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久世家戦記・現  作者:
野球編
2/17

第一部 名を継ぐもの

 仕事を辞めた理由を、誰にも説明していない。

 説明できるほど、整理されていなかったからだ。

 地元の駅は、相変わらず小さい。

 改札を抜けると、少し古びた商店街が見える。


 主人公は、ため息をつく。

 戻ってきた、というより、止まった。

 数日後。

 散歩のついでに立ち寄ったグラウンド。


 「野球クラブ、メンバー募集」


 貼り紙は、色あせている。


 社会人、年齢不問。

 勝敗より、継続。


 その一文だけが、やけに目に残った。


 初参加の日。

 ユニフォームは揃っていない。

 バットもグローブも、年代バラバラ。

 元高校球児。

 肩を壊した人。

 ただ走るのが好きな人。

 共通点は、全員“途中で一度やめている”こと。


 主人公は、外野に入る。

 久しぶりのキャッチボール。

 ボールの感触が、思ったより重い。

 悪くない。


 紅白戦。

 ランナー二塁。

 打球が、ギリギリのところに飛ぶ。

 突っ込めば、取れる。


 でも――

 なぜか、足が止まる。


 一拍、遅れる。


 ボールは、フェンス手前でワンバウンド。

 失点は、最小限。

 ベンチから、誰かが言う。


 「ナイス判断」


 主人公は、首をかしげる。

 今の、判断だったか?


 その日の帰り道。

 理由は分からない。

 でも、不思議と疲れていなかった。

 勝ったわけでもない。

 評価されたわけでもない。


 それでも――

 少し、呼吸が楽だった。

 


 軽い気持ちだった。

 本当に、それだけだった。


 地元に戻って、時間を持て余して、

 たまたま見かけた貼り紙。


 それ以上でも、それ以下でもない。


 だから――

 最初に声をかけられた時、少し驚いた。


 「ねえ」


 振り返ると、同じユニフォームの男が立っている。


 年は同じくらい。

 体格は良く、肩幅が広い。

 どこか、ピリついている。


 「久世(ひさと)、だっけ」


 「……はい」

 名前を呼ばれただけなのに、

 なぜか空気が一段、重くなる。


 「さっきの外野守備」


 恒一は思い出す。

 フェンス際、無理をしなかったあの打球。


 「なんで、突っ込まなかった?」


 責めるような口調じゃない。

 でも、試すようでもある。


 「取れただろ」


 「……多分」


 「じゃあ、なんで行かない」


 恒一は、少し考える。

 正直、理由ははっきりしない。

 足が止まった。

 それだけだ。

 「ケガしたら、嫌だったんで」


 そう答えると、男は一瞬、目を細めた。

 「は?」


 周りの会話が、少し遠のく。


 「ここ、勝ち負け関係ないクラブだぞ?」


 「分かってます」


 「じゃあ尚更だろ。

 行ける球は、行けよ」


 言葉は正論だ。

 でも、その声には焦りが滲んでいる。

 恒一は、静かに言う。


 「続けたいんで」


 それだけ。

 男は、鼻で笑った。

 「……つまんねえ奴」


 そう言って、背を向ける。

 その背中を見ながら、恒一は思う。

 なんで、こんなに苛立たせたんだろう。


 ただ、突っ込まなかっただけなのに。

 練習が再開される。

 恒一は外野に戻る。

 ふと、さっきの男を見る。


 打撃練習。

 フルスイング。

 音が違う。

 当たれば、誰よりも飛ばす。


 でも――

 どこか、危うい。


 その瞬間。

 胸の奥に、微かな引っかかり。

 あの人、止まれない。

 理由は分からない。

 根拠もない。

 ただ、そう思った。


 久世恒一(ひさとこういち)は、まだ知らない。

 このクラブには、

 自分とは真逆の“選び方”をする人間がいることを。


 そしてその人間が、

 自分をやけに気にしている理由も。

 その日の帰り道。


 恒一は空を見上げる。

 夕焼けが、少し赤すぎた。

 これは、気分転換のはずだった。


 なのに――

 何かが、始まりかけている。


 

