第6話 動き出す影
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは冷たさだった。
背中に触れているのは石だ。
湿り気を帯びた、冷たい石の床。
肺に入り込んでくる空気は重く、鉄の匂いと、どこか焦げたような臭気が混じっている。
ゆっくりと目を開けると、視界は薄暗かった。
格子越しに差し込むわずかな光だけが、ここが地下だということを辛うじて教えてくれる。
「……っ」
体を起こそうとした瞬間、鈍い痛みが全身を走った。
鳩尾。
肋骨。
後頭部。
体のあちこちが、順番に思い出させてくる。
──カイム。
最後に見たのは、あの男の笑みだった。
「目、覚めたか」
低い声が、すぐ隣から聞こえた。
そちらへ視線を向けると、同じ檻の中に数人の男たちが座り込んでいるのが見えた。
痩せ細り、頬はこけ、目は濁っている。
衣服はぼろぼろで、ところどころ乾いた血が黒くこびりついていた。
「……ここは」
「地下牢だよ。災禍専用のな」
男は笑った。
だが、それは笑っているだけで、そこに感情はなかった。
「処刑待ち。あるいは見せしめ用。どっちに転ぶかは、上の気分次第だ」
喉がひりつく。
鉄格子の外では、鎧が擦れる音が規則的に響いている。
見張りがいるらしい。
「ヴァイスは……?」
「さあな。そいつは知らんが、お前と一緒に捕まった奴なら別の檻だ」
その言葉に、わずかに息が抜けた。
だが、安心している場合じゃない。
檻の奥に、ひとりの少年が座っていた。
壁にもたれかかり、膝を抱えている。
年は、十にも満たないだろう。
目は虚ろで、どこも見ていない。
「あの子は?」
「さてな。ここじゃ、罪状なんてなくても捕まる災禍は珍しくない」
男の言葉に視線を落とすと、少年の足首には重い鉄の枷がはめられていた。
細い足には、あまりにも大きすぎる鉄の輪。
「そう言うお前さんは?」
「……処刑される寸前のやつを助けた。それだけだ」
「あー……そりゃ、お気の毒様だな。なんというか、ドンマイ」
男は気まずそうに目を逸らし、それから小さく鼻で笑った。
「まあ、災禍が人間様の見せしめを邪魔したら、こうなるわな」
その声音には皮肉も怒りもない。
ただ、慣れがあった。
「……災禍はどこまで行っても災禍、か」
「そういうことだ。この世界の掟みたいなもんだ。慣れるんだな」
乾いた笑いが、石の壁に吸い込まれていく。
そのとき、鉄格子の向こうで足音が止まった。
「慣れる前にお前らは死ぬがな」
兵士の低い声。
格子越しに投げ込まれたのは、黒ずんだパンと、水の入った木桶だった。
「今日の餌だ。感謝しろよ、クズども」
鎧の音が遠ざかっていく。
誰もすぐには動かなかった。
やがて、さきほどの男がゆっくりとパンを拾い上げる。
それを半分に割り、少年の前へ置いた。
少年はしばらくそれを見つめていたが、やがて無言でかじりついた。
僕も、男に渡された残りを齧る。
乾いたパンは味がしなかった。
いや、もともと味などなかったのかもしれない。
ただ、腹に何かを入れるという行為だけが、まだ自分が生きている証のように思えた。
少しずつ頭に栄養が回り、霞がかかっていた視界がようやく輪郭を取り戻していく。
そこで初めて、周囲が見えた。
狭い石造りの空間。
低い天井。
湿気を含んだ空気が肌にまとわりつく。
鉄格子の向こうでは、兵士が退屈そうに壁にもたれている。
そして──
数十人の人間が、同じ空間に押し込められていた。
肩を寄せ合い、啜り泣いている者。
虚ろな目で天井を見つめている者。
膝を抱え、ぶつぶつと何かを呟き続けている者。
足首には鎖。
手首には縄。
誰も騒がない。
誰も助けを求めない。
もう、その段階は過ぎているのだ。
かすかな嗚咽と、鎖が擦れる音だけが断続的に響く。
絶望が、ひしめいていた。
あの日、あの時。
燃え盛る街を見て、僕の仲間だった人たちは笑っていた。
もし彼らが見ていた光景が、今僕が見ているこの光景に近いものだったのなら──
彼を否定したことは、
「……っ!」
頭を振って、考えを遮る。
あの日、彼らのしたことは間違っている。
それに、ユニカの行こうとしている道こそが正しい道だ。
少なくとも、僕はそう信じたい。
ふと、彼女の顔が浮かぶ。
僕が捕まったことで、彼女に危害は加えられていないだろうか。
そして、セリルやセラに迷惑がかかっていないだろうか。
その時、鉄格子の鍵が鳴った。
湿った地下牢に、その金属音だけがやけに大きく響く。
