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第一章:再開

風が止んだ瞬間、店のドアベルが澄んだ音を立てた。

チリン、と。まるで遠い記憶の琴線に触れるような、懐かしい響き。


東京湾岸のオフィスビル群を見上げる、ガラス張りの小さなサロン『Astreアストル』。


それが私、天宮詩織あまみや しおりのささやかな城だった。アロママッサージで、訪れる人の心と体を解きほぐすのが私の仕事だ。


「こんにちは」とドアを開けて入ってきた声に、私は施術の準備をしていた手を止めて振り返った。


すらりとした長身に、上質なチャコールグレーのスーツを隙なく着こなした男性が立っている。


予約票に書かれた名前と、紹介者である友人の美月から聞いていた人物像が、目の前で結びついた。


神凪かんなぎ れんさん、でいらっしゃいますね。

今日は、美月さんのご紹介で。ご来店くださり、ありがとうございます」

私が微笑みかけると、彼は静かに頷いた。知的で涼やかな目元。

けれど、その瞳の奥には、まるで凪いだ冬の湖のような、底知れない静けさが広がっていた。


彼が店に入ってきた瞬間から、サロンに満ちていたラベンダーとフランキンセンスの香りが、ふっと輪郭を失った気がした。


彼自身の気配が、あまりに濃密で、空間そのものを塗り替えてしまう。私の心臓が、初対面の緊張とは違う、もっと根源的な理由で高鳴り始めている。


「素敵な場所ですね。星、という意味ですか、アストル、は」

「……ええ、そうです。なんとなく、星が好きで」

「なるほど」

蓮さんはそう言うと、窓の外に広がる灰色の空を見上げた。その横顔に、私は息を呑んだ。

(……知っている)

脳が警鐘を鳴らす。


私が彼に会うのは今日が初めてだ。

彼に会ったことなんて一度もなに、なぜ?


それなのに、どうしてだろう。

彼が窓の外を見る、ただそれだけの仕草が、私の記憶の深い場所をこじ開けようとするのだ。

何だか見たことのある景色というか、雰囲気というか……。


このガラス張りの窓が、まるで分厚い石の窓枠だったかのように。

灰色のビル街の向こうに広がる空が、もっと物悲しい、古代の空だったかのように。そんなあり得ない感覚が、皮膚を粟立たせる。


これは懐かしさじゃない。もっと痛みを伴う記憶の残滓だ。

説明のつかない、この既視感……。


私は平静を装うのに必死で、自分の爪が手のひらに食い込んでいることにも気づかなかった。


「どうぞ、こちらへ。まずはお着替えをお願いします」

動揺を隠し、声が震えないように細心の注意を払いながら、彼をマッサージベッドへと案内した。


カウンセリングのため、ソファに向かい合って座った。

私は彼の前にハーブティーを置き、カルテに目を落とす。

「肩や首の凝りがひどく、頭痛もあると伺っています」

私がそう切り出すと、彼は「ええ」と短く肯定し、カップに口をつけた。

「仕事柄、PC作業が多くて。ですが……」

彼は少し躊躇うように言葉を切り、私をまっすぐに見つめた。

「本当の悩みは、そこではないのかもしれません」


彼の静かな声が、施術室の空気を震わせる。

「理由のない既視感に、ずっと悩まされています。初めて会うはずの人間や、訪れた場所に、強烈なデジャヴュを感じるんです。時には、胸が締め付けられるような痛みや、どうしようもない喪失感を伴って」


彼の言葉は、そのまま私の心を映した鏡のようだった。私も、ずっとそうだ。物心ついた時から、世界から一枚ベールを隔てたような感覚。幸せな瞬間でさえ、ふと足元が崩れ落ちるような、言いようのない喪失感に襲われる。まるで、一番大切な何かを、どこかに置き忘れてきてしまったみたいに。


「……お辛いですね」

私はそう言うのが精一杯だった。

彼の悩みに共感しすぎると、自分の心の均衡まで崩れてしまいそうで怖かった。


カウンセリングを終えた詩織は、静かに立ち上がり、壁際に並んだ精油の小瓶が収められた木製の棚に向かう。

彼女は一瞬目を閉じ、蓮から感じ取ったエネルギーと彼の言葉を反芻する。

そして、迷いのない手つきで3本の小瓶を選び、彼の元へ戻る。


「では、先ほどのお話やお身体の症状に合わせてオイルを決めますね」


彼女は白い小皿の上に、選んだ精油を並べてみせた。


「まず、ベースとなるのはフランキンセンスです」

詩織は、琥珀色の液体が入った小瓶を指さす。

「『乳香』とも呼ばれ、古くから瞑想や儀式で使われてきた香りです。呼吸を深くし、心のざわめきを鎮めてくれます。そして、過去から持ち越した心の傷や、古い思考パターンを手放すのを助けてくれると言われています。神凪さんのその……喪失感のようなものに、寄り添えるかと思いまして」