 次の練習日は、紅白戦だった。


 恒一は相変わらず外野。

 特別なポジションじゃない。


 でも――

 あの男は、やけに前に出る。

 声が大きい。


 「よし行こう!」

 「次、畳みかけるぞ!」

 「今の流れ、悪くねえ!」


 誰が指示したわけでもないのに、

 ベンチの空気が、その人に引っ張られていく。


 打順が回る。

 ランナー一塁。

 アウト一つ。

 監督代わりの年配者が言う。


 「無理しなくていいぞ」


 だが、その男はバットを握りながら、笑った。

 「いけます」

 迷いがない。


 初球。

 振らない。


 二球目。

 強く踏み込む。

 ファウル。

 観ている恒一は、なぜか胸がざわついた。

 あの人、流れを“作ろう”としてる。


 三球目。

 フルスイング。

 打球は、ライト線を破る。


 歓声。

 ベンチが湧く。

 走者がホームに突っ込む。

 三塁コーチは一瞬、迷った。


 でも――

 あの男が、腕を大きく回す。


 「行け!」

 結果は、アウト。

 惜しかった。

 本当に、紙一重。

 ベンチは静まる。

 恒一は、なぜか思う。

 悪くない判断だった。


 勝ちに行った。

 流れも、作った。


 でも――

 続けるなら、賭けすぎだ。

 守備交代。

 恒一の前に、その男が来る。

 ふっと、笑う。


 「な?」


 「……何がですか」


 「行かなきゃ、何も変わらない」


 自信に満ちた声。


 恒一は、少しだけ考えてから言う。

 「変えなくていい時も、あります」


 男の目が、わずかに鋭くなる。

 「それで、勝てるのか?」


 「分かりません」


 「俺は、分かる」

 そう言って、胸を叩く。

 「流れは、掴んだ奴のもんだ」


 その瞬間。

 恒一の中で、言葉にならない感覚。

 この人、前に出続けて生きてきた。


 下から。

 誰もいないところから。

 掴めるものは、全部。


 練習後。

 シャワー室の前。

 その男が、ふいに言う。

 「なあ、久世」


 「はい」


 「お前さ……

  背負ってないだろ」


 恒一は、少し驚く。

 「何を?」


 「何かをだよ」


 男は、照れ隠しみたいに鼻で笑う。

 「俺はさ、

  背負わないと前に出れない」


 それだけ言って、去っていく。

 恒一は一人残る。

 胸の奥で、何かが整理される。

 この人は、豊臣秀吉だ。


 ――とは、思わない。

 でも。

 人を巻き込み、流れを作り、

 前に出て掴み取る“型”。

 それだけは、はっきり感じた。

 久世恒一は、まだ知らない。


 このクラブには、

 歴史の「攻め方」を継ぐ人間がいることを。

 そして――

 自分が、まったく別の「型」を持っていることを。


 

