第4話 踏み出した一歩
教会を出て、まだ朝の冷気が残る石畳を踏みしめた、その瞬間だった。
「──ノアさん、おでかけですか?」
リンシアの、どこか楽しげな声が響く。
ついさっきまでの交渉の余韻など、もうどこにも残っていなかった。
その先で、リンシアがゆっくりと前に躍り出る。
まるで散歩にでも来たかのような足取りで振り返った。
「案内なら任せてください。情報屋ですので」
にこりと笑うその顔は、相変わらず腹の底が読めない。
「それに──暗殺者はもう動き始めている可能性が高いですからね。のんびりしている暇はありませんよ、賢者様」
その言葉に、背筋がひやりとした。
本当に、もう動き出しているのかもしれない。
僕たちは、すでに後手に回っているのかもしれない。
「……なんてね。昼間はさすがに目立ちますし、可能性としてはほぼないかと」
リンシアは軽やかに踵を返し、まるでこの状況すら楽しんでいるかのように歩き出した。
僕は彼女から視線を外し、路地裏に座り込む人たちの姿を見る。
何人もいるが、誰一人として血色の良い顔はしていない。
――おそらく、数日前の僕も同じだった。
そんな僕を孤独から救ってくれたのが、彼──ダンケルだった。
この世界に来て間もない頃、彼は僕に多くのことを教えてくれた。
災禍としての生き方。
そして、僕たちがどれほど忌み嫌われている存在なのか。
それ以上に。
孤独な世界で、唯一僕に声をかけてくれた親友だった。
「ノアさん?」
気がつくと、立ち止まっていた僕を、リンシアが笑顔で覗き込んでいた。
「別に、なんでもない」
「ユニカさんと離れて、寂しいんですかー?」
「違う。彼女の旗は敵情視察には目立ちすぎると思っただけだ」
「敵情視察って言っても、町長宅の場所を確認するだけですよね?」
その問いには、沈黙で答えるしかなかった。
だが彼女は、僕の反応を気にする様子もなく、話題を切り替える。
「あんまりここに長居しない方がいいですよー?」
「……それは、どういう意味だ?」
「おっと。言い方が悪かったですね。ここは──」
リンシアの言葉を遮るように、路地裏の奥から警鐘のような音が鳴り響いた。
薄暗い雰囲気とは不釣り合いな音に、心臓が跳ね上がる。
恐る恐る目を向けると、人だかりが見えた。
その中心にあるのは、絞首台。
嫌な予感に目を逸らしかけたが、台の下に立つ兵士の声が、それを許さない。
「本日処刑を行うのは、ローザ夫人の衣服を盗んだ罪を犯した──」
「ノアさん、行きましょ──」
「憎むべき災禍だ!」
その号令とともに現れたのは、すでに縄を首にかけられた、やつれた赤髪の男だった。
両手は縛られ、このままでは結末は火を見るよりも明らかだ。
リンシアが僕の手を掴み、引き離そうとする。
だが、体が動かなかった。
「違う、俺はやってない!」
男の叫びは路地裏の壁に反響し、やがて消えた。
それでも、その声は耳の奥にこびりついて離れない。
「やってないんだ、信じてくれ!」
兵士が無言で、台の板を蹴り落とす準備をする。
群衆の中から、誰かが唾を吐いた。
「盗人が言い訳してらぁ」
「どうせ災禍だろ」
ざわめきは、当然のように男を切り捨てていく。
誰一人、疑問を持とうとしない。
リンシアの指が、強く僕の腕を掴んだ。
「……ノアさん。見ない方がいいです」
低く、冗談の色はなかった。
「下手に動けば、あなたも同じ場所に立つことになります」
わかっている。
ここで動けば目立つ。
災禍だと知られる可能性もある。
この街での立場を、すべて失うかもしれない。
それでも。
男の首元の縄が、やけに細く見えた。
震える喉。縛られた指先。
必死に生きたいと訴える目。
「誰か……助けて……」
力なく呟くその声。
――あの夜と同じだ。
炎に包まれた街。
助けを求める声。
何もできず、立ち尽くしていた自分。
気がつくと、僕は一歩、前に出ていた。
「ノアさん!」
リンシアの声が背中に刺さる。
だが、足は止まらなかった。
──次の瞬間、僕は男の体を抱え、兵士たちの前に立っていた。
一瞬、時が止まったような感覚。
背中を伝う一筋の汗だけが、世界が動いている証だった。
「……っ、誰だお前は!」
一人の兵士が叫ぶ。
それを合図に、怒号が重なった。
その圧に一瞬足が竦む。
だが、かぶりを振って恐怖を振り払い、地面を蹴った。
「待て!」
制止の声を背に、路地裏へと駆け出す。
強化したはずの脚が震えている。
まるで、自分の行動を信じられないと抗議しているかのように。
振り向くと、兵士たちはすでにかなり後方にいた。
代わりに、リンシアの姿は見えない。
――きっと、どこかに身を隠したのだろう。
息が焼ける。
腕の中の男が、かすれた声を漏らした。