次に、少し華やかなラベルの小瓶を手に取る。

「そして、肩や首の緊張を和らげるために、マージョラムを。鎮静作用が高く、考えすぎで凝り固まった筋肉を、内側からゆっくりと緩めてくれます。頭痛にも効果が期待できますよ」


最後に、彼女は少し意外な選択をするかのように、柑橘系の香りがする小瓶を見せる。

「それから、仕上げに一滴だけ、ベルガモットを加えます。この香りは、不安や抑圧された感情を解放し、心を明るく照らしてくれる『太陽の香り』です。深い悲しみの中に閉じ込められた心を、そっと外に連れ出してくれる力があります」


彼女は蓮の目を見て、静かに告げた。

「過去を見つめるためのフランキンセンス。今ここにある身体を癒やすマージョラム。そして、未来への希望を灯すベルガモット。この3つの香りで、今日の施術をさせていただきますが、いかがでしょうか?」


蓮は、ただ黙って頷いた。詩織が自分の表面的な症状だけでなく、その奥にある魂の叫びまでを的確に言い当てたことに、驚きを隠せないでいるようだった。


「ありがとうございます。では、ブレンドしてきますので、上半身のガウンを脱いで、タオルを掛けて施術台でうつ伏せで少しお待ちください」


私はブレンドしたオイルを入れたビーカーを手に、一度施術室を出た。

調合スペースで、選んだ3つの精油を、肌なじみの良いスイートアーモンドのキャリアオイルに一滴ずつ垂らしていく。

フランキンセンスの樹脂系の深い香り、マージョラムのハーブ系の穏やかな香り、そしてベルガモットのフレッシュな柑橘の香り。

3つが混じり合うと、ただの足し算ではない、甘く、スパイシーで、そしてどこか神聖ささえ感じさせる、複雑で奥深い香りが生まれた。

まるで、遠い昔の記憶を呼び覚ますための鍵のようだ。


オイルウォーマーで人肌に温めたそれを手に、再び施術室のドアを開ける。

部屋の照明は落とされ、静かなヒーリングミュージックが流れていた。蓮はすでにうつ伏せで待っていた。タオルから覗く広い背中は、彫刻のように無駄なく筋肉がついていたが、その表面はまるで古戦場の鎧のように強張って見えた。彼が背負っているものの重さが、その背中から伝わってくるようだった。


「お待たせいたしました。では、始めていきますね」

私は静かに声をかける。

「タオルを腰まで下げます」

そう断ってから、ゆっくりとタオルをめくり、彼の背中全体を露わにした。


温められたオイルを、手のひらに数滴とる。そして、彼の背骨に沿って、腰から肩甲骨の間へと、そっと垂らした。

金色の雫が彼の肌に落ち、体温ですっと馴染みながらゆっくりと広がっていく。途端に、ブレンドされた香りがふわりと立ち上り、部屋の空気を満たした。蓮の肩が、香りを吸い込むように微かに上下するのが見えた。


そして、いよいよ施術を始める。

私は呼吸を整え、広げた両の手のひらを、彼の肩にそっと置いた。


その瞬間。


バチッ!

青白い火花が見えたような、鋭い衝撃。私は反射的に手を引いた。


「あっ……!」


蓮さんの肩が、ぴくりと大きく跳ねる。

「……すみません、静電気が」

咄嗟に口にしたのは、ありふれた言い訳だった。けれど、本当は分かっている。これはただの静電気なんかじゃない。オイルを介したウェットな接触で、物理的に静電気が発生するはずがないのだ。これは、もっと別の……エネルギーの衝突。


「いえ……」

蓮さんのくぐもった声が、静寂を破る。彼はゆっくりと顔を上げ、肩越しに私を見た。その瞳には、驚きと、それ以上の……何かを探るような強い光が宿っていた。「今のは……」