 最初の公式戦


 久遠クラブにとって、初めての公式戦だった。

 相手は、全国大会常連。

 名前を出せば、知っている人も多い老舗クラブ。


 アップの時点で、空気が違う。

 ユニフォームは揃い、動きに無駄がない。

 声の出し方も、間が決まっている。

 ベンチで、誰かが小さく言う。


 「……場違いじゃね?」


 恒一は黙ってグラウンドを見る。

 強い。

 でも、怖くはなかった。


 試合開始。

 一回表、相手の攻撃。

 初球から、鋭い打球が飛ぶ。

 守備位置の間を抜けるヒット。

 続けて、送りバント。


 完璧。

 無駄がない。


 二点先制。

 ベンチは静か。

 焦っていない。

 ただ、当然の結果として受け入れている。


 一回裏、久遠クラブ。

 先頭は、例の男――

 前に出るタイプ。

 フルスイング。

 快音。


 フェンス直撃の二塁打。

 ベンチが一瞬、沸く。

 でも、続かない。

 後続が倒れ、無得点。


 恒一の打席。

 ランナー一塁。

 相手投手は、冷静だ。

 初球、外。


 二球目、低め。

 恒一は振らない。

 ここで打てば、流れが来る。

 誰もがそう思う。


 でも――

 恒一のバットは、動かない。


 三球目。

 内角。

 詰まりながら、転がす。

 ゴロ。

 二塁アウト。

 一塁は、残る。

 進塁打。


 ベンチは、拍手しない。

 観客も、盛り上がらない。

 ただ、試合は続く。


 三回、四回。

 点差は広がらないが、縮まらない。

 相手は焦らない。

 久遠クラブも、崩れない。


 中盤。

 秀吉継ぎの男が、再び打席に立つ。

 ランナー二、三塁。

 ここだ。

 誰もが、そう思う。


 初球。

 見送る。


 二球目。

 振り抜く。

 ファウル。

 スタンドがざわつく。

 流れを、掴みに行く。

 恒一は、胸の奥がざわめいた。


 やりすぎるな。

 理由は分からない。

 ただ、そう思った。


 三球目。

 ――強振。

 打球は、高く上がる。

 でも、伸びない。

 センターフライ。

 無得点。

 ベンチに戻る時。

 男は、歯を食いしばっている。


 試合は、そのまま進み――

 0対2。

 負けた。


 でも。

 相手ベンチが、少しざわついている。


 「思ったより、しぶといな」


 「ミス、待ちか」


 試合後。

 相手の監督が、久遠クラブの代表に言う。


 「……嫌なチームですね」


 誉め言葉だ。

 恒一は、ベンチで汗を拭く。

 負けた。

 でも、何かは残った。

 秀吉継ぎの男が、隣に座る。

 「なあ、久世」


 「はい」


 「今日の俺、どうだった?」


 恒一は、少し迷ってから答える。

 「……強かったです」


 間違いじゃない。

 「でも――」

 男は、続きを待つ。

 恒一は、静かに言う。

 「次が、なくなる強さでした」


 男は、何も言わない。

 ただ、遠くを見る。

 久遠クラブは、負けた。

 でも。

 続く負けだった。

 


 とある公式戦にて


 相手クラブの名前を聞いた瞬間、空気が変わった。

 全国常連。


 しかも――噂がある。


 「織田信長の継ぎ手がいる」


 誰も口には出さない。

 でも、全員知っていた。


 試合前の整列。

 相手ベンチの奥。

 一人だけ、視線を外さない男がいる。

 細身。

 笑っているようで、笑っていない。


 恒一は、直感で分かった。

 あれだ。


 試合開始。

 一回表、久遠クラブの守備。

 先頭打者。

 初球。


 ――打球が、消えた。

 低いライナー。


 風を切る音だけ残して、外野を抜ける。

 スタンドがざわつく。


 続く打者。

 バントかと思わせて、強打。

 守備が間に合わない。

 二点。


 まだ、アウトが取れない。

 ベンチで、誰かが呟く。


 「……別格だろ」


 一回裏。

 久遠クラブは、無得点。

 相手投手は、淡々としている。


 二回。

 その男が、打席に立つ。

 織田信長の継ぎ手。

 名前がコールされる。

 ――織田、アキト。

 軽く帽子に触れて、構える。


 初球。

 見送る。

 完璧なストライク。

 でも、動じない。


 二球目。

 ――振った。

 音が違う。

 打球は、高く、速く、遠く。

 フェンスを越える。

 静まり返る。

 ホームラン。


 アキトは、走りながら、こちらを見ない。

 まるで、

 「当然だろ」

 と言わんばかりに。


 三回。

 点差は、0対5。

 久遠クラブは、まだ崩れていない。

 でも、押されている。


 四回裏。

 秀吉継ぎの男が、打席に立つ。

 ランナー一塁。

 彼は、笑っている。

 でも、目が違う。


 初球。

 見逃し。


 二球目。

 ファウル。


 三球目。

 ――空振り。

 歯を食いしばる。

 恒一は、嫌な予感がした。

 その力、使うな。

 でも、声にはならない。


 四球目。

 内角。

 振り切った。

 体が、前に流れる。

 打球は、痛烈。


 でも――

 詰まる。

 ショート正面。

 ダブルプレー。

 ベンチに戻る途中。

 秀吉継ぎは、膝に手をついた。

 呼吸が荒い。


 五回。

 守備。

 送球が、逸れる。

 簡単な捕球で、ボールを落とす。

 エラー。


 「……大丈夫か?」


 声をかけても、返事はない。

 次の打席。

 再び、秀吉継ぎ。


 点差は、0対6。

 ここで打たなければ、終わる。

 誰もが、そう思った。


 初球。

 ――フルスイング。

 空振り。


 二球目。

 また、振る。


 三球目。

 力任せ。

 バットが、止まらない。

 体が、制御を失っている。


 四球目。

 振った瞬間。

 ――音が、鈍い。

 バットが、地面に落ちる。

 秀吉継ぎは、その場に崩れた。


 試合が止まる。

 駆け寄る仲間。

 彼は、笑っていた。

 無理に。


 「……まだ、やれる」


 その時。

 相手ベンチから、声が飛ぶ。

 低く、静かな声。

 織田アキトだ。


 「やめとけ」

 全員が、固まる。 


 「その継ぎ方は、国を焼く」

 久遠クラブの誰も、返せない。


 試合は、そのまま――

 コールド負け。


 試合後。

 織田アキトは、恒一の前で立ち止まる。

 「お前、継ぎ手じゃないな」


 恒一は、否定しない。


 「でも、見てる」

 アキトは、少しだけ笑った。

 「……一番、怖いな」


 救護室。

 秀吉継ぎは、天井を見ている。

 「なあ、久世」


 「はい」


 「俺、間違ってたか?」


 恒一は、ゆっくり答える。

 「強さは、間違ってません」

 「でも――」

 「急ぎすぎました」

 秀吉継ぎは、目を閉じた。


 