「……あ、あんた……なんで……」
「話は後だ。しっかり掴まってくれ」
直後、男が僕の服を弱々しく引いた。
「……待って……その先……行き止まりだ……」
視線の先には、確かに壁。
袋小路だ。
――しまった。
だが男は、震える指で壁際を示した。
「……あそこだ……」
崩れかけた石積み。
一見すると、ただの壁にしか見えない。
「……何がある?」
「……隠し通路だ……昔、災禍の仲間が……」
咳き込みながらも、必死に続ける。
「……信じろ……ここじゃ、死ぬ……」
迷っている暇はなかった。
背後から、兵士たちの足音が迫る。
歯を食いしばり、壁に手を伸ばす。
──押す。
重い感触。
次の瞬間、石が低い音を立てて沈み、壁が内側へと開いた。
「……なっ……」
暗闇が、口を開けて待っている。
「中へ!」
男を抱えたまま滑り込むと、背後で石壁が元の位置に戻った。
外の喧騒が、嘘のように遮断される。
闇。
湿った空気。
そして、微かに灯るランプの光。
そこは、路地裏の下に隠された細長い地下通路だった。
「……ここは……?」
息を整えながら問うと、男はかすかに笑った。
「……俺たちの……隠れ家だ……」
奥には、簡素な寝台、保存食、古い地図。
明らかに住んでいる痕跡があった。
「……秘密基地、みたいなもんさ……」
そう言って、男は力尽きたように目を閉じた。
そのとき、通路の奥から足音が聞こえた。
「──無茶しすぎですよ、ノアさん」
ランプの光の中に、リンシアが現れる。
相変わらず、余裕の笑みを浮かべて。
「でも……悪くない選択でした」
彼女は男を一瞥し、静かに続ける。
「お久しぶりですね。数ヶ月ぶりでしょうか?」
「……戻ってきてたのかよ、リンシア」
男を寝台に寝かせながら、僕は確信していた。
――この街の裏側は、想像以上に深い。
そして僕は、
もう完全に、その渦中に足を踏み入れてしまったのだ。
男はよろよろと身を起こすと、そのまま入口脇に置かれた椅子へと歩み寄った。
腰を落とし、背もたれに体を預けたまま、顔だけをこちらへ向ける。
「まずは……助かった。ありがとう……あー……」
「ノア。無理に起きなくていいんじゃないか」
「ノアさん。まあ……寝てるわけにもいかないからな……っ」
そう言った直後、男は顔を歪めた。
頬や額には、いくつもの青あざが浮かんでいる。
服の下は、さらにひどい状態なのだろうことは想像に難くなかった。
「寝てるわけにはいかない、って?」
「リンシア。この人はどこまで知ってる?」
「ある程度は」
リンシアはあっさりと答える。
「ノアさん。……悪いことは言わない。今日中にこの街を出た方がいい」
「それは……町長暗殺に関係があるのか?」
男は、無言で頷いた。
リンシアは彼を一瞥すると、近くの椅子に腰を下ろし、頬杖をつく。
まるで、これから語られる内容を最初から知っているかのように。
「恐らくだが……今夜、町長は殺される」
「……っ、なぜわかる?」
「今日、カイム……あー、次期町長候補の野郎宛に荷物が届いた。その中身を、俺は見ちまったんだ」
男は一度、言葉を切り、唾を飲み込む。
「……あり得ねえ量の毒薬だった。それも、俺でも名前を知ってるくらい有名なやつがな」
「君は運悪く、それを見ちゃったわけだ? 何か盗もうとでもしてたの?」
「うるせえな、リンシア」
男は舌打ちし、不快そうな目で彼女を睨む。
だがリンシアは、いつもの笑みを崩さない。
おそらく、誰に対しても同じなのだろう。
「でもさ、その……」
「ヴァイスだ」
「ヴァイスさん。その荷物の宛先、本当に次期町長――カイム宛なんですか?」
「……というと?」
「そういう道具って、普通は宛先がわからないようにするものじゃないですか。それに、誰かが盗み見できるほど不用心な運び方をするかなって」
僕の問いに、ヴァイスは少し気まずそうに頭を掻いた。
まずいことを聞いたかと思った、その直後。
「警戒する必要がないんですよ」
リンシアが口を挟む。
「だって、カイムはこの街でびっくりするくらい大人気ですから。毒薬を持っていても『薬の素材かな?』って見逃される程度には」
「……ヴァイスさん」
「本当です。というのも、あいつの目的は──」
「全世界の災禍の排除。いやぁ、こんなネズミの穴蔵でも話題に出してくれるとは光栄だねえ」
知らない声が、会話を断ち切った。
弾かれたように、ヴァイスとリンシアが僕の背後を見る。
そこに立っていたのは、痩せ細った体に顎髭を蓄えた男だった。
皮肉げな笑みを浮かべながら、男は一歩踏み出す。
「どうも、災禍諸君。僕はカイム。
君は……初めましてだったよね?」
「っ、なぜここが……!」
「そりゃあ、あんだけ派手に逃げられちゃ追跡も楽ってもんさ」