短い沈묵が落ちる。彼の背中から立ち上る熱が、まるで陽炎のように空気を揺らしている。触れてもいないのに、私の手のひらはまだジンジンと痺れ、焼けるように熱い。違う。これは彼の体温じゃない。もっと内側から、魂の核から発せられる、膨大なエネルギーの奔流だ。


恐怖と懐かしさという、相反する感情の渦に飲み込まれるようだった。

この熱を、私は知っている。

この衝撃を、私は知っている。

それは、喜びの記憶ではない。むしろ、胸が張り裂けるほどの痛みと、絶望的な別離を思い出させる、忌まわしい感触。


「……失礼しました。続けさせていただきます」

私は深呼吸一つで全ての動揺を心の奥底に押し込め、プロの顔に戻る。もう一度、恐る恐る彼の背中に手を伸ばした。

今度は、衝撃はなかった。

けれど、一度繋がってしまった回路は、もう元には戻らない。私の指先から、彼の身体へ。そして彼の魂から、私の記憶の深淵へ。言葉にならない膨大な情報が、濁流のように流れ込んでくるのだった。


この人は、ただのクライアントじゃない。

私とこの人との間には、現代の常識では計れない、深くて、古くて、そしておそらくは、あまりにも危険な繋がりがある。

直感が警鐘を鳴らしていた。深入りしてはいけない。これ以上、関わってはいけない、と。

けれど、私の指は、彼の魂の熱から離れることができなかった。

まるで、それが自分の失われた半分であるかのように。


施術を終え、ハーブティーを差し出すと、蓮さんは少しだけ表情を和らげた。

「楽になりました。ありがとうございます。天宮さんの手は、不思議な力がありますね」

「そんな……ただのアロマセラピストですよ」

「いいえ」と彼は首を振る。

「まるで、失くしていたものに触れたような……そんな感覚がありました」


彼の言葉に、胸の奥がずきりと痛む。

帰り際、彼が差し出した名刺を見て、私は息を呑んだ。


『レグルス・メディカル株式会社 代表取締役 神凪 蓮』


レグルス。その単語を聞いた瞬間、私の脳裏に閃光が走る。

──獅子の心臓。王の星。燃えるような太陽。黄金の玉座。

意味の分からないイメージの奔流に、くらりと眩暈がした。


「……天宮さん? 大丈夫ですか」

心配そうな蓮さんの声で、我に返る。

「あ、いえ、すみません。……あの、神凪さん。もし、そのデジャヴュや喪失感で本当にお悩みでしたら、ご紹介したい方がいるんです」


私はほとんど衝動的に、一枚のショップカードを取り出していた。自分でも、なぜこんなことをするのか分からない。けれど、そうしなければいけないと、魂が告げている気がした。


「月嶋セラさん、という方です。完全紹介制で……少し変わった方ですが、きっと、神凪さんのお力になってくれると思います。占いや、フラワーエッセンスというもので、心の深いところを読み解いてくださるんです」


蓮さんは、怪訝な顔をするかと思った。けれど、彼は静かにそのカードを受け取ると、そこに書かれた『月』という文字を、じっと見つめていた。

「月嶋……セラさん」

「はい。私がお世話になっている、導師グルのような方です」


「分かりました。連絡してみます」

彼はそう言うと、深く一礼して去っていった。

ドアベルが再び、チリン、と鳴る。

審判のベルのように、何かの始まりと終わりを告げる音。


一人残されたサロンで、私はまだ痺れの残る指先を見つめていた。

彼の残り香が、まだ空気に溶けている。それはどんな香水よりも深く、私の魂に直接語りかけてくるようだった。


なぜ、私はあんなことを言ってしまったのだろう。

月嶋セラ先生を紹介するなんて。まるで、彼を危険な道に引きずり込んでしまったような、妙な罪悪感が胸をよぎる。


──その男に近づいてはだめ。


ふいに、頭の中に直接響く声がした。女の声だ。

ヒステリックで、けれど悲しみに満ちた声。


──あいつは、あなたを裏切る。


全身の血が凍りつく。私はその場にへなへなと座り込んだ。

今のは、何?


窓の外では、いつの間にか厚い雲が空を覆い尽くしていた。

神凪 蓮。

あなたは、誰?

なぜ、あなたに会うと、私の魂はこんなにも叫ぶの?


何万年も続いた、長い夜の始まり。

そのベルが、今、鳴らされたことにも気づかずに。

私はただ、自分の内に響く警告と、彼に惹かれてやまない心の矛盾の中で、立ち尽くすことしかできなかった。

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