 照明は、もう半分しか点いていない。

 久遠クラブのグラウンド。

 夜風が、土の匂いを運んでくる。


 久世恒一は、一人だった。

 ケージの前。

 マシンは止めている。

 バットだけを持って、素振り。


 ブン。

 音は、軽い。


 もう一度。

 ブン。


 さっきの試合が、頭から離れない。

 打てなかった自分。

 倒れた秀吉継ぎ。


 そして――織田アキト。

 「怖い」

 その感覚だけが、残っている。


 恒一は、構えを変える。

 少し、低く。

 足の位置を、わずかに開く。


 ブン。

 今度は、音が違った。


 「……ふうん」

 背後から、声。

 恒一は、振り向かない。

 分かっていた。


 「帰ってなかったんだな」


 「お前もな」

 織田アキトは、フェンスに寄りかかっている。


 グラブも、バットも持っていない。

 ただ、見ているだけ。

 「一人練習、嫌いじゃない」


 アキトは言う。

 「嘘つかないから」


 恒一は、また構える。

 「見てて面白いか?」


 「まあな」


 ブン。

 アキトは、首を傾げた。

 「……振りすぎだ」


 恒一は、止まる。

 「それ、よく言われる」


 「だろうな」

 アキトは、前に出てこない。

 距離を保ったまま、続ける。

 「お前、勝ちたいと思って振ってる」


 「当たり前だろ」


 「違う」

 即答だった。


 「勝つやつは、振らない」


 恒一は、黙る。

 アキトは、夜空を見上げる。

 「信長はな」


 「全部、壊したがると思われてる」


 少し、間。

 「でも、本当は違う」

 「壊す前に、見切る」


 恒一は、バットを下ろした。

 「じゃあ、あんたは?」


 アキトは、少しだけ笑う。

 「俺は、振らない」

 「必要になるまで」


 沈黙。


 風が、ネットを揺らす。

 恒一が言う。

 「……俺は、何も憑いてない」


 アキトは、初めて、恒一を見る。

 真っ直ぐ。

 「だから、厄介なんだよ」


 「?」


 「継ぎ手は、過去を借りてる」

 「お前は――」


 言いかけて、止める。

 「いや、まだ言わない」


 アキトは、背を向ける。

 「久世」

 「次、当たる時」

 フェンス越しに、振り返る。

 目が、鋭い。

 「振るな」

 「それだけ覚えとけ」

 そのまま、歩いていく。


 足音が、遠ざかる。

 グラウンドに、また一人。

 恒一は、バットを置いた。

 構え直す。

 今度は――

 振らない。

 夜風が、少しだけ、優しくなった。


 

 家は、もう静かだった。

 玄関の灯りだけが点いていて、居間のテレビは消えている。

 久世恒一は、音を立てないように自室へ戻った。


 ドアを閉める。

 カチ、と小さな音。

 ベッドに腰を下ろす。

 グラブを床に置いて、ユニフォームを脱ぐ。


 ……なのに。


 『お前は――』


 そこで、止まった言葉。

 アキトの声が、頭から離れない。

 恒一は、天井を見上げる。

 薄い染み。


 子供の頃から変わってない。


 「……なんだよ」

 独り言。


 『継ぎ手は、過去を借りてる』

 『お前は――』


 続きは、言われなかった。

 でも、言われなかったからこそ、引っかかる。


 借りてる。

 過去を。


 秀吉。

 信長。

 名前だけで、空気が変わる存在。


 じゃあ、自分は?

 恒一は、無意識に右手を見る。

 バットを振る手。


 「……俺、何もないよな」


 誰かの血。

 誰かの名。


 どれも、持ってない。

 なのに。


 『だから、厄介なんだよ』


 その言葉が、胸に刺さる。


 厄介。

 強い、じゃない。

 特別、でもない。

 ただ――

 扱いづらい。


 恒一は、ゆっくり息を吐いた。

 「……振るな、か」


 振らない。

 それは、逃げじゃないのか?