重たい錠が外される音に、檻の中の何人かがびくりと肩を震わせた。
やがて、錆びついた格子が軋みながら開く。
現れたのは、槍を肩に担いだ兵士だった。
無精ひげの生えた顔には、退屈そうな色が浮かんでいる。
「おい、ガキ。出ろ」
兵士が顎で指した先には、さっきまで壁にもたれていた少年がいた。
少年は顔を上げるが、すぐに視線を落とす。
何かを言うでもなく、ただ小さく体を縮めている。
兵士が苛立ったように舌打ちをした。
「聞こえねえのか。立て」
その腕を、乱暴に掴む。
少年の体が軽々と持ち上がり、引きずられるように格子の方へと引き寄せられた。
足首にはめられた鉄の枷が石床を擦り、耳障りな音を立てる。
その光景を、檻の中の誰もが黙って見ていた。
誰も声を上げない。
止めようともしない。
ただ視線だけが、兵士と少年の背中を追っている。
その沈黙が、逆に妙だった。
恐怖なのか、諦めなのか、それとも――もう慣れてしまっているのか。
分からない。
だが、その空気だけは、はっきりと感じ取れた。
少年が格子の外へ引き出されようとした、そのときだった。
「――その子に触るな」
気付いた時には、声が出ていた。
兵士の手が止まる。
ゆっくりと振り返った。
「……あ?」
僕は立ち上がる。
肋骨の奥で、鈍い痛みが広がる。
鳩尾のあたりも、まだ焼けるように痛んでいた。
それでも構わなかった。
兵士の目をまっすぐ見て、もう一度言う。
「その子に触るな」
兵士の眉が、ぴくりと動いた。
「災禍の分際で、命令してんじゃねえ」
次の瞬間、拳が飛んできた。
視界が弾ける。
何が起きたのか理解する前に、体が横へ吹き飛び、石の床に叩きつけられていた。
口の中に鉄の味が広がる。
肺に空気が入らない。
兵士は興味を失ったように鼻を鳴らし、再び少年の腕を掴んだ。
その細い体が、また引きずられる。
「……その子に触るな」
床に手をつき、なんとか体を起こす。
兵士が振り向いた。
「まだ言うか」
今度は蹴りだった。
腹を蹴り上げられ、体がくの字に折れる。
胃の奥から何かが込み上げ、視界が白く滲む。
それでも――
「……その子に触るな」
自分でも呆れるくらい、同じ言葉しか出てこない。
兵士の顔が、露骨に歪んだ。
「面倒くせえな」
別の兵士が檻の中に入ってくる。
拳。
蹴り。
鈍い衝撃が、何度も体に叩き込まれた。
背中。
腹。
顔。
どこを殴られているのかも、もうよく分からない。
石の床に倒れても、腕をついて体を起こす。
そのたびに、口が同じ言葉を吐き出した。
「……その子に触るな」
兵士たちが笑う。
「こいつ頭おかしいぞ」
「災禍はみんな狂ってるからな」
誰かが僕の髪を掴み、無理やり顔を上げさせた。
「そんなに死にてえのか?」
血が目に流れ込み、視界が赤く滲む。
その向こうで、少年が震えていた。
僕は唇を動かす。
「……その子に触るな」
一瞬、兵士たちの動きが止まる。
それから、ひとりが鼻で笑った。
「いいだろ」
「ガキは後回しだ」
兵士たちは僕の腕を掴むと、乱暴に引きずり上げた。
「代わりにこいつを使おう」
誰かが言う。
「ちょうどいい。今日の見世物が足りなかったんだ」
笑い声が上がる。
縄が手首に食い込み、背中を強く押された。
「運が良かったな。特別にチャンスをやる」
兵士が鼻で笑う。
「これから行くのはな、まあちょっとした闘技場ってやつさ」
肩を小突かれ、体が前へよろめく。
「勝てりゃ無罪放免だ」
「まあ――」
別の兵士が笑う。
「勝てた奴なんて、一人もいねえけどな」
笑い声がまた広がった。
僕の体は、そのまま暗い通路の奥へと引きずられていった。
◇◇◇
教会の一室は、昼だというのに妙に静まり返っていた。
厚い石壁に囲まれた小さな部屋で、窓から差し込む柔らかな光が丸い木のテーブルを照らし、その上に置かれたティーカップの縁を静かに光らせている。
セラはそのカップに口をつけることなく、ただ紅茶の表面に映る揺れない光をぼんやりと見つめていた。
向かいの椅子では、リンシアが背もたれに体を預け、足を組みながら窓の外を眺めている。
遠く街の方角から、兵士たちのざわめきがかすかに聞こえてきた。
その静かな空気を破ったのは、リンシアの何気ない一言だった。
「災禍の……ノアさんでしたっけ。どうやら捕まっちゃったみたいですね」
まるで天気の話でもするような調子だった。
セラの指先が止まる。
カップの中の紅茶がわずかに揺れ、その波紋がゆっくりと広がっていった。
