第2話 夜明けの街で
空はうっすらと青く、遠くの雲が白んでいる。
それでも、地面にはまだ夜の冷たさが残っていた。
僕たちは街を出て、丘の上の道を歩いている。
炎に包まれた街はもう見えない。けれど、焦げた匂いだけが風に混じって、背中を押してくるようだった。
ユニカは朱色の旗を肩に担ぎ、少女の手を引いていた。
少女は泣き疲れたのか、まぶたを半分だけ開けたまま歩いている。
手を離したら倒れてしまいそうなほど、力なく。
「歩けるかな? それとも、おぶったほうがいい?」
僕の言葉に、少女は考え込むような、ただ眠いだけのような——そんな沈黙を返す。
やがて、ぼんやりと口を開けて、眠気を隠さない声で言った。
「ん……おぶって」
「ああ。ちなみにそこのお嬢さんは?」
「はっ倒すぞ」
ユニカの乱暴な物言いに、思わず笑ってしまう。
少女を背中に抱えて、僕たちは視線の先に映る目的地へと歩き出した。
僕たちは、次の街を目指している。
今いる場所は辺境の寄せ集めの町だったが、半日歩いた先には、交易路の結び目みたいな、もう少し大きな街がある。商人や旅人も出入りするし、教会や孤児院もあると聞いたことがある。そこなら、この子を預けられるかもしれない。
丘を下りきった頃には、空の青が濃くなっていた。
遠くに見えていた街の輪郭が、ようやくはっきりしてくる。
高い外壁と、開いたままの門。門番の姿が二つ、朝の冷気の中でぼんやりと見えた。
少女はまだ僕の背中で眠っている。
ユニカは肩の旗を少し下げ、いつになく真面目な顔で言った。
「さて、ノア。災禍だってバレたら面倒だ。黙って、目立たないようにな」
目立たないように、という言葉に弾かれて旗を見る。
その旗は青々しい空とは対照的に、毅然として朱色に染まっている。これ以上に目立たないのは無理だ。
ユニカは僕の視線の意図に気づいたのか、旗の先を軽く地面について、むっと口を結んだ。
「やだ」
「何も言ってないだろ」
「これは絶対しまわないからな! これは私のトレードマークでありアイデンティティであり──」
「あーもう、起きちゃうから! わかったわかった!」
そんなやり取りを続けながら、門へと近づく。
門番たちは最初、ちらりとこちらを見ただけで、特に反応を見せなかった。
この時間帯は商人の出入りも少なく、彼らの瞼もまだ半分眠っているように見える。
僕たちはそのまま通り抜けようとした。
だが、背後から声が飛ぶ。
「おい、そこの三人!」
一瞬、体が強張る。
ユニカも足を止め、旗を軽く握った。
僕の背中で眠っていた少女が、うっすらと目を開ける。
やばい──そう思った。
けれど、次に続いた声は、思っていたものとはまるで違っていた。
「……あの街の人たちか? 大変だったよな、あそこ。火の手が見えたって、朝から噂になってる」
僕とユニカは一瞬だけ目を見合わせる。
門番の顔には、疑いよりも心配の色が浮かんでいた。
「けが人は出てねえか? 避難してきた人たち、もう何人か通ったぞ」
「え、あ、ああ……そうか。いや、僕たちは大丈夫です」
自分でも驚くほど自然に言葉が出た。
門番は頷き、ほっとしたように笑う。
「そっか。もう中は安全だ。教会の人が炊き出し始めてるから、休んでけ」
そう言って、彼は門の脇へと戻る。
もう僕たちには興味をなくしたようだった。
ユニカは意地悪そうな笑みを浮かべて囁く。
「ビビったろ?」
「ああ。災禍だってバレたのかと……」
「同じ人間だからな。ひと目見ただけじゃわからねーよ」
そこが厄介でもあるんだけどな、と彼女は肩をすくめて歩き出す。
その言葉の真意を聞くよりも早く、背中で眠っていた少女が目を覚まし、呟いた。
「……いい匂い」
確かに、言われてみるとパンが焼けたかのような良い匂いが鼻腔をくすぐる。
その匂いの元を辿ろうと目線で探ると、そこには教会と、ぼろぼろの衣服を身に纏った人たちの姿があった。
おそらく、門番が言っていた炊き出しとはこのことだろう。
ユニカは鼻をひくつかせて「うまそうな匂いだな」と呟いた。
朱色の旗が風に揺れて、朝の光を反射する。
彼女は少女の頭を軽く撫でながら、少しだけ優しい声で言った。
「ほら、行ってみようぜ。腹、減ってんだろ?」
少女は眠たげな目をこすりながら、こくりと頷く。
その小さな仕草ひとつが、夜の出来事とはまるで別の世界にいるように思わせた。
僕たちは列の最後尾に並ぶ。
スープの香りと焼き立てのパンの匂いが入り混じり、空腹だった胃を刺激する。