 でも。

 試合で見た。

 アキトは、ほとんど振っていない。

 それなのに、誰よりも――場を支配していた。


 振らないのに、勝っていた。

 「……ああ、そうか」


 小さく、呟く。

 振らないってのは。

 「信じてる」ってことか


 球を。

 流れを。

 自分の立つ場所を。

 だから、無駄に動かない。

 恒一は、ベッドから起き上がる。


 壁に立てかけたバットを見る。

 「俺は……」


 過去を借りてない。

 名前も、背負ってない。

 だったら。

 今を、見るしかない。

 振らずに。

 逃げずに。

 天井の染みが、少しだけ違って見えた。

 恒一は、電気を消す。

 暗闇の中。

 アキトの言葉の続きが、ようやく形になる。


 『お前は――未来を打つ』

 まだ、誰にも言われてない言葉。

 でも、それでいい。

 久世恒一は、目を閉じた。

 


 朝


「起きたのは、俺じゃない」

 ――起き上がった。


 目が覚める前に、体が先に動いた。

 「……?」


 久世恒一は、ベッドの上で半身を起こした状態のまま、固まる。


 寝起き特有の重さが、ない。

 軽すぎる。

 足が、床につく。

 立つ。


 ――違う。

 「……待て」


 声が、少し遅れて出た。

 止まらない。

 自分の意思が、一拍遅れている。

 洗面所へ向かう足取り。

 無駄がない。


 静かで、正確で――

 野球の動きじゃない。


 「……誰だよ」


 鏡の前に立つ。

 映るのは、間違いなく自分の顔。

 久世恒一。


 なのに。

 目が、違う。

 どこを見ているか分からないのに、

 全部を把握している目。


 右手が、自然に伸びる。

 タオルを取る。

 顔を拭く。

 その所作が――

 異様に丁寧だった。


 「……やめろ」


 心臓が、少しだけ速くなる。

 恐怖じゃない。

 既視感。

 どこかで、知っている。

 そのとき。

 頭の奥で、音がした。

 声じゃない。

 気配。


 ―― 久しいな。


 はっきりした言葉じゃないのに、

 意味だけが、直接流れ込んでくる。


 「……誰だ」


 問いかけた瞬間。

 体の主導権が、ふっと戻る。

 膝が、わずかに震えた。

 鏡の中の目が、元に戻る。

 呼吸が、荒くなる。


 「……幻覚、じゃないよな」


 スマホを見る。

 時間は、いつも通り。

 世界は、何も変わってない。


 ――変わったのは、中だけだ。

 もう一度、頭の奥。

 今度は、何も聞こえない。

 でも。

 残っている。


 誰かが、確かに“いた”感覚。

 触れただけで、深くは入ってこなかった存在。

 恒一は、洗面台に手をつく。


 「……継ぎ手、じゃない」


 秀吉や信長の、あの圧じゃない。

 主張しない。

 前に出ない。

 なのに。


 支配する動きだけは、完璧だった。

 不意に、昨夜の言葉がよぎる。


 『未来を打つ』


 「……冗談きついんだって」

 そう言いながら。

 恒一は、なぜか確信していた。

 これは偶然じゃない。

 久遠クラブとも、継ぎ手とも、別の線だ。

 そして――


 「……俺の中に、最初からいた?」


 答えは、返らない。

 けれど。

 胸の奥で、何かが静かに笑った気がした。

 


