。
振り返ると、
織田アキトが立っている。
腕を組み、
じっとこちらを見ていた。
「……何の話だよ」
とぼけたつもりだった。
だが。
「誤魔化すの、下手だな」
アキトは、視線を逸らさない。
「昨日と、今の一歩目」
「違いすぎる」
恒一は、喉を鳴らす。
(……久世)
「否定はするな」
即答。
「ここで否定すると、話が拗れる」
(じゃあどうする)
「聞け」
恒一は、ゆっくり息を吐いた。
「……見てたのか」
アキトは、鼻で笑う。
「見てた」
「というか、聞こえた」
恒一の眉が、わずかに動く。
「“風が入る音”がした」
「普通の人間の動きじゃない」
少し間を置いて、
アキトは言った。
「——あれは、
人一人分の“判断”だ」
沈黙。
練習の喧騒が、
やけに遠くなる。
恒一は、観念したように言う。
「……いつから気づいてた」
アキトは、少し考える。
「初戦」
「マウンドで、
お前の“間”が変わった時」
「で、昨日」
視線が、
恒一の脚に落ちる。
「決定打だ」
恒一は、笑ってしまった。
「……鋭いな」
「お前が鈍すぎる」
アキトは、間髪入れず返す。
そして、少し声を落とした。
「聞いていいか」
「お前は、
使われてるのか」
「それとも——」
恒一は、即答した。
「俺が、選んでる」
アキトの目が、
一瞬だけ細くなる。
「……そうか」
それだけ言って、
少しだけ間を置く。
「なら、いい」
(いいのかよ)
「もし逆だったら」
アキトは、はっきり言った。
「俺が止めてた」
その言葉に、
内側が静かになる。
久世が、低く言った。
「……信頼できるな」
恒一は、小さく頷いた。
「誰にも言うな」
アキトは、肩をすくめる。
「言わない」
「ただし」
恒一を見る。
「次に“呼ぶ”時は、
俺の前でやれ」
「見届ける」
恒一は、少しだけ笑った。
「……ああ」
その瞬間。
内側で、
複数の気配がざわめく。
「面白い男だ」
「監視役か」
「いや……
理解者だ」
久世が、静かに締める。
「恒一」
「お前はもう、
一人で背負う段階じゃない」
グラウンドに、
再び声が戻る。
だが恒一は知っている。
このクラブには、
もう一段深い“戦”が始まっていることを。
公式戦、久遠クラブのマウンド。
恒一は、ボールを握る。
――背後から、久世の気配が流れ込む。
(……今度は、慎重に)
と思った瞬間、
「——っ!」
無意識のうちに、
久世の“飛車”が出てしまった。
脚が、腕が、身体が――
常識を超えて先行し、
打者の動きを完全に読んでしまう。
「え……?!」
チームメイトも、ベンチも、
その異様な動きに目を見張る。
(まずい……制御できてない……)
恒一の意識は、
第三者視点になった。
身体は自分のものじゃない。
それでも、投球は完璧に決まる。
「……くぜ、飛びすぎだ!」
内心でアキトが叫ぶ。
“飛車が飛び出る”とは、
久世の意思が先走ったことを指す。
しかし。
球は、打者の予想を越えて決まる。
ストライク。三振。
恒一は、息を整えながら独り言。
(……勝った……
でも、やりすぎた)
久世の気配が、静かに響く。
「……やはり、俺の身体は一瞬で動く。
しかしお前の意思がある限り、
過剰な手は使わない」
恒一は、内側で小さく頷く。
(——次は、
俺が呼ぶタイミングを制御する番だ)
飛車の一手は、
“力が暴走する危険”と、
“絶対的勝利の感触”を同時に見せた。
夕暮れの神社。
恒一は鳥居をくぐり、静かな境内を歩く。
(……久世、ここで何を……)
視線が奥の祠に吸い寄せられる。
そこには、人型の人形が立っていた。
身長は約180cm、
恒一より少し大きい。
姿勢は真っ直ぐ、
顔は仮面のように表情を持たないが、
どこか生きているかのような存在感があった。
(……これ、誰の……?)
