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第一話

   

「それではTさん、よろしくお願いします」

「どうしたんだ、K。あらたまって……」

 僕が軽く頭を下げると、T氏は口元に笑みを浮かべた。微笑みというより、苦笑いといった感じだ。

「だって、これから動物実験棟へ行くのでしょう? 僕にしてみれば『いよいよ』という心持ちですから」

「ああ、そうか。Kは動物実験、初めてか?」

「はい。正確には、学生時代、実習授業で少し扱いましたが……。まだ自分がウイルス研究の道に進むなんて、思ってもいなかった頃です。マウスに関しても『この授業が終われば二度と見ることもないだろう』くらいに考えていましたよ」

 そしてウイルス学が専攻となっても、学生時代の研究テーマはウイルス粒子の内部構造だったから、動物実験とは無縁だった。こうして研究員として働くようになって初めて、実験動物と再会する形になったのだ。

「なるほど。まあ全く触ったことがない、ってわけじゃないなら、教える俺の方もラクだな」

「いやいや、もう忘れてますから……」

「安心しろ。俺だって、うちに来るまで、本格的に動物実験をする機会なんて皆無だったぞ。それでも今、特に困ってないからなあ」

「そう言わずに、本当に何も知らないやつを相手にするつもりで、お願いしますよ」

 冗談っぽい口調ながら、僕は真剣な目つきで、T氏に頼むのだった。


 僕の職場であるこの研究室では、Rウイルスについての研究が行われている。動物にも感染するが、人間に感染すると、発病後の致死率90%以上――ほぼ100%――という恐ろしいウイルスだ。

 そのRウイルスにかかった際に、免疫機構の一環として、色々な遺伝子が体内で活発になる。そういう遺伝子を取り入れた組換えウイルスを作製して、新たなワクチンを開発しよう、というプロジェクト。これが僕の研究室で現在メインに行われている仕事であり、T氏の研究テーマも、そのプロジェクトの一つだった。

 T氏の研究では、既に免疫系と知られている遺伝子を用いるのではなく、まだ機能が同定されていない遺伝子――ただしRウイルス感染時に体内で活性化される遺伝子――をターゲットにしている。これが、なかなか興味深いところであり……。


「これまで得られたデータだと……。やっぱり、この遺伝子も、免疫効果を高める方向に働いてるんですよね?」

 薄黄色の天井灯に照らされた廊下を歩きながら、僕はT氏に尋ねてみた。

 彼の実験スケジュールに合わせているため、今は夜遅くであり、この建物に残って働いている者も、ほとんどいない感じだ。どの研究室の扉も固く閉ざされており、廊下を歩いていても人の気配は感じられない。

 コツコツと、僕たちの足音だけが響く。昼間は全く気にならないのに、今は妙に耳障りで、それをかき消すために質問したようなものだった。

「ああ、そうだ。今のところ、他の機能は出てきていない。その辺りは、ラボのミーティングで話した通りだが……」

 何を当たり前のことを聞いているのだ、という顔のT氏。

 いや僕だって、週一回の研究報告会の内容は――特にT氏の研究については――、頭に叩き込んである。なにしろ彼が来月この研究室を去った後、その研究を引き継ぐのは、他ならぬ僕なのだから。T氏の穴を補充する研究員として雇われたのが、この僕なのだから。

「ええ、それはわかっています。でも……。あの場で話せなかったようなデータ、ありませんか? ほら、まだ『データ』というほどじゃないから報告できなかった、みたいな……」

「つまり『有意差があるとは言えない』という程度だから無視した、というデータか?」

「それもありますが、有意差云々以前に、数値化されたデータとして表れてこない、感覚みたいなもの……」

 研究を続けていると、時々あるのだ。当事者にしかわからない、『感覚』としか言いようのない手応えが。それはオカルトでも何でもなく、「研究者としての勘」とでも言い換えたらいいだろうか。

 その段階で口にしても笑われるだけだが、そうした直感に基づいて、それを証明できるような研究プランを立ててみると、案外、正解だったりすることも多い。

「感覚みたいなもの、か……」

 T氏は、少し眉間にしわを寄せて、

「やはり、特に何もないな」

 と言ったきり、黙り込んでしまった。固く口を閉ざす、といった感じに。

 その顔は、まるで「黙秘権を行使する」とでも言っているかのように見えて、むしろ逆に「何かあるぞ」と思わせるものだったが……。

 これ以上は、追求しても無駄だろう。そう感じて、僕も話を切り上げる。

 廊下は再び、僕たちの足音だけが響くようになっていた。

   

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