人々の表情は疲れ切っていたが、声を荒げる者はいない。
ただ、与えられるものを静かに待っていた。
ユニカが小声で囁く。
「なあ、ノア。見ろよ、あの奥」
彼女の視線の先、教会の扉の近くで、白い修道服の女性が子どもたちを抱きしめていた。
泣きながら縋りつく子、黙ってパンを受け取る子。
彼女はその一人ひとりに、まるで我が子のように声をかけている。
「……孤児院、か」
「だな。あの人なら、この子を預けてもいいかもしれねぇな」
ユニカの言葉に、僕は頷く。
けれど、心の奥が少しざらついた。
あの街で、この子しか救えなかった。この子のような子供がまだ大勢いたというのに。
そんな罪悪感を誤魔化すように笑みを作りながら、スープを受け取り、少女の前に差し出す。
「熱いから気をつけてな」
彼女は両手で器を包み込むように持ち、ゆっくりと口をつけた。
「……あったかい」
その一言に、ユニカが微笑む。
そんな二人を横目に、近くのテーブル脇の椅子に座り、僕もスープを一口啜る。
暖かく、野菜の優しい味わいがした。
久しぶりに人間の摂る食事をした気がする。かびたパンや、名前のない野草を煮込んだだけのスープとは、筆舌に尽くしがたい違いがあった。
気がつくと、僕は一心不乱に食べ続けていた。
あまり行儀がいいとは言えない。だが、今までの道のりが、自然に手を進めさせていた。
「いい食べっぷりだな」
顔を上げると、目の前には頬杖をついたユニカが、にやにやしながらこちらを見ていた。
僕は気恥ずかしさにスープへ視線を落とす。
「……久しぶりの食事なんだ。仕方ないだろ」
「いやいや、いいさ。その分だと、前の街じゃ全然食べられてなかったんだろ?」
「ん……まあ、そうだけど」
ユニカは自分のパンを僕のほうへ押し出し、「いいから」と手を振ってみせる。
「聞いてはいたけどさ、災禍にずいぶん厳しかったんだな。ノアのいた街は」
「……仕方ないさ。あそこも裕福な街じゃない。外に放り出されなかっただけマシだよ」
「仕方なくなんかねえよ。災禍ってだけで同じ人間が差別されるのはおかしいだろ」
ユニカは怒りを隠そうともしないままスープに口をつけた。
だが、思っていたより美味しかったのか、すぐに目を丸くする。
二口、三口と続けざまに口へ運ぶ姿が、なんだか微笑ましくて、つい笑ってしまう。
ユニカはそんな僕の視線に気づくと、しっしっと手を振って追い払うような仕草をした。
僕は肩をすくめ、スープを一口飲もうとした、その時──
「すみません、ここ、座ってもいいですか?」
いつの間にか目の前に立っていた女性に声をかけられ、思わず動揺する。
長い金髪を後ろでひとつに束ね、陽の光を受けて淡く輝いていた。
「はい。僕の前でよければ」
「ありがとうございます! 今日、すごい人でびっくりしちゃって」
彼女は緑色の瞳を細めて朗らかに笑う。
仕草は上品だが、服装は着古した白いシャツに茶色のロングスカートで、どこにでもいるような装いだった。
その上品さと質素さの差に、ほんの小さな違和感が胸に残る。
気にしないふりでスープに視線を戻そうとした時、彼女が静かに口を開いた。
「──災禍の人、ですよね?」
その一言で、体が勝手に反応した。
僕は椅子を鳴らして立ち上がり、目を見開いて女性を睨む。
だが、彼女はまるで悪びれる様子もなく、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべていた。
「まぁまぁ、そんな怖い顔しないでください。これをネタにゆすったりなんてしませんから」
「なら、食事中に不穏な単語を出すな」
ユニカが低い声を出す。
その声は静かだが、確かに怒気を孕んでいた。
だが女性は笑みを崩さず、頬杖をついたまま続ける。
「それは失礼。でも、話しかけたのにはちゃんと理由があるんですよ」
「……理由?」
「ユニカさん。あなたの建国、そのお手伝いをしようと思いまして」
ユニカの表情が一瞬で強張る。
彼女は椅子を弾くように立ち上がり、思わず一歩後ずさった。
「どこで、それを聞いた……?」
「無料分はここまでです。これ以上聞きたいのであれば、一つお願いを聞いていただきたく」
「はぁ?」
「おっと、その前に言うべきことがありました」
戸惑うように彼女を見ると、彼女ははっとしたかのような表情を浮かべ、片手を前に掲げて恭しく礼をした。
「私はリンシア。この世界をこよなく愛する、しがない情報屋の一人です。今日はあなた方を、この街の英雄にしてみようと思いまして、ここに来ました」




