2日目昼~夜
一介の会社員において、その日に自分が何をするかということを己で決められることはそうそう無い。
それが入社一年~三年目ほどなら尚更である。ゲームの進行では昼パートと夜パートの最初に【今日はどうしようかな?】などという選択肢が表示されたが、一般の会社員で「今日はどのお仕事しようかな?」なんて言ったら最悪なことになる。
あるとしたら「今日はどこから手を付けようかな……ははっ」である。ブラック臭が酷い。
――だから、ここは回避出来ないんだよなぁ。
目の前の眼鏡が喋って……眼鏡男性が喋っているのを見ながら、美夜は思った。
別部署からヘルプの要請が入り、突然他社との打ち合わせに参加することになった美夜だが、このクライアント側の担当者が攻略対象なのだ。
主人公の会社とコラボすることになったブランド会社の担当者のひとり、加賀見創。真面目かつ自信家だが攻略を進めていくとちょっとお茶目な部分も見えてくる男(29歳・年上リーマン・フチなし眼鏡)である。
本来だとこの日の朝、遅刻しそうになった美夜と道でぶつかるイベントがあったのだが、さすがにそっちは回避した。むしろいつもより一時間早く会社に着くようにした。
「ではそのように進めていきましょう。これからよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。変更案は本日中にメールで送付いたします……」
美夜にとっては何事もなく打ち合わせは終わった。なにしろ美夜はただのヘルプなのだ。内容を把握するまでは事務作業や資料配布だけで手一杯である。
上司たちが挨拶しているタイミングをはかり、ドアを開けてお見送りすれば美夜の仕事は完了だ。
……そう、気を抜いたのがいけなかった。
「ではこれで……おっと!」
「ひゃっ!?」
何故ぶつかるのか。
どういう訳か勢いよく加賀見と激突し、彼の眼鏡が宙を舞った。
「だっ、大丈夫ですか!? 大変失礼しました!」
後で確実に叱られる案件である。血の気が引きながらも必死に謝罪する。
「こちらこそすまない。怪我はないですか?」
「私は全く! ああ、眼鏡が……」
「ご心配なく」
加賀見は眼鏡を拾い上げると軽く手で埃を払う仕草をし、すぐに装着した。
「形状記憶ですので、そう簡単には壊れません」
昨今の眼鏡は頑丈ですよね。
美夜を安心させるように、加賀見は微笑んだ。
……しかしこの台詞、今朝のぶつかりイベント用だったはずだ。
眼鏡関連だとほんとに回避できないな……と頭を下げながらも美夜は遠い目をしていた。
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「いらっしゃい……あら、美夜ちゃん! 来てくれたのね!」
「こんばんは。美味しいもの食べにきましたー」
「お疲れみたいねぇ。ふふ、今日もオススメいろいろあるわよ」
あの後、見事に叱られて落ち込んでしまったので、帰りに行きつけの小料理屋に足を運んだ。
出迎えたのはこの店の店主――攻略対象である。
カウンター九席の小料理屋の店主。見た目は二十代の細マッチョ、中身は可愛いものが好きな四十路、口調はお姉さん。常連からは見た目詐欺と言われる女ケ沢実朋(40歳・オネエ・オーバル眼鏡)だ。
ちなみに前世の記憶を取り戻す前、社会人になって三か月目くらいに慣れない環境と残業でぐったりしつつ帰宅中の美夜と、そろそろ店を締めようと暖簾を外しに出てきた女ケ沢が衝突したのが出会いである。……その時は眼鏡は無事だった。
ゲームシナリオでも「馴染みの小料理屋の店主」として、幼馴染の次くらいの親しさから始まるのだ。
女ケ沢の料理は本当に美味しい。出汁が染み込んだ優しく、旨味のある味付けが多い。少ない席数で静かに食べれるのも魅力だ。新社会人だった美夜の心にクリーンヒットし、最初は泣いたのもいい思い出である。
この女ケ沢も攻略対象だったか……と複雑な気分だが、料理の前ではどうでも良いことだなと思うことにした。
「ここの料理食べるとほんとに幸せになれるんですよねぇ」
「ありがと! 嬉しいこと言ってくれるわね」
オススメをいくつか取り分けてもらい、冷酒を一口。至福である。今の人生でこんな早く日本酒を嗜むようになったのは間違いなくこの店のせいだ。世の中には美味しいお酒が多すぎる。
「また忙しくなっちゃったの? 彼氏となかなか会えなくて寂しくない?」
「あー……彼氏とは別れました」
ここで嘘を吐く気にもなれず正直に答えると、女ケ沢は目を瞬かせた。
「あらま……彼氏も勿体無いことしたわね。こんないい子と別れるなんて」
「あはは、お世辞でも嬉しいです。あ、この銘柄でもう一杯お願いします」
「かしこまりました。……うふふ、すっかり飲めるようになっちゃって」
「美味しいのがいけないんです」
「あらあら、責任取ってもっと美味しい銘柄仕入れなくちゃ」
女ケ沢との間にはカウンターもあり、彼の眼鏡を壊す心配はほぼ無い。美夜も安心して飲めるのだ。
「……そうだ、今度彼氏が出来たら一度連れてきなさい。アタシが見極めてあげるから」
「わー、審美眼強そう」
「眼鏡光らせて見てあげるわ!」
他の客がいないことも相まって、ついつい長居してしまった美夜だった。