「……そうですか」
短く答え、セラはゆっくりとカップをテーブルに戻した。
驚きはほとんどない。ただ、予想していた結果を聞かされたような冷たい諦めが、その声には滲んでいた。
リンシアはその様子を横目で眺め、少しだけ首を傾げる。
落ち着いていますね、とでも言いたげな視線だった。
セラはゆっくりと顔を上げる。
「驚く理由がありません」
短く言い、窓の方へ視線を向けた。
「災禍に関われば、必ず問題が起きる。それは昔から変わらない、この世界の現実です」
言葉を置くように続ける。
「今回も、それが証明されただけでしょう」
リンシアは小さく息を吐いた。
「随分とはっきり言いますね」
その言葉に、セラは椅子から立ち上がる。
窓際まで歩き、街を見下ろした。
遠くで兵士たちが慌ただしく動いているのが、ここからでも分かる。
「当然です」
背を向けたまま言う。
「そもそも、災禍を雇うこと自体が間違いだったのですから」
その声には、はっきりとした苛立ちが混じっていた。
リンシアは椅子に座ったまま肩をすくめる。
「でも、依頼を出したのはあなたですよ」
その言葉に、セラの肩がわずかに強張った。
ゆっくりと振り返る。
「……あなたが紹介したからです」
その視線は鋭かった。
「そして、災禍だと知っていたのに黙っていた」
言葉は静かだったが、はっきりと責める響きを帯びている。
リンシアはその視線を受け止めながら、わずかに目を細めた。
だが表情は崩れない。
「言ったところで、やめました?」
穏やかな声だった。
「あなた、あの時は父親を助けることで頭がいっぱいだったでしょう」
セラの眉がわずかに動く。
リンシアは椅子に深くもたれ、軽く肩をすくめた。
「だから私は、あえて言わなかったんです」
その言い方はあまりにもあっさりしていて、まるで責任を感じていないようだった。
セラの視線が、さらに鋭くなる。
「……理解できません」
低く言う。
「どうして、そこまで平然としていられるのです」
リンシアは窓の外へ視線を戻す。
街のざわめきが、少しだけ強くなっていた。
「平然としているわけではありませんよ」
そう言いながら、小さく笑う。
「ただ、少し冷めているだけです」
セラは何も言わない。
リンシアは続けた。
「あなたは災禍が嫌い。だから全部を災禍のせいにする」
そして軽く肩をすくめる。
「でも、人間だって似たようなものじゃないですか」
部屋の空気が、わずかに張り詰める。
セラの声が低く落ちた。
「違います」
リンシアが振り向く。
セラの視線は真っ直ぐだった。
「私は、災禍ではない」
その言葉には、揺るぎのない確信があった。
リンシアはその顔をしばらく見つめ、それから小さく笑う。
どこか楽しそうな笑みだった。
やがて、ふと思い出したように口を開く。
「そういえば」
セラの視線がわずかに動く。
リンシアは窓の外を見たまま続けた。
「ノアさん、闘技場に連れていかれるかもしれませんね」
セラの眉がぴくりと動く。
「……闘技場?」
「ええ」
リンシアは軽く頷いた。
「この街、表向きは平和ですけど、裏ではそういう見世物があるんですよ」
指先で窓枠を軽く叩く。
「捕まった災禍を戦わせる、ちょっとした娯楽ですね」
小さく笑う。
「勝てば無罪放免らしいですけど」
肩をすくめる。
「まあ、今まで勝った人はいないみたいですけどね」
部屋の中に沈黙が落ちた。
リンシアはそれ以上何も言わず、ただ外の街並みを眺めている。
セラは答えない。
ただ、リンシアの横顔をじっと睨みつけていた。
――その会話を。
教会の屋根の上で、二つの影が聞いていた。
瓦の影に身を潜めながら、ユニカが小さく息を吐く。
「闘技場、ね」
その声は低かった。
隣に立つ仮面の男が、わずかに顔を上げる。
「どうやら、あそこにいるみたいだな」
ユニカはゆっくりと立ち上がった。
街の中心を見下ろしながら、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「なら――行くしかないか」
仮面の男は何も言わない。
ただ静かに、街の奥にある建物を見つめていた。
昼の風が屋根の上を吹き抜ける。
ユニカは屋根の端へ歩み出ると、軽く首を鳴らした。
「ノア」
短く呟く。
そして、静かに笑う。
「勝手に死ぬんじゃねえぞ」
その言葉を残し、ユニカは屋根から飛び降りた。
仮面の男も、何も言わずにその後を追う。
昼の街の喧騒の中へ、二つの影が消えていった。