内側で低く、久世の声が響く。
「恒一……見つけたか」
(久世……? でも、形は……)
「言葉は不要だ。
見るだけで、分かるはず」
恒一は、人形の前に立ち、目を凝らす。
微かに風が、
人形の周囲を通り抜ける。
その瞬間、存在感が強まったように感じる。
「これを使え」
久世の声は、静かだが力強い。
(……使う? どうやって)
人形は、ただ立っているだけだ。
だが、恒一が一歩近づくと、
内側で久世の意思が直に流れ込む。
「体を貸す、ではない。
お前に、状況を“映す”だけだ」
巻物や道具は置かれていない。
この人形が、久世の目であり手であり、指示そのものになる。
恒一は、深く息を吸う。
(……これなら、俺が制御できる)
静かな神社に、
人形の影が長く伸びる。
夕日が差し込み、
その姿はまるで、久世本人が立っているかのようだった。
久世の声が最後に言う。
「頼む……恒一」
恒一は決意する。
(——俺が選ぶ。
誰を、いつ、呼ぶかも、
これで制御する)
町の静けさが、
次の戦いの始まりを告げる鐘のように響いた。
夜。
恒一は自室に戻り、布団を敷いた。
隣には、神社で受け取った人型の人形が静かに座っている。
(……くぜ、寝ろって……?)
低く、久世の声。
「理由は言わない。
だが、お前の体と意志を馴染ませるためだ」
(……しょうがないか)
恒一はため息をつき、
人形を布団に並べる。
手を伸ばすと、
微かに重さを感じる。
高さは自分より大きい180cm。
圧迫感はあるが、
どこか安心できる存在でもあった。
(……妙な気分だな)
布団に横になる。
人形は、ただ静かに隣に立つか寝そべるかは選べず、
恒一の横で微動だにしない。
しかし、不思議なことに、
内側で久世の意識が微かに触れてくる。
「お前の呼吸に合わせろ」
(呼吸……?)
ゆっくり息を吸い、吐く。
人形の存在が、体の奥に微かな振動として響く。
(……なるほど、これで力の感覚を“共有”するわけか)
時間がゆっくり流れる。
暗闇の中、微かに風が部屋を通り抜ける。
その度に、久世の意思が微かに脳裏に触れる。
恒一は、少し微笑む。
(……悪くないな。
むしろ、落ち着く)
その夜。
恒一は、人形の隣で目を閉じる。
外の風や街の音に混ざって、
久世の低い声が遠くで静かに響く。
「明日からが、本番だ」
恒一は小さく頷き、
不思議な安心感に包まれながら眠りについた。
朝。
恒一は目を覚まし、いつも通りの自室を見回す。
(……いつも通り……だな)
しかし、隣には――
昨日までのただの人形が立っていた。
だが、今は違う。
呼吸がある。
目が動く。
人間としての気配に満ちている。
(……まさか……)
低く、馴染み深い声が響く。
「恒一、驚くな」
(……くぜ……?)
その人型は、
180cmほどの高さで、
堂々と立っている。
黒髪、落ち着いた顔立ち。
完全に一人の人間だ。
「説明は簡単だ。
俺は、この人形に宿り、現代に蘇った」
恒一は息を呑む。
(……魂だけで?
しかも現代に……)
久世は静かに頷く。
「お前の体はそのままだ。
干渉はしない。
俺は俺として、ここにいる」
(……つまり……俺の体は無傷で、
隣にくぜ本人がいる……ってことか)
久世は歩み寄る。
「これからは、状況に応じて俺も動く。
だが選択はお前だ。
誰を呼ぶか、どこで動くか、全て」
恒一は拳を握る。
(……俺が、制御する)
久世の存在が、静かに、
だが確実に部屋を満たす。
そして、初めての視線が交わる。
「……ようやく、顔を合わせられたな」
恒一は深く息を吸う。
(……とんでもないことになった……
でも、面白くなりそうだ)
外の光が、
新しい“二人の時代”を優しく照らす。
久世は、目を丸くして立ち尽くしていた。
「……これは……飯か?」
恒一が差し出したコンビニのおにぎりを、
久世は手に取る。
包装に目を丸くし、紙を剥がす。
「……なんだ、この紙……
火で炙らずに食えるのか……?」
恒一は笑いながら頷く。
「現代は火を使わなくても食べられるんだ。便利だろ」
久世は慎重に一口。
「………………!」
目を見開く。
「……うまい……!