 「あれ、久世……なんか違くないか?」


 グラウンドに、いつも通りの朝が来る。

 土の匂い、金属バットの音、軽い笑い声。


 ――全部、いつも通り。


 久世恒一だけが、

 いつも通りじゃなかった。


 「じゃ、アップ始めるぞー」

 掛け声と同時に走り出す。


 ……速い。

 いや、単純なスピードじゃない。

 ブレがない。

 着地、重心移動、呼吸。

 まるで最初から“最短距離”を知っているみたいな走り。


 「……なぁ」

 横を走っていたチームメイトが、小声で言う。

 「久世、今日やけに静かじゃね?」


 恒一は答えない。

 答えないというより――

 聞こえてないみたいだった。


 アップが終わり、キャッチボール。

 ボールが、伸びる。

 「……え?」

 ミットを構えた相手が、思わず声を漏らす。


 音が違う。

 乾いた、芯を喰った音。

 「ちょ、久世……昨日までこんな球じゃなかっただろ」


 恒一は、首をかしげる。

 「……そうか?」


 自分では、分からない。

 体が勝手に最適解を選んでいる感覚。


 次は、バッティング。

 カキン。

 一打目。

 軽く合わせただけなのに、

 打球が一直線にフェンス際まで伸びる。


 「……は?」

 ざわつくグラウンド。


 二打目。

 同じコース。

 同じ角度。

 再現性が異常だった。


 「おい……」

 監督役の年長者が、眉をひそめる。

 「久世、今日どうした」


 「いや、別に……」

 恒一は正直に言う。

 「なんか、朝から体が軽いだけで」


 その瞬間。

 ピタッ。

 背後の視線を感じた。

 振り返らなくても分かる。

 織田アキトだ。


 アキトは、じっと恒一の背中を見ている。

 表情は、読めない。

 「……なぁ、久世」


 練習の合間、ぽつりと声をかけられる。

 「今、自分で打ってる感覚あるか?」


 「え?」


 「ボールを“見てから打ってる”んじゃないだろ」


 図星だった。

 恒一は、一瞬言葉に詰まる。

 「……正直、分かんない」

 「気づいたら、そこにバットが来てる」


 アキトは、少しだけ目を細める。

 「……それ、継ぎ手の入り方じゃない」


 心臓が、跳ねた。

 「じゃあ、なんだよ」


 少しの沈黙。

 周囲の音が、遠くなる。

 アキトは、低く言った。

 「“目覚めかけ”だ」


 「……は?」


 「まだ名乗らないタイプのやつだ」

 「自分が前に出る気がない」


 アキトは、恒一の胸の辺りを見る。


 「でもな」

 「こういうのが一番厄介だ」


 「どういう意味だよ」

 アキトは、少しだけ笑った。

 でも、目は笑ってない。


 「本人が、自分じゃなくなる瞬間に気づけない」


 その言葉と同時に。

 恒一の指が、無意識にグリップを握り直す。

 ――正しい位置で。


 「……やっぱり」

 アキトが、確信したように呟く。

 「久世、お前」

 「もう始まってるぞ」


 久遠クラブの空気が、

 ゆっくり、しかし確実に変わり始めていた。



 久遠クラブ 公式戦・中盤


「それは“考えた采配”じゃなかった」


 点差は、拮抗していた。

 相手は日本大会常連。

 無駄がなく、隙がない。


 五回裏。

 久遠クラブの攻撃。

 ランナー一塁、ノーアウト。

 ベンチは、静かだった。

 監督役がサインを出す前に、

 恒一はバットを肩に担いだまま、グラウンドを見ていた。


 ……違和感。

 投手の立ち位置。

 二遊間の距離。

 外野の一歩目。

 全部が、一本の線で繋がって見える。

 (――ここ)


 理由は分からない。

 でも、「今じゃない」と体が言っている。

 恒一は、ふっと手を上げた。


 「……?」

 ベンチが一瞬、戸惑う。

 恒一は振り返り、短く言った。


 「次、送らない方がいい」


 空気が止まる。

 「は?」

 「久世、何言って——」


 その瞬間。

 相手投手が、セットを外した。

 ――癖だ。


 恒一は、無意識に気づいていた。

 “牽制の直後は、必ず甘く入る”


 「……行け」


 誰に言ったのかも分からない一言。


 次の球。

 カキン。

 打球は、三遊間を破る。

 ランナー二塁へ。

 スタンドが、どよめく。


 「……今の、サイン出てたか?」


 ベンチがざわつく。

 恒一は、何も答えない。

 答えられない。


 選んだ感覚が、ない。

 続く打者。

 恒一は、バットを置き、ランナーを見る。

 (……ここも違う)


 相手捕手の構えが、わずかに高い。

 風が、逆。


 「……打て」

 小さく呟いた。


 強攻。

 結果は、犠牲フライ。

 久遠クラブ、先制。

 ベンチが一気に沸く。

 「ナイス判断!」


 「久世、今の読んでたのか!?」


 恒一は、息を整えながら首を振る。

 「……読んでない」


 その時。

 ベンチの端。

 織田アキトが、腕を組んだまま、低く呟く。

 「……やっぱり」

 誰にも聞こえない声。

 「采配が“個人”の視点じゃない」


 アキトの目には、

 戦場全体を見渡す指揮官の影が映っていた。

 そして、試合終盤。

 恒一は、ふと気づく。


 自分の心拍が、

 自分のものじゃないリズムで刻まれていることに。

 (……誰だ)


 問いかけても、返事はない。

 ただ、静かな確信だけが残る。

 ――勝てる。


 久遠クラブは、この試合を制した。

 だが本当に動いていたのは、

 スコアボードではなかった。

 久世恒一の中の“何か”が、

 初めて試合を指揮した瞬間だった。


 

 「視点が、外れる」


 ――おかしい。


 久世恒一は、はっきりそう思った。

 見えている。

 グラウンドも、白線も、ベンチも。


 なのに——


 体の感覚が、ない。

 指が動く。

 足が踏み出す。

 呼吸が整えられる。

 それら全部が、

 「自分がやっている」という実感を伴っていなかった。

 (……待て)


 声を出そうとして、気づく。

 口が動かない。

 代わりに、低く落ち着いた声が、喉から出た。


 「……相手の四番、次は外を捨てる」


 え?

