法擁都市に咲く花編『第二章 Pax Botanica』2
「あの、どなたですか?」
不意に声をかけられ、肩が大きく揺れた。
振り返ると、女が立っていた。
「観光で、いろいろ町を見て回っていたんです。……その、花が綺麗で、あまり見かけない色をしていたのが珍しくて」
必要以上に不信感を煽らないように気を付ける。
なるべく淀みなく、かといって滑らかすぎず、自然に。
身振り手振りも交えて。
驚いてしまったが……もっと慌てたほうがよかったか。
「そうでしたか……」
最低限の警戒に留められてはいるようだ。
女は「あ」と、手帳を指さした。
その表情は張力を緩めていた。
「何か知っているんですか?知り合いが落としてしまったみたいで、会ったら渡そうと思って持ってたんです」
こちらの声は聞こえているようだったが、考えこんでしまったようで、黙ってしまった。
面倒なことにならないといいが。しょうがない。
「――、――――」
何か喋ったようだが、声の小ささも相まって、風の音にかき消されて聞こえない。
読しん術でもあればわかったのだが。
ぽつぽつとぬるい感覚が肌に当たりはじめた。
雫は、彼女を思考の世界から取り戻した。
彼女に促されて軒先まで避難する。
「私、幼馴染なんです」
お互いに説明はしなかったが、その人物について共通の認識を得ていた。
話を聞いているうちに、この包装の中身と、昨日の老夫婦の話を思い出した。
アルヴァも隅に置けないやつだ。文字通り、二人のために花を持たせてやろうか。
彼女は、『だいじなもの』と交換に傘を貸してくれた。
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――迎賓館前にて。
大して外に居たわけではないが、もうじき夜だ。
雨雲のせいでおよその時間すらわからないが、とにかく薄暗い。きっと、すぐに夜になる。
借りていおいてこんなこと言うのも憚られるが、傘というやつは非常に体験が悪い。
この世界においても、結局は、傘はどこまでも傘のままだ。
バサバサと傘を身震いさせて雨粒を払う。
水弾の雨から俺を庇ったその身は、想像よりも水を蓄えていた。
人間のほうがよほど濡れているのに、あるいはそうでないからそうしたのか。
大きな背中を紐でまとめて、館に入る。
ヤガミはうまくやってるんだろうか。
行き詰まると、つい、周りを見渡したくなる。
歓迎は期待していなかったが、ノックをすると、「入って」と、ドアを隔ててくぐもった声が聞こえた。
たまには、情報交換もいいだろう。交換する情報がないことに目をつぶれば。
意を決して部屋に入る。
なんというか、俺の部屋より豪華な感じだ。
たぶん、同じ造りだとは思うが、あの分厚い個別法一冊分広い、といったところか。
部屋の主は、こちらには一瞥もくれずに、机に向かっている。
「こっちは全然ダメ。そっちはどうだ」
ボールを投げてみる。
ヤガミは紙に印刷された何枚かの地図を見ていた。
いくつか種類があり、密度を表すように色が塗り分けられている。
交通量、予測違反率、実際の違反数、ポケットの発生数。
ここ一か月の、昨年以前数年分の同時期のもの、など。
「これ、どう思う?」
「どう思うって言われてもなあ。……そうだな、まず交通量と予測違反率は、通り沿い――特に、広場を貫くように門から庁舎にまっすぐ伸びている、法擁大通り――に分布が一致してるように見える。これは直感と近いな。人の接触が多いほどトラブルが起きやすいわけだから」
わざわざ言うほどのことでもなかった。
思考の整理と、悪あがき。「ふむ」とわざとらしく。
「……交通量とポケットは、お互いを避けるように分布している」
これも当然か。ディタのポケットはリソース節約のために人通りの少ない場所に皺寄せが来る。
あえて逆を考えると、交通量のわりに予測違反率が低いところとかはないか、探してみる。
さっきまで自分がいた、花の綺麗な家のある場所が目に入る。
「あ、そういえば。ここ、アルヴァの幼馴染がいて――」
なんとか誤魔化そうと思ったが、要領を得ない報告をしてしまった。
これは逆効果だ。ひとまず退散しよう。
「これ、コピーとってきていいか」
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――自室にて。
傘を入口付近に立てかけると、解放された気分になった。
気疲れしてしまった。雨なのも。
だが、なんだか今日は働いたなという心地でもあった。
ベッドに横たわり、カラーコピーした地図を眺める。
シーリングライトに透かして見ることができるな。
いくつかの組み合わせを試してみる。
国中に張り巡らされた道は、血脈にも思えた。
年を跨いだ予測データを重ねてみると、今年のものは特に勾配が緩やかに見える。
予測誤差が大きくなっているというのは本当らしい。
ポケットの予測違反率は低い。執行隊の警備は有効で、それが織り込まれているからなのか。
多少、面白くなってきたが、着想は特になかった。
頭に叩き込んで一晩寝かせるのも悪くないか。
資料をナイトテーブルに置く。
窓がガタガタと揺れる。ずっと鳴っていたはずの雨音が、ようやく意識に入ってくる。
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――翌日、昼、自室にて。
「そういうこと」
本部長には黙っといてもらったけど、ヒロを連れてきて正解だったかもしれない、ということ。
はっきりいって、あんまり仕事ができるタイプではないけど、なんというか、あいつは運がいい。
運とは言ったものの、実は全然正確じゃない。
動物的な感覚の使い方が変わってるというか、誰も通らないような隙間に入り込むのが上手いというか。
「一応、確認はするか」
出かける準備をする。
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――一方、時刻は戻り、朝。
水捌けのいい町は、それでも独特の土のにおいがした。
傘を返すために、昨日と同じ場所へ向かう途中だ。
ついでに、俺にも栞を作ってもらおうか。
特別、欲しいわけでもないが、ヤガミならそうするだろう。
情報は非対称。ならば、先手必勝だ。
もう、景色は目に映らなくなった。
紐を引くと、扉越しにドアベルの音が聞こえた。
少し間をおいて、錠の音、昨日と違う女。母と思わしき人物だった。
わけを説明し、傘を見せると、納得した様子だった。
「娘を呼びましょうか」
話のついでに、栞を頼もうと思ったが、こうなってしまうと筋書が違うな。
傘だけ渡して去ろうか。
「あ、ちょっと待っててね」
彼女は返事を待たずに、娘を呼ぶドアベルがわりになってしまった。
間際、その視線は俺の顔の横をかすめていた。
後ろを振り返ると、アルヴァがこちらへ向かって来ていた。




