小説家になろう秋の歴史に寄せて
エッセイジャンル初投稿です。
小説家になろう年間企画、秋の歴史、テーマは手紙でした。どんな作品が投稿されて来るのだろうか、戦国時代の武将の書状だろうか、カエサル暗号とブルータスアタックなどもありか?と思ってページを開きました。読んでみると、そのような作品もあったけれど、目についたのは、第二次大戦時の戦時下のことを書いた手紙の話でした。読んでいて涙腺が弛み、星を押しまくりました。当時の人々の生きた証であるとともに、現代を生きる私達に親族の記憶を伝えるものであり、当時の人々の有りようを知ることができるものであり。こうなることは必然と言えば必然なのですが、こういった内容の作品が並ぶことに感慨があります。小説家になろうの運営が、このような企画を設けてくれたことに感謝です。
さて、戦時下の手紙にまつわる作品が投稿されている、そして、親族が書いた手紙についての作品も多いということで、私の曾祖父について書かせていただきます。私の曾祖父も、先の大戦で戦死しています。手紙の類は一通も残っていません。母の実家の仏間に、兵隊さんの写真が飾ってあって、子供の頃から、「あれは誰?」「ひいおじいちゃんだよ。戦争にいったんだよ」と聞かされていました。
戦争に行ったというだけで、詳しいことは聞いていませんでしたが、ある年のお墓参りで、墓石に「○○島にて戦死」(部隊名が特定できてしまうので、伏せ字とします)と刻まれているのを見つけました。世界地図を見ても載っておらず、数年後にWEB検索できるようになって、やっとみつけました。激戦地だったようで、曾祖父の最期の地、いつか行ってみたいと思ってページをスクロールすると、なんとまあ、戦後、アメリカ軍のICBM基地になり、民間人立入禁止となっていました。
最初は怒りが湧きましたが、やがてやるせなさが心を占めるようになりました。曾祖父は家にゆとりがあったこともあり、文化人で、絵に彫刻、舞踊と嗜んでいたようで、特に祭りの女形は町の名物だったとか。写真が1枚と美術品が数点残され、でっかい璽が押された書状は贈られましたが。どこにでもいる、穏やかな人が兵隊に取られて戦死して、遺骨はかつて戦ったアメリカ軍の、まさに曾祖父と同じような民間人に向けられたICBMの下かよ、と。
今思い出しても、やるせなさが募ります。やるせなさ、というのは、大学で国際関係論を習って、冷戦史の授業を取り、ものすごく危うい均衡の上に立った核の抑止を知ったこと、また、ニュースでたまに取り上げられるアメリカ軍のICBM発射実験で島名が出てくること、そして、昨今の世界情勢を見ることを通じて感じるものです。「アメリカどっかいけ、じーちゃんの上から核兵器どけろ」と高校生の頃なら叫んだでしょうが、そう叫ぶことで何が起こるか、あるいは起こらないかを知ったあとでは、何もする気になれず、記憶の片隅に押し込め、ニュースで島名が出てきても、淡々と思い出すようにするしかしていませんでした。
しかし、今回、手紙をテーマにした秋の歴史の作品を読み、初めて、ネットの世界に発信しています。書きながら思うのは、長い戦後、当時の記憶を書きとどめ、記録として残すのは、時間が残り僅かだということです。直接に体験した方に語って頂くのは、ご高齢の体に障るでしょう。先の大戦を知らない、身近に体験者がいなくなった世代以降も語り伝えていくため、誰々からこんな話を聞いた、こんな物が残っている、それらを語り伝え、文字に記録し、記憶する。それをしていかなくてはいけないと思います。
歴史を学ぶと出会う事例に、戦乱の時代の苦難を若い頃に体験し、その反省から体制を作った元勲が死に絶えて抑制が効かなくなった後、隆盛期に成功体験をした冒険的な指導者が現れて、現状の落日を打開しようと、同じく戦乱の時代を知らない世代の民衆とともに戦争に突き進んでいく、というものがあまりに多い。言わずもがなのどこかの国のように。
「長い戦後」を「長かった敗戦の前夜」にしないために、記憶の継承と、知識の蓄積が、歴史ジャンルの投稿作品により少しでも促進されるよう願います。
秋の歴史2022手紙は10月22日木曜まで。