 (誰だ、今の)


 恒一は、自分の後頭部の後ろから世界を見ている。

 ほんの一歩、

 自分の体から離れた位置。

 第三者。


 まるで——

 自分が“観客席”に押しやられたみたいに。

 体は、迷わない。

 相手ベンチを一瞥し、

 内野陣に短い指示を送る。

 (違う……俺は、こんな指示の出し方を知らない)


 それなのに。

 選手たちは、なぜか従う。

 言葉に、重みがある。

 次の打球。


 ——予想通り、内野ゴロ。


 アウト。

 ざわめき。

 恒一は、ただ見ている。

 自分の体が、

 他人の人生みたいに動くのを。

 (やめろ)

 (戻れ)


 心の中で叫ぶ。

 返ってきたのは、

 声じゃなかった。

 感情だった。


 ――静けさ。

 ――覚悟。

 ――無数の生と死を見送った者の、冷えた優しさ。

 (……武将だ)


 確信した瞬間、

 視界が一瞬、揺れる。

 戦場。

 血。

 叫び。

 (違う、見るな——!)


 だが、体は微動だにしない。

 むしろ、馴染んでいる。


 「……次で、決める」


 その言葉を最後に。

 恒一の意識は、

 さらに一歩、後ろへ引きずられた。


 今や彼は、

 完全な第三者だった。

 久世恒一の体を使い、

 久世恒一ではない“誰か”が、

 試合を終わらせにいく。

 そして恒一は思う。

 (——この人)

 (俺の体を、壊すつもりだ)


 それでも、

 なぜか恐怖より先に、

 懐かしさが胸を締めつけた。

 ――知っている。

 ――この背中を。


 

 「それは、久世じゃない」


 マウンドに立つ久世恒一を見て、

 最初に異変を感じたのは——織田アキトだった。

 (……違う)


 フォームは同じだ。

 投げ方も、癖も、呼吸の間も。

 なのに。

 久世の立ち方だけが、

 “人を見下ろす高さ”を持っていた。


 アキトはベンチを出る。

 誰も止めない。

 なぜなら、皆も感じていたからだ。


 ――久世が、遠い。


 マウンドの後ろ、

 捕手のさらに後方で、アキトは声を上げる。

 「……今の久世は、久世じゃない」


 一瞬、空気が止まる。


 恒一は振り向かない。

 だが——

 口元が、ほんのわずかに動いた。

 笑った?


 アキトは続ける。

 声を張らず、ただ断言するように。

 「俺は知らない。

  でも、あれは“人が投げる球”じゃない」


 マウンド上の久世が、ボールを握り直す。

 その仕草が、異様に落ち着いている。

 捕手がサインを出そうとするが——

 久世は、首を振らなかった。


 代わりに、

 指一本でサインを“上書き”した。

 ベンチがざわつく。

 (久世が……指示を?)


 次の瞬間。

 ――投球。

 速い。

 だがそれ以上に、

 “狙って外している”精度。

 バットが、空を切る。

 ストライク。

 アキトは、確信した。

 (……やっぱりだ)


 あれは、

 野球をしている人間の目じゃない。

 戦をしてきた者の目だ。

 アキトは、低く言った。 

 久世にではない。

 この場にいる全員に向けて。


 「——何かが、投げてる」


 その言葉に、

 久世恒一の体が、わずかに硬直する。

 内部で。

 (……やめろ)


 恒一の声が、

 やっと、内側で響いた。

 (それ以上、出るな)


 返ってきたのは、

 静かな、確かな意志。


 ――まだだ。

 ――この腕は、使える。


 久世恒一の視界が、

 さらに遠ざかる。

 マウンドに立つ“それ”は、

 次の球を選んでいた。

 相手の心を折るための、一球を。

 アキトは歯を食いしばる。


 「……久世」


 呼びかけても、

 もう届かない。

 これは、試合じゃない。

 久世恒一の身体を賭けた、

 主導権争いだ。


 

 暗い。

 音が、遠い。

 恒一は、どこにいるのか分からなかった。

 体も、重さも、温度もない。

 ただ——意識だけが浮かんでいる。


 (……ここは)


 返事はない。

 代わりに、足音がした。

 ひとつ。

 砂利を踏むような、乾いた音。


 (誰だ)


 振り向こうとして、気づく。

 ——首が、ない。

 正確には、

 “向くという概念”が存在しない。


 それでも。

 背後に、確かに何かがいる。


 「静かだな」


 低い声。

 怒っていない。

 優しくもない。

 ただ、長く生きた声。


 恒一の意識が、わずかに震える。

 (……お前が、俺の体を)


