猫の少女に手を引かれ
アーエは栗色の髪を手で整えて、ぴくぴくと猫のような耳を動かす。
どうやら作り物ではないらしい、秋山は驚くしかなかった。
(俺は、魔性の世界に迷いこんだのだろうか)
子供のころ聞いたことのある「猫また」という妖怪を思い出す。彼のおぼろげな記憶では年老いた猫が人の姿に化けるという話だった気がする。しかし目の前の少女はちょっと膨れた頬のまま横目で秋山を見ている。どう見ても恐ろしい妖怪とは思えない。
アーエは自分の耳を指さして、手をばたばたさせる。「なーなー」と猫のような声を出しているが、おそらく現地の言葉なのだろうと秋山は理解した。怒っているようなしぐさはアーエのジェスチャーなのだろう。
要するに触るな、ということらしい。秋山はすぐに理解して、婦女子に対して失礼なことをしたと素直に反省した。
「これはすまない」
かるく頭を下げると、アーエはなんでか嬉しそうにしている。お互いにやり取りできるのが楽しいのかもしれない。彼女は両手をわざとらしく組んで「あうあう」と首を縦に振る。かわいらしい満足げな顔をしている。
秋山はその姿にふっと笑う。ただ、すぐに思ったことは「原隊への復帰」ということだった。ここがどこかはまるで分らないし、敵軍の占領地の可能性もある。生きているのであれば自らの仲間のもとにもどらなければならない。
秋山はアーエに身振り手振りでここはどこか問う。アーエは最初何を言われているかわからないという顔をしていたが、真剣に秋山を見ていた。どことなく秋山が何を言いたいのか当てたいという純粋な好奇心も見え隠れしながら。
アーエは両手をどこかを指さす。それは森の方向だった。彼女はそちらにたたたっと軽やかに走り始める。たまに後ろを振り向くのは秋山を誘っているのだろう。
「案内してくれるのか?」
秋山は脱いだ上着と軍帽を小脇にかかえてついていく。
アーエはすいすいと森の中を走って行く。背が低いからか、枝の間を行く。逆に秋山はいちいち立ち止まってはくぐりぬけていく。アーエが走ると落ち葉が舞う。楽しそうに走る彼女の後姿に秋山はひさしく忘れていた日常のようなものを想った。
「うー!!」
「どこに行くんだい?」
秋山は自らの国語で問う。軍人として鍛えた彼には余裕がある。もちろん通じないことはわかっている。彼は目の前に岩があれば飛び越え、慣れてきたのか木々をよけながら走る。すぐにアーエの横に並んだ。
アーエは驚愕の表情をしている。走りながらぽかんと口をあけて秋山を見る。そしてすぐにむっとして、たたたっと前をいく。
(ああ、追いかけっこか)
言葉は通じなくてもあの表情を見ればわかる。
秋山はむきになって走る少女の後ろをついていく。時折、少女は後ろをみて意外と近くにいる秋山に不満げな顔を見せる。彼女はそのたびに走る速度をあげる。ただ、少し息切れをしているように見えた。
「!?」
アーエは足をもつれさせる。転倒しそうになった彼女を秋山は片手で抱きかかえた。一瞬、彼女の大きな瞳が彼を見る。ほんのり顔を赤くしつつ、ばっと離れる。
「大丈夫かい? あまり無理をしてけがでもしたら、親御さんに申し訳が立たない」
「?」
言葉が通じないのは仕方がない。ただ、アーエはじっと彼を見て、何かを考えている様子だった。「あー」だとか「えー」だとかいいながら、顎に手をあててそわそわしている。
「あ、あ、アリがトォウ?」
秋山のまねだろう。今度は秋山が驚かされた、先ほどの彼の言葉を彼女はお礼と理解しているのだとわかった。思わず彼は顔をほころばせた。通じたことが分かったアーエもにこっとして、頭を掻く。どことなく照れくさそうだった。
アーエと秋山は山道を歩きだす。お互いに言葉は通じないが、身振り手振りでなんとなく通じることは分かった。時折この猫耳の少女が指さす方向に彼女の家があるのだう。それが大きな街であれば原隊へ戻ることができるかもしれない。
むろん秋山はこの少女が連れていこうとしている場所に「敵」がいないとは限らないと理解している。武装としても腰に佩いた短刀しかない。これは指揮用のというよりも儀礼的なものである。
☆
山道をしばらく歩いていると遠くに煙が上がっているのが見えた。人里が近いのだろう。アーエはどこで拾ったのか枝をふりふりとしながら先導している。終始ご機嫌そうに秋山には見えた。彼女はいきなり何かを叫び駆けだした。
「転ばないように気を付けてくれ」
あっと秋山が言ったときにはすってんころりんとアーエは転んでいた。鼻をさすりながら立ち上がる彼女に近づいて、秋山はハンカチをポケットから取り出す。ほのかに香る海のにおい。彼はやはり自分が海に投げ出されたことを想った。
それはそれとしてこの海水を含んだハンカチで拭くのはどうかと秋山の動きは止まる。その時、アーエの手が彼の手首をつかんで、ぐいと引く。
一緒に駆けだした二人、
「お、おい、なんなんだい?」
森の出口は小高い丘のようになっていた。そこから見下ろせる景色に秋山は息をのむ。
そよ風になびく黄金の草原。
眼下に広がるのは小麦畑。その間に大きな街道が一本遠くまで伸びている。その先にあるのは城壁に囲まれた街だった。西洋で言う城塞都市だろうか、秋山は感動と混乱の入り混じった頭でなんとか冷静に思考する。
「アーエ」
「んー」
名前を呼ぶとアーエは彼の前にきて、小麦畑を背景に両手を広げて、にっこりと笑う。まるでどうだと言っているかのようだった。秋山はその姿を単純に好きだ、と思った。彼はミッドウェーからここまで軍人としての任務を果たし続け、久しぶりに見るその笑顔に心から癒されるような感覚を彼は覚えた。
彼はここがどこかはわからない。だが、この小麦畑を目に焼き付けておきたかった。
ただ、そんな彼の心の中などわからないアーエは、してやったりとした顔でふふーんと鼻を鳴らしている。アーエは秋山の手を掴んで、平和な、ただ平和な光景の中に引っ張っていく。