カイムは懐から煙草を取り出し、口に咥える。
指先に灯った小さな炎で火をつけ、白い煙を吐き出した。
「はは。あんな古臭い魔法ひとつで逃げられると思った? 筋肉強化くらい、俺だって使えるんだよ」
「ここから消えろ、カイム」
「おいおい、ヴァイス。そんなに邪険にするなよ。今日は君たち二人に、ちょっと聞きたいことがあってね」
――二人。
その言葉に引っかかり、背後を振り向く。
そこには、すでにリンシアの姿はなかった。
だが、それ以上に――
「ここで静かに死ぬか。捕まって派手に死ぬか。……どっちがお好みだい?」
目の前に立つカイムは、静かに剣を抜いた。
◇◇◇
ユニカはソファに座り、退屈そうに唇を尖らせていた。
向かい側では、セラが紅茶を口に運び、その膝の下でセリルが静かな寝息を立てている。
「……やけに時間かかってるな、ノアのやつ」
「そうですね。リンシアがついていますし、迷ってはいないと思いますが……」
セラはそう言いながら、窓の外へと視線を向け、
眠るセリルの頭をそっと撫でた。
そして、少し迷うように、ぽつりと呟く。
「……ありがとうございます」
「え?」
「いえ……父のことです」
ユニカは一瞬だけ目を瞬かせ、すぐに肩をすくめた。
「別に。元々はセリルのためだしさ。
それにリンシアも、私の国のために力を貸すって言ってきたし」
「……国、ですか?」
セラは驚いたようにユニカを見る。
その視線を受け、ユニカは少し気まずそうに目を逸らし、頬を掻いた。
「あー……その。
災禍のための国を作ろうと思っててさ」
「災禍の……国?」
「自覚はあるよ。やばいこと言ってるってのも。
それでも、やりたいんだ」
セラはカップを置き、体ごとユニカへ向き直る。
その瞳には、警戒と真剣さがはっきりと浮かんでいた。
「……十数年前。私たち人間は、災禍の国を打倒しました。
すべては、災禍の支配から抜け出すために」
「それは、知ってる」
「あなたは、また繰り返そうとしているんですか。
あの……最悪の時代を」
非難を帯びた視線が、ユニカを射抜く。
だがユニカは、逃げずに真正面から受け止めた。
「戦争も殺しも、繰り返すつもりはねえよ。
たださ……少しくらい、災禍に優しい世界があってもいいだろ」
「……なぜ、そこまで災禍に肩入れするんですか?」
「昔に、ちょっとな」
照れたように笑うユニカを見て、
セラは小さくため息をつき、わずかに口元を緩めた。
「……お人よしですね」
「こんな話を真面目に聞いてくれるあんたほどじゃない」
その瞬間だった。
教会の外が、ざわりと騒がしくなる。
重く、統制の取れた複数の足音。
ユニカは即座に立ち上がり、表情を引き締めた。
「……ノア、じゃないな」
扉が乱暴に開かれる。
現れたのは、鎧に身を包んだ騎士たちだった。
五、六人。全員が剣に手をかけている。
「その女だ!」
先頭の騎士が、ユニカを指さす。
「お前、指名手配されている災禍と行動を共にしていただろう!」
「はぁ?」
「街中での処刑妨害、逃走。無関係とは言わせんぞ!」
セラはその言葉に目を見開きユニカを見る。
その視線に気付いた後、騎士を一瞥してユニカは腹の奥から絞り出すように笑うと、
「ああ、そうさ! 最初っからこの街を滅茶苦茶にするためにここに来たんだ!」
騎士、そしてセラの息をのむ声が聞こえる。
ユニカは朱色の旗に手を伸ばし、静かに息を吐いた。
「……ノア、何してんだよ」
そのとき――
窓から、影が飛び込んできた。
鈍い金属音。
次の瞬間、騎士の一人が弾き飛ばされ、床を転がる。
「……なっ!?」
黒衣の男が、いつの間にか室内に立っていた。
光をほとんど反射しない黒装束。
無機質な白い仮面。
表情は一切読み取れない。
そして何より目を引くのは、その剣だった。
常識外れに分厚く、無骨で、重そうな刃。
切るためというより、叩き潰し、断ち切るための処刑具。
一本を片手で構え、
もう一本を背中に斜めに背負っている。
空気が、張り詰める。
「な、何者だ……!」
騎士の声が、わずかに震えた。
仮面の男は低く、抑えた声で告げる。
「──その女に、手を出すな」
騎士たちは、本能的に一歩後ずさった。
「ここで殺せば、立場が悪くなるだけだ。逃げるぞ」
一瞬だけ、ユニカへ視線を向ける。
「信じろ。死にたくないなら」
ユニカは目を見開き、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……あんたは?」
「ロクサス。災禍だ」
その言葉だけを残し、
男はユニカを抱え、破れた窓から外へと消えた。
ユニカはその腕の中から振り返る。
そこには、こちらを見つめるセラの姿があった。
――どこか、裏切られたような冷めた目で。