 「奪った、か?」


 先に、言われた。

 恒一は、言葉に詰まる。

 (違うなら、何だ)


 少し、間があった。


 「借りている」


 その言い方が、

 あまりに当然で。

 恒一は、背筋が冷える感覚を覚えた。

 (……名を言え)


 必死に、意識を絞る。


 (お前の、名前だ)

 笑った気配はない。

 だが、納得した気配があった。

 「——そうだな」

 足音が、近づく。

 「お前がここまで来たなら、

  名を伏せる意味もない」


 恒一の視界が、

 一瞬だけ、開ける。

 桜。

 城。

 血に染まった土。

 そして。

 片腕のない男の背中。


 「久世くぜ


 名前が、落ちる。


 「それが、俺の名だ」


 恒一の意識が、激しく揺れた。

 (……嘘だ)

 (そんな名前、偶然だ)


 だが、続く言葉が、

 逃げ道を塞ぐ。

 「奇縁だな、恒一」

 呼ばれた。


 初めて、正確に。

 「お前は俺と同じ名を持ち、

  同じ場所に立った」


 声が、近い。

 「だから俺は——

  お前の体に、応えただけだ」


 (やめろ……)


 「安心しろ」


 静かな断言。

 「俺は、お前を消さない」


 恒一は、叫ぶ。

 (じゃあ、何をする!)


 間。


 そして、答え。

 「——託す」


 その瞬間。

 恒一は理解してしまった。

 この存在は、

 支配者じゃない。

 役目を終えられなかった者だ。

 「この体が壊れる前に、

  “久世”を終わらせる」


 視界が、再び遠ざかる。


 グラウンドの音。

 歓声。

 投球モーション。

 (待て!

  それは俺の体だ!)


 返ってきたのは、

 わずかに滲んだ声。 


 「……すまんな」

 「だが、この一球だけは——

  俺に投げさせろ」


 恒一は、

 自分の体が振りかぶるのを、

 外側から、ただ見ていた。



 「主導権」


 振りかぶる腕。

 指にかかる縫い目。

 踏み込む感触。


 それら全部を、

 恒一は——外から見ていた。

 (……違う)


 声にならない声が、

 内側で震える。

 (それは、お前の腕じゃない)


 マウンドの上。

 久世の意識が、わずかに揺れた。


 「……まだだ」


 (違う)


 恒一は、初めて逃げなかった。

 (確かに、お前は強い)

 (確かに、俺は借り物だ)


 視界の奥で、

 戦場の記憶がうねる。

 血。

 叫び。

 決断。


 だが——

 (ここは、戦じゃない)


 その言葉が、

 くさびのように打ち込まれる。


 久世の動きが、止まる。


 「……ほう」

 感心した気配。

 「言うようになったな」


 (言わせてもらう)

 恒一は、意識を踏みしめる。

 足場なんてないはずなのに、

 確かに立っている感覚があった。

 (ここは、俺の場所だ)


 マウンド。

 グラウンド。

 この時代。

 (俺が選んで、

  俺が立った場所だ)


 久世の記憶が、

 押し寄せようとする。

 だが、恒一は退かない。

 (お前は“託す”って言った)

 (なら——)

 (奪うな)

 (渡せ)


 一瞬。

 完全な、静止。

 久世の声が、低く響く。


 「……なるほど」


 腕の感覚が、

 戻ってくる。


 指。

 肩。

 呼吸。

 全部が、

 自分のものになる。

 マウンドの上。

 久世恒一は、

 ゆっくりと顔を上げた。


 目が、変わっている。

 さっきまでの“冷たさ”が消え、

 迷いを含んだ、生の目。

 捕手が戸惑う。


 「サ、サイン……」


 恒一は、首を振る。


 「……俺が投げる」


 その言葉に。

 ベンチのアキトが、

 小さく息を吐いた。


 「……戻ったな」


 内部で。

 久世の声が、遠くなる。


 「いい目だ、恒一」


 責めるでもなく、

 悔しがるでもなく。


 「忘れるな」


 最後の言葉。

 「主が折れれば、

  器は、誰のものにもなる」


 ——消えた。

 恒一は、深く息を吸う。

 (……俺は)

 (俺は、俺のままで投げる)


 構える。

 一球。

 速くない。

 派手じゃない。

 だが——

 芯を外す、意思の球。

 打球は、凡打。

 アウト。

 歓声が上がる。

 恒一は、マウンドで小さく呟いた。


 「……ありがとう」


 誰に向けた言葉かは、

 自分でも分からなかった。




 

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