何という簡略化……
だが、これはこれで味わい深い」
恒一は少しホッとしつつ、
隣の久世を見回す。
「じゃあ、ちょっと街を歩くか?」
久世は、少し戸惑いながらも歩き出す。
車やバイクが行き交う道路、
自動販売機の明かり、
スマホ片手に歩く人々——
「…………これは……戦場ではないな……
だが、戦場に通じる匂いはある……」
恒一は笑う。
「いや、戦場じゃないよ。普通の街だ」
久世は興味深げに、目を細める。
「……これが……現代か。
歩兵も鉄砲もいない、
だが兵の気配はある……
民の力、か……」
街角でジュースの自販機を指さす。
「……何だ、これは……飲み物か?」
恒一がボタンを押すと、缶が落ちてくる。
久世は驚き、思わず缶を両手で受け止める。
「……これは、兵糧より便利だな……!」
二人は笑いながら、ゆっくりと歩く。
久世は現代の便利さに驚きつつも、
目の奥にはいつもの鋭さがある。
(……だが、戦略を練るような目だ……
完全に現代に染まるわけではないな)
恒一は、微かに安心する。
(……久世も、楽しんでくれてるのか……)
夕暮れの街並みを歩きながら、
二人の距離は少しずつ縮まっていく。
武将と現代人。
だが、不思議と違和感はない。
久世が小さく呟く。
「……この街も、侮れぬな」
恒一は肩をすくめ、微笑む。
「まだまだ色々あるぞ」
二人は、ゆっくりと歩みを進めた。
現代という新しい戦場に向かって——
久遠クラブのグラウンド。
夕方の練習が始まる少し前。
恒一は、隣に立つ久世をちらっと見る。
「……いいか、くぜ」
「ここでは――」
「俺の親戚な」
久世は真顔でうなずく。
「承知した」
(絶対分かってねぇ顔だな……)
ベンチに近づくと、すでにメンバーが集まっていた。
アキトが最初に気づく。
「……誰だ?」
※アキトは恒一に興味を持って同じクラブに入団した。
恒一は軽く咳払い。
「えっと……親戚の、久世さん」
「ちょっと事情あって、しばらく一緒にいる」
空気が一瞬止まる。
誰もが久世を見ている。
背筋がまっすぐ。
目が異様に鋭い。
立ち姿が武将そのもの。
「……親戚?」
「やけに威圧感あるな……」
「モデルか何か?」
久世は静かに頭を下げる。
「世話になる」
その一言だけで、
なぜか全員が姿勢を正した。
(……なんでだよ)
監督まで無意識に背筋を伸ばす。
「……あ、ああ。よろしく」
アキトだけは目を細めている。
(……親戚、ね)
練習が始まる。
久世はベンチの端に座り、じっとプレーを見ている。
「……速いな」
ボールの軌道、走塁、守備の位置。
全部を一瞬で把握している目。
久世がぽつり。
「陣形が甘い」
恒一が小声で。
「ここ野球だからな」
「戦でも同じだ」
(同じなわけあるか)
その直後。
久世が指差す。
「次、盗塁来る」
――次の瞬間、本当に走者が走る。
「え!?今の読んだの!?」
メンバーがざわつく。
アキトがニヤッとする。
「……親戚にしては、
勘が良すぎないか?」
久世は静かに答える。
「戦場では、
次の一手を読むのが仕事だった」
沈黙。
「……戦場?」
恒一が即フォロー。
「えっと……ボードゲーム的な意味で!」
(苦しい!!)
