御曹司の風邪ご飯〜スペイン風邪の後の事〜
「だから、スペイン風邪はアスピリンの薬害なんだって。アスピリンの蔓延とスペイン風邪の被害が比例してるんだ」
ここは、臼井家の洋館。庭のテラスで御曹司・臼井雄平がスペイン風邪の陰謀を語っていた。
見かけは洋装が似合う男だ。二枚目といってもいい。長めの前髪もなかなかしゃれている。この男は財閥・臼井家の御曹司だった。まあ、長男ではなく五男坊で、職業は翻訳家。身体も強くなく、この別荘地にある洋館で療養していた。
元々はフランス人宣教師が住んでいた洋館でもあり、黄色い壁が明るく、華やかな洋館だ。もっとも女中の私としては、庭の花の管理などが骨の折れる仕事ではあったが。
私はテーブルの上のカップに温かい紅茶を注ぐ。ふわっと良い香りがするが、雄平は無視して、スペイン風邪の陰謀、いや妄想を語る。元々ワクチンに仕込まれた髄膜炎になるウィルスが、全ての原因だと力説。
もう十年近くこの洋館で女中をやっているが、この御曹司はやっぱり変わり者だ。私より五歳も歳下だが、一体どこでこんな妄想が思いつくのだろうか。もっとも私のような妾の子供の女中にも分け隔てなく接してくれる。根っからの性格が悪い男とは断言できなかったが。
「では、スペイン風邪の原因であるウィルスって何だったんです?」
テラスからは秋の明るい日差しが差し込む。庭には明るい色のコスモスが、ふわっと揺れている。空も高く、薄い水色が爽やかだ。
「ウィルスなんて無いのさ」
雄平がばーんと胸を張っている。とんでもない理論に私もさすがに頭が痛くなり、おでこを抑える。
「そんな馬鹿な事は言わないでくださいよ」
「いやいや、ウィルスはない。陰謀だ」
「御伽話はもういいですよ、坊ちゃん」
「坊ちゃんって言うな〜」
雄平はそう言ってテーブルの上にあるシベリアを齧った。シベリアはカステラに餡子が挟まれたお菓子だ。なぜシベリアと言われいるのか謎だが、雄平の好物でよく出していた。正直、街のパン屋まで買いにいくのは面倒だが、雄平が喜ぶと思えば手間もない。
「うまい、うまいよ、シベリア。ありがとう」
邪気にない顔でお礼も言われてしまった。こんな笑顔を見てたら、やっぱり雄平は根っから悪い人でも無いだろう。言っている事は変だったが。
「まあ、ウィルスがないになら、風邪ひきませんね」
「おぉ、俺は風邪ひかないぞ。スペイン風邪なんて茶番だ。ワクチンとアスピリンの陰謀だ」
雄平は自信満々にそう言っていたが、数字後、彼は風邪で寝込んでいた。まだ秋ではあったが、風も冷えてきた。体調を崩しても不自然ではないだろう。
こんな雄平が寝込んだ事で、ウィルスが無いという理論は本当かどうか不明になってしまった。あれほど偉そうに陰謀を語っていたのに、本人が風邪を引くとは……。
ちょっと不敏になった私は、雄平の為にご飯を作る事にした。女中頭の優子さんも実感の用事でいないし、私が仕事するしかなさそうだ。
台所に立ち、冷蔵庫に入れておいた大根の漬物を見る。この時代の冷蔵庫は氷で冷やすものだったが、漬物は保存が効いてありがたい。この漬物はスペイン風邪の騒ぎの時、健康に良いと急速に広がっていた料理だった。確かに地味だが、野菜は栄養価が高い。風邪の時に食べるのには悪くないはずだ。
次は鮭の雑炊を作る。土鍋で生米から作っていく。やはり風邪の時は温かい土鍋料理が一番だ。
最後にパン屋で買ってきたシベリアも皿に盛り付けた。シベリアは健康に良いかわからないが、雄平の好物だ。風邪の時に食べれば、景気がつくだろう。茶色と黒の対比も美しく、シベリアは見た目も美味しそうだ。
お盆に全ての料理を載せ、雄平の自室へ行く。ベッドの上でゼイゼイとうなされていた雄平だったが、雑炊の匂いに背上半身だけ起きてきた。寝巻き姿で、情けない姿だったが、胸元が少しはだけていて、私はちょっと視線をずらし、テーブルに料理を置いた。
「お、雑炊か。シベリアもあるぞ」
「大根の漬物もちゃんと食べてくださいよ。風邪にいいんですからね」
「う、うん……」
いつもの威勢はなかったが、作ったご飯を食べると、雄平のおでこに汗が浮き始めていた。汗をかけば熱が下がる可能性も高いだろう。私は空になった土鍋や皿を見ながら安堵のため息をこぼす。
「うん、シベリアも美味しい」
「坊ちゃん、早く良くなって、また御伽話を聞かせてくださいね」
「御伽話って言うなー」
「それだけ言えれば、もう元気ですよ!」
「だよな! 風邪が治ったら、スペイン風邪と第一次世界大戦の陰謀を語るぜ」
こうして二人で笑いあった。ウィルスの存在は確かめようもないが、雄平の風邪は良くなったので何よりだ。




