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護衛騎士ヘンリー・ブラッドの悲嘆 4



 運命の日まであと2週間と迫ったところで、エドガーとマリに真実を伝えた。

 何か方法はないのかと問われたが、全ては今更な話だ。

 何か言いたげなマリとエドガーをそのままに、残り少なくなった旅程を進めていく。


 その間、ヘンリーは国を見て回って幸せそうに微笑むシルベチカを見守り続けた。


 そうして運命の日の前日、彼らは月への門を護る教会へとたどり着いた。

 荘厳な白い建物の中心に、その月へと通じる聖なる門はあった。

 どこまでも青い空が見える、中庭と言っても差し支えないその場所には、小さな花が咲き乱れ美しい小鳥が囀っていて、荘厳と言うよりはのどかな空間だった。


 門があったのは、その和やかな空間にあった小さな泉の真ん中だった。

 後ろに建物があるわけではなく、ただ異質なほど白い大きな扉だけがそこにぽつんとある不思議な空間だった。


 その日の空はどこまでも、雲一つない青空だった。

 短いまま、少しだけ伸びた髪を揺らしながら教会が用意した、真っ白な礼装に着替えたシルベチカがそこに立っていた。

 すらりとしたシルエットの礼装を着たシルベチカは、ヘンリーの記憶に残る少女ではなく、17歳の大人の階段を上りつつある女性で、いずれ王太子妃となるにふさわしい美しさをそなえた淑女だった。


 あぁ、これが永久に失われるのか。

 ヘンリーはそう思うと、やるせなさと無力感に押しつぶされそうになる。


 今、この瞬間。

 あの小さな手をとって、攫って逃げ出せればどんなにいいだろう。

 力も権利も、シルベチカを救う手立てを何も持っていないヘンリーにできる事ではなかったけれど、そうできたらいいのにと願うことを止められない。


 堪えるために握りしめた手に爪が食い込んで、血が滲む。

 それに気が付いたシルベチカが、慈愛に満ちた表情で微笑んだかと思うとヘンリーの手をとった。


「ヘンリー様は、そうやってすぐ傷を作るのね」

「……」

「もう駄目ですよ、私が治せるのはこれが最期なのですから」


 シルベチカの声が震えて聞こえた。

 それでも泣かずに、優しく微笑む少女以上に強い者の存在を、ヘンリーは知らない。


 耐えろ、耐えろ、耐えろ。

 せめて、彼女が門をくぐるまで耐えろと、ヘンリーは自分の心に言って聞かせる。


「……シルベチカ……。最期に、私に何かしてほしいことはありますか?」

「してほしいこと?」


 そう問われたシルベチカは、少しだけ思案する。

 思い悩む顔を見るのも、これが最期だと思うとヘンリーの目から涙が零れそうだった。


「……ヘンリー様は昔から、私が迷子になっても必ず迎えに来てくれましたよね」

「はい、お嬢様の騎士でしたから」

「それなら……、もし嫌じゃなければ……、勤めを終えた私を迎えに来てくれる?」


 それはとてもささやかな願いだった。

 贄となった者は、魂も心も、魔力も何もかも溶かされて、輪廻の輪にも戻れずに世界に溶けると聞かされていた。

 ただひとつ、還されるのは空っぽになって、朽ちることもなくなった聖遺物となった体だけだ。


「……っ、必ず。必ず迎えに来ますっ」

「ありがとう……ヘンリー様。ヘンリー様が迎えに来てくれるなら、安心して逝けるわ」


 そう言うと、シルベチカの手がヘンリーからするりと離れた。

 迷うことなく、まっすぐに彼女が門へと向かうと、それを待っていたかのように、固く閉ざされていた門が静かに音もなく開いていく。


 門の向こう側からは、優しい光であふれていた。

 あぁ、あれが月の世界の光なのかとすんなりと納得できるほど優しい世界の光に見えた。


「さようなら、マリ様、エドガー様。……ヘンリー様。さようならっ」


 シルベチカは一度だけ振り返って、無邪気に笑って手を振った。

 また明日、会えるとでも言えるような別れの挨拶だった。


 シルベチカが門をくぐった瞬間、門は淡く光を放ち、それから静かに閉じられた。

 後には何も残っていない。

 ただ、穏やかな空間が広がっていただけだった。


 ヘンリーはそれを見届けて、ようやくの想いで両膝をついて泣いた。

 ただただ、最愛の主を想って、声をあげて泣きじゃくったその様子はどの記録に残る事もなかった。



 無表情な騎士は、その後城へと戻ると、「忠誠を、もう王へと向けることができない私は、騎士として失格です」と言って、騎士の座を辞することを王へと告げた。

 王は、最後に「王命として、迎えに行ってくれ」とだけ命じると、騎士がその職を辞することを許した。






 月への門の前。

 ヘンリーが護り続けた少女は、指先程の小さな青い花に囲まれて静かに眠っていた。


 生きているみたいだと思った。

 今までの全ては、ただの絶望的な悪夢で、駆け寄って揺り起こしたらいつものように眠たげに目を覚まして、それから優しい声音で「おはようございます、ヘンリー」と微笑んでくれるんじゃないかと錯覚してしまいそうに、彼女は穏やかだった。


 眠る彼女の横に膝をついて、そっとその手に触れた。

 その瞬間に、手袋越しでも理解してしまった絶望を感じてヘンリーはきつく目を閉じる。


「……約束通り、お迎えに上がりましたよ。シルベチカ様」


 そう言って、いつか幼かった彼女を抱き上げた時のように目の前の彼女を抱き起した。


 力も、魂も、心もすべて失った空っぽの器を抱きしめて、彼は静かに涙を溢す。

 ヘンリーにとって、それは確かに愛だった。




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