だが誰も深く突っ込まない。
なぜか——
突っ込めない空気だからだ。
練習後。
誰かがぽつり。
「……久世さん、なんか守護神感あるよな」
「いるだけで負ける気しねぇ……」
久世は真顔で。
「勝つためにいる」
全員、無言でうなずく。
恒一は頭を抱える。
(……親戚設定、もう無理あるだろ)
アキトが小声で囁く。
「なあ恒一」
「その“親戚”――
普通じゃないだろ」
恒一は乾いた笑い。
「……まあな」
久世は夕焼けを見ながら静かに言う。
「いい軍だ」
「伸びる」
久遠クラブの面々は、なぜか誇らしげだった。
こうして——
武将が現代の野球クラブに混ざった日が始まった。
翌日。
久遠クラブの練習場。
ウォーミングアップが終わり、
軽い紅白戦が始まったその時だった。
久世が、静かにマウンドへ向かう。
「……え?」
「投げるの?」
「親戚さん、ピッチャー?」
ざわつくベンチ。
恒一は小声で。
「くぜ、軽くな」
久世は振り返り、真顔。
「軽くとは?」
(そこからかよ)
捕手が構える。
その瞬間――
空気が変わった。
風が、止まる。
鳥の声すら消える。
久世の立ち姿が、
ただの人間ではなくなる。
背中から立ち上るような――
鬼の風格。
「……なんだこの圧……」
誰かが呟く。
久世は一歩、踏み出す。
――ズンッ
地面が、わずかに震えた。
腕がしなる。
そして。
――バンッ!!!!
空気が破裂したような音。
ボールは消えた。
次の瞬間。
ドンッ!!!
ミットが吹き飛ぶ。
捕手が尻もちをつく。
「……え?」
「今の……見えた?」
「いや、音だけした……」
恒一でさえ目を見開く。
(……速すぎる……)
久世は淡々と。
「まだ遅いな」
(まだ!?)
捕手が震えながら構え直す。
久世の二球目。
――ヒュォン!!!
今度は軌道が歪んだ。
途中で沈み、
最後に跳ね上がる。
ミットが空を切る。
「スト……ライク……?」
誰も声が出ない。
久世が静かに言う。
「鉄砲よりは遅いが、十分だ」
(比較対象が戦国)
アキトは完全に確信していた。
「……人間じゃねぇ」
ベンチが騒然。
「プロレベルじゃねぇぞこれ!」
「漫画かよ!」
久世は首を傾げる。
「これでも抑えている」
恒一は頭を抱えた。
(親戚設定、完全に崩壊だろ……)
久世がふと恒一を見る。
「恒一」
「戦えるな、この軍は」
恒一は苦笑しながら答える。
「……戦う場所、野球だからな」
久世は少し考えてから。
「ならば、野球で勝つ」
その言葉に、
久遠クラブの全員がなぜか燃えた。
こうして――
鬼の投手が誕生した瞬間だった。
対外練習試合。
相手は地区でも強豪と呼ばれるクラブだった。
「久遠クラブ?聞いたことねぇな」
「新参だろ?」
観客も少なめ。
誰も、この試合が“語り継がれる日”になるなんて思っていなかった。
マウンドに立つ久世を見て、相手ベンチがざわつく。
「でけぇな……」
「助っ人か?」
捕手が構える。
その瞬間。
空気が沈んだ。
風が止まり、
鳥の声が消え、
まるで戦場の前触れのような静寂。
恒一が呟く。
「……始まるぞ」
久世が一歩踏み込む。
――ドンッ
地面が鳴る。
腕が振り抜かれた瞬間、
――バァン!!!!
雷のような音。
ボールは視認できなかった。
次の瞬間。
ズドンッ!!!
ミットが弾け飛ぶ。
捕手が後ろへ転ぶ。
「な……っ!?」
審判が遅れて叫ぶ。
「ス、ストライク!!」
相手打者の顔が引きつる。
「今の……見えたか?」
「いや……音しか……」
二球目。
軌道が途中で沈み、
最後に浮き上がる異様な変化。
空振り。
「ストライクツー!」
打者は完全に硬直している。
久世は淡々と腕を振る。
――バン!!
