第1話:星の名を呼ぶ香り
冬の午後、ドアベルがやわらかく鳴った。
「いらっしゃいませ」
反射的に顔を上げた私は、白い光の中に立つ人物を見て、息を呑んだ。
神凪蓮。
予約表にはない名前。だが、その輪郭はなぜか懐かしい。
胸の奥で、別の響きが先に震えた――〈レグルス〉。
「突然すみません。予約が取れなかったのは知ってたんですが……どうしても今日じゃなきゃと思って」
彼は少し困ったように笑った。
午後の客足が途切れたばかりだったことに、私自身が驚く。まるで、この時間を誰かが用意していたみたいに。
私はアロマセラピストとして、このサロンを一人で切り盛りしている。
壁一面の棚には精油と小瓶が並び、白いカーテン越しの光が香りの粒子をきらめかせていた。
「大丈夫です。どうぞお掛けください」
香炉のスイッチを入れると、フランキンセンスが静かに立ちのぼる。透明な水面に波紋が落ちるような感覚が胸に広がる。
カウンセリングシートに名前を書く蓮の手元を見ながら、私は、胸の奥で小さな既視感が波紋のように広がっていくのを感じていた。
――この音。ボールペンが紙を擦る細い音。たぶん、別の時代にも聞いた。
「最近、夢を見るんです」
蓮は切り出した。
「夢とも違う。目を閉じると、白い神殿と青い光が見える。それから、名前を呼ぶ声がします。……『アステール』って」
心拍が一拍、狂う。
笑ってごまかそうとしたのに、喉が乾いて声がうまく出なかった。
「それは……星の名です」
言葉にした瞬間、遠い昔、この名に口づけをした記憶が喉の奥で目を覚ました。
「星、ですか」
彼の瞳に、安堵と不安が同時に灯る。
私は棚から一本の小瓶を取り出した。まだ封を切っていない、ウメのフラワーエッセンス。
「これは再生を始める合図。氷の下で最初に芽を動かす“決意”を呼び覚まします」
蓮は頷いたが、瓶を受け取る指先がわずかに震えていた。
「……俺は、誰かを傷つけた。すごく昔に。そんな確信だけが残ってるんです」
胸の奥で、同じ言葉が響く。
――殺し、そして救った。私たちの間に何度も繰り返された記憶。
「今日はカードも引きましょう」
テーブルにタロットを展げ、彼にシャッフルを促す。
一枚目――〈力〉。獅子と女性。抑えるのではなく、撫でて鎮める掌の図。
二枚目――〈塔〉。高みからの崩落。稲光が夜空を裂く。
三枚目――〈恋人〉。選び直す二人の姿。
「獅子、塔、恋人……?」
「古い契約を壊し、新しい選択をする暗示です」
私がそう告げた瞬間、室内の温度が一度だけ下がったように感じた。
そのとき、背後でドアベルがもう一度、小さく鳴った。
風はない。誰も入ってこない。
ただ、奥の部屋から、低く響く声がした。
「……紹介で来たんだね」
振り向くと、白いロングシャツに身を包んだ人物が立っていた。
月嶋セラ――中性的な顔立ちと、年齢も性別も感じさせない、不思議な存在感。
フラワーエッセンス、生命の樹、タロット――それらを自在に操る、知る人ぞ知るセラピスト。紹介がなければ会うことはできない。
蓮はわずかに目を見開いた。
セラの唇が、ゆるく弧を描く。
「契約文を見つける時が来たみたいだ」
私の心臓が、ひときわ強く脈打った。
この瞬間から、何万年の因縁をほどく旅が始まったのだ。