Ⅱ
「昨日はよく眠れたか」
「……まあ、普通です」
「普通か。睡眠は取れる時にしっかりとっておけよ」
ハヅキは曖昧に頷いて、運転するレノを複雑な思いで見返した。
出勤するなり本部を連れ出され、車に乗せられて数分、レノが初めてまともに話しかけてきた言葉が「よく眠れたか」。そういうことよりも、まずどこへ行くのか目的を教えてほしい。街を案内するという言葉をまともに受け止めるほど、素直な気持ちにはとてもなれなかった。
この男は曲者だ――たった二度の対面だがそう確信していた。
「何?」
「えっ?」
突然問いかけられてハヅキは目を丸くする。信号で停車すると、レノは面白がるような表情でハヅキの顔を覗き込んできた。
「さっきから何か物言いたげに見えるが」
「えっ、いや、そんな」
「取り繕わなくて結構。――で?」
「で、って……」
焦った。レノに言いたいこと?
「――あ。あの、ですね」
「うん」
「綺麗な色ですね」
レノが呆気にとられたようにポカンと口を開けた。
「……は?」
「いえ、あの。髪の色が綺麗だなと思って」
言いながら頭を抱えたい気分になった。ああ、違う。こんなことよりも他に訊くべきことがあるだろうに。
でも、それが今すぐに頭に浮かんだ「言いたいこと」だったから仕方がない。レノを曲者だと警戒しながらも、彼の明るい赤毛は見事だなと思っていたのだ。
この際だ、どうせならもっと言ってしまおうと開き直る。
「それと、目も綺麗だと思ってました。珍しい色で」
赤みの強い茶の瞳が髪の色にしっくりと合っている。
「は……」
呆けていたレノの表情がみるみる崩れてくる。とうとう耐えきれないとばかりに、レノは身体を折るようにして盛大に笑い始めた。そのあまりの大笑いぶりに、ハヅキは戸惑う。
「あの、ちょっと……? あ、信号」
「あー、はいはい、信号ね。……ククッ」
車を発進させてからもレノの笑いは止まらない。懸命に堪えながらも体が笑いで震えていた。ハンドル操作を誤らないか心配になるほどだ。
「そこまで笑うことですか?」
「い、いや、そうだな。ちょっと意外すぎただけだ。まさかここで口説かれるとは思わなかったもんで」
「……はい?」
口説かれ――?
「なっ!」
ハヅキの顔が一瞬で真っ赤になる。
「な、なんで! そんなつもりはないです!」
「異性の髪や瞳の色を褒めるのは、気を引くための常套手段だと思っていたが」
「違う!」
「何だ、違うのか?」
レノはまだ笑っている。
「それは残念だな。ちなみに、うちは職場恋愛は特に禁止していないからな。誰に惚れるも自由だぞ」
「だから、そんなんじゃないですって。私はもっと単純に、素直に綺麗だなって思ってつい」
「はいはい、わかったわかった」
再び車が止まる。レノは笑いの残る顔でハヅキに目を向けたが、そこにからかいの色は消えていた。
「じゃあ俺も素直に礼を言おう。――ありがとう」
それは意外なほど真摯な声音で、ハヅキはひどく困惑してしまった。
**************
レノはハヅキが拍子抜けするほど普通に街を案内した。ガルダの街の要所を回り、そこがどういう場所なのかを簡潔に説明する。果てはこの店は肉料理がうまい、こっちは魚料理が絶品だとグルメ情報まで提供してくれる。
勘繰りすぎただろうかとハヅキは密かに反省する。曲がりなりにもレノはチームのリーダーだ、新入りが早く土地になれるようにちゃんと配慮してくれていたのだろう。
「ガルダの街はここ数年ギャングの抗争が続いている」
街の中心部に差し掛かった時、レノが話し始めた。
「この中央区と西区はとくに酷い。ここに拠点を置くグループ『ギガス』と西区のグループ『スケレトゥス』の争いが激化していてな。すっかり戦場のような有様だ」
レノは車をゆっくりと走らせている。車窓から見える景色は、確かにこれまで通った地区よりも荒んで見えた。町並みは整然としているが、道端にはごみが散乱し、壁や建物には品のない落書きがされている。人通りは少なく、その代わりに通りのあちこちに少年たちがたむろしているのが見えた。
「ギャングの抗争……」
首都近辺ではまるで聞かない話だ。
「警察は何もしないんですか?」
レノは肩を竦めた。
「ガルダの街に警察などあってないようなものだ」
「え?」
「警察は存在するがほとんど機能していない」
「機能していない? では、軍は」
ガルダは国境の街、当然軍も駐屯している。警察が機能していないなら、治安維持は軍が担っているのだろうか。
「それも街の情勢には無関心だ」
「なぜ」
「この街が国が見捨てた無法地帯だからだ」
言った後に、レノは皮肉気に口を歪めた。
「だから俺たちも存在する」
街の南部に入ると、町並みはガラリと変わった。建物は極端に減り、舗装されていないのか気持ちが悪くなるほどの悪路が続く。合わせて人の生活水準も低くなっているのは見るに明らかだった。そういった人々の生活エリアもほどなく途切れ、車はやがて何もない荒野に差し掛かった。
そのまま進むこと数分、街の南端――国境のグラヴィス山の麓でレノは車を止めた。そこで降りるように言われ、ハヅキは素直に従う。
車を降りて改めて周囲を見渡すが、荒野の向こうに国境の小さな検問所が見えるだけで何もない場所だった。着目すべきものはないように思えた。
「もう正午か。予定よりも時間かかったな」
声は車の中からだった。レノは車を降りていないのだ。
「あの? レノ、さん」
降りた助手性のドアから中を覗き込む。レノはハンドルの上で組んだ腕に頭を乗せ、ハヅキを見てニヤリと笑った。
「さて、ハヅキ。ミッション開始だ」
「はい?」
「ここから君は一人で北部のフール本部まで戻らなければならない」
「……はい?」
「タイムリミットは午後六時。一分遅れるごとにペナルティーを科すことにする」
「え? え?」
意味が分からず戸惑うハヅキを全く意に介さず、レノは身体を起こしてハンドルを握りなおした。
「え? あの、ちょっと待って」
エンジンがかかった車に、ハヅキはようやく焦りを感じた。冷や汗が一気に噴き出る。この男、本気だ。
「ではな。健闘を祈る」
「! ちょっと!」
車が動き出す。とっさにドアの窓のふちを掴んだが、スピードを上げた車に簡単に振り払われた。
「ちょっと待って! レノさんっ!」
必死である。
「待ってってば! レノさんっ――レノっ!」
声を限りに叫ぶが、無情にも車は盛大な砂塵を起こして遠ざかっていった。
「嘘……」
ハヅキは茫然と立ち尽くした。
「――信じられない、あの人……ん!?」
ポケットの中のモバイルがメッセージの着信を告げる。レノが気を変えて迎えに来る気にでもなったかと慌てて画面を開く――が。
『ペナルティーは一食分のドリンク。チーム全員に奢ること』
「……」
端末を地面に叩き付けたい衝動を懸命に堪えた。ぐっと拳を握り締める。
「――いいよ、やってやろうじゃない」
誰が奢ってなどやるか。
ハヅキは鼻息も荒く、一歩を大きく踏み出した。