三球目。
バットが出る前にミットへ。
「ストライクスリー!」
――三振。
観客席が一拍遅れて爆発する。
「なに今の!?」
「プロでも無理だろ!!」
「化け物だ!!」
次の打者も。
次の打者も。
全員、なす術なし。
変化球?
剛速球?
そんな分類が無意味だった。
久世の球は――
戦場の一撃だった。
五回終了。
相手チーム無得点。
三振の山。
ベンチで相手監督が呆然。
「……あれ、どこから連れてきた」
観客のスマホが一斉に向く。
動画が撮られる。
拡散される。
《久遠クラブに化け物投手現る》
《球が消える》
《人間じゃない》
久世は静かに恒一へ戻る。
「弱いな」
恒一が即ツッコむ。
「強豪だぞここ!!」
久世は首を傾げる。
「戦場なら三息で終わっている」
(基準が戦国)
試合後。
相手選手が震えながら来る。
「……あの、どこのチームの方ですか」
久世は真顔。
「久遠クラブだ」
その日から。
地区で噂が回り始めた。
“鬼の投手がいるクラブ”
“ボールが消える”
“対戦すると心が折れる”
そして誰もが言う。
「久遠クラブとは、当たりたくない」
恒一は夕焼けのグラウンドで思う。
(……やっちゃったな)
内側で久世が静かに言う。
「戦とは、
最初に恐怖を植え付けるものだ」
恒一は苦笑。
「野球なんだけどなぁ……」
だが確かに。
この日、久遠クラブは――
伝説のチームになり始めた。
対外試合の帰り道。
久遠クラブのバスは騒がしかった。
「やばすぎだろ今日!」
「動画めっちゃ回ってる!」
「鬼の投手だってよ!」
盛り上がるメンバーたち。
ただ一人、恒一だけが黙っていた。
久世は窓の外を見ながら静かに言う。
「勝ったな」
その一言で、
恒一の堪忍袋が切れた。
「勝ったじゃねぇよ!!」
バスの空気が一気に凍る。
「やりすぎなんだよ、くぜ!!」
久世がゆっくり振り返る。
「何がだ」
「全部だよ!」
恒一は拳を握る。
「目立つなって言っただろ!」
「人間じゃない球投げてどうすんだ!」
久世は真顔。
「勝つために力を使っただけだ」
「それが悪いのか」
恒一が言葉に詰まる。
「悪いとかじゃなくて……!」
「限度ってもんがあるんだよ!」
久世は少し考える。
「戦場では、限度などなかった」
「生きるか死ぬかだけだ」
「だから全力で叩く」
その言葉に、
バスの中が静まる。
アキトが立ち上がった。
「……それがズレてんだよ」
久世の目がアキトを捉える。
「ズレている?」
アキトは真っ直ぐ詰め寄る。
「ここは戦場じゃねぇ」
「勝てばいい世界でもねぇ」
「お前の力は、
周りを壊すレベルだ」
久世は静かに言う。
「弱ければ壊れる」
「強ければ生き残る」
アキトは歯を食いしばる。
「だからそれが違うって言ってんだ!」
「野球は“殺し合い”じゃねぇ!」
沈黙。
久世は初めて、言葉に詰まった。
「……理解できん」
「勝負で手を抜く理由がない」
恒一が低く言う。
「くぜ」
「ここで求められてるのは
“生存”じゃない」
「競争と成長だ」
久世はゆっくりと目を伏せる。
「……難しい時代だな」
アキトが言い切る。
「時代じゃない」
「場所が違うんだ」
久世は初めて、
この世界のルールを突きつけられた気がした。
強さがそのまま正義にならない場所。
沈黙の中で、
バスは走り続ける。
久世は静かに呟いた。
「……では、どうすればいい」
恒一が答える。
「抑えろ」
「勝ちながら、人間の範囲で」
久世は、少しだけ目を細めた。
「それが……この時代の戦いか」
アキトが頷く。
「そうだ」
その瞬間、久世は初めて理解した。
この世界は、
力だけで制圧する戦場ではないということを。




