*** 2 ***
首都の中心にあるその時計塔は、待ち合わせ場所の定番ということもあり、いつも多くの人が集まっている。そこに近付くにつれ、ハヅキの足取りは次第に重くなっていった。
……来なければよかった。
得体の知れない『民間警備会社』からの勧誘は、考えるまでもなく断ると決めていたハヅキだが、時計塔の下に立つカイル・ウッドを見付けた時、まずこの場へ来たこと自体を激しく後悔した。会って断るのが筋かと思って来たが、いっそ無視してしまってよかったのではないか。そもそも律儀に断らなければならないような勧誘のされ方はしていない。
――そうだ、やはり帰ろう。気付かれないうちに……。
足を止めて引き返そうと決意した瞬間、見計らったかのようにカイルがハヅキのいる方へ顔を向けた。まずいと思った時には遅かった。目が合う。カイルの顔に微かな笑みが浮かび、ハヅキは唾を飲み込んだ。こうなると仕方ない。
渋々歩み寄ったハヅキに、カイルはにこやかに声をかけてきた。
「こんにちは、ミス・ノーティス」
「こんにちは。あの、私」
早々に返事をしようとしたハヅキを、カイルは軽く片手を上げて制した。
「ああ。こんなところで話もなんですから、場所を変えましょう」
「や、でもそんな必要は――」
困惑するハヅキに、カイルは笑みを深くした。
「あなたに会っていただきたい方がいるのです」
カフェテラスの端の席にその男は座っていた。黒いハットにサングラス、腕を組んでふんぞり返っている男の姿は、若い女性が多数を占めるこの店の客の中でかなり目立っている。カイルは迷わずその男の元へ進んだ。
「レノ。お連れしましたよ」
カイルの声掛けに、だが男は無反応だ。
「レノ」
もう一声掛けるがこれにも反応がない。カイルは肩を竦めると、身を屈めて男のサングラスを無遠慮に取り去った。
「レノ!」
「んあ?」
男がようやく反応を示した。眩しそうに目を細めてカイルをぼんやりと見上げる。
「……ああ、カイルか」
カイルは呆れたようにため息を吐いた。
「まったくあなたは。よくこんな場所で眠れますね」
男は欠伸交じりにそれに答える。
「どこでも寝れるのが俺の特技だ。――で、なんだ?」
「なんだ、じゃないでしょう。彼女、お連れしましたよ」
カイルは、ハヅキの姿が男の目に入るように身体を避けた。男の顔がハヅキを向く。ハヅキは思わず姿勢を正した。人の前に立つときは背筋を伸ばす――軍人として培われてきた、半ば反射的なものだ。
男の目は確かにハヅキに向けられていたが、ハヅキからはその顔がよく見えなかった。男の被ったハットが彼の顔に濃く影を作っていたのだ。
男は声をかけてこない。立ち尽くしたままどうしたものかと考えあぐね、ハヅキは助けを求めるようにカイルを仰いだ。カイルは心得たとばかりに微笑み、男の対面の椅子を軽く引いた。
「ひとまず、おかけください」
「あ、はい」
とりあえず言われた通りにするしかない。ハヅキは腰を下ろし、正面の男に真っ直ぐ目を向ける。だがやはり顔はよく見えない。つい眉根が寄る。不満が素直に顔に出てしまった。
「――ああ」
カイルがようやく気付いたような声を上げた。
「これは失礼。レノ、帽子取りなさい」
「ん? ――あ」
男が、今初めて頭に乗っているものの存在に気付いたようにそれに手を伸ばした。
「悪いね、忘れてたよ」
帽子を取り、くるりと一度回して手に収める。男の顔がようやくはっきりと見えた。人目を惹かずにはいられないきれいな顔立ちをしている。赤みの強い茶色のくせ毛が明るい日差しを受け、見事な光彩を放った。
だが、ハヅキはその容姿の端麗さよりもまず、男が若いことに驚いた。カイルの男に対する口ぶりから彼よりも年上なのだろうと勝手に思い込んでいたが、そう変わらないぐらいかそれよりも下に見える。
「ノーティスさん、この礼儀知らずの男はレノ・フォレスト。我が『フール』の代表者です」
「代表?」
思わず声を上げたハヅキに、レノは口の端を軽く歪ませた。
「こんな若造が、という反応だな、それは」
「あ! いえ、そんなことでは」
レノは気にする風でもなく、大きな欠伸をした。
「別に否定しなくてもいいけど。それで、どうする」
「え?」
「うちに来るのか来ないのか」
突然核心をつかれ、ハヅキは目を丸くした。
断りに来た。それは考えるまでもない。しかし、こうも突然、何の前振りもなしに問われてしまえば、逆に答え辛い。思わず傍らに立ったままのカイルを仰ぎ見るが、彼からは無言の微笑みが返ってきただけだった。
「『フール』にメリットはない」
眠そうな表情のまま、レノが話し始めた。
「まず、君は家を出なければならない。結果として家族とは疎遠になるだろう。これまで君が軍人として培ってきた常識はすべてが意味のないものとなるし、社会的に肩身の狭い思いをすることにもなる。うちに来るということはそういうことだ。失うものはあまりにも多く、得るものはあまりにも少ない」
周囲のかしましさの中で、レノの声は不思議なほどはっきりと聞こえた。決して大きな声で話しているわけでもなく、むしろボソボソと呟くような話し方なのに、声自体が良く通るのだ。
「ただ一つ」
そのレノの声が一段低くなり、ハヅキはギクリとした。つい先ほどまで眠たげだった目が、鋭いものに変わっている。その視線を捕らえた瞬間、背筋を何かが走った。
悪寒のような何か。全身が泡立つのがわかった。
それは生まれて初めて銃を手にした時の感覚に似ていた。「力」を持つものに対する恐怖や畏れ、そして高揚。それらの入り混じった感覚。
「ただ一つだけ、『フール』が君に与えることができるものがある」
低い声のまま、レノは続けた。
「居場所、だ」
その瞬間、ハヅキは悟った。
今の自分が、居場所を失っている現実を。
除隊したその日から、父母はハヅキを腫れもののように扱った。怒りからなのか哀れみからなのか、それともその両方からか。余計なことは何も口にせず、挨拶を交わすのがやっとだった。現役軍人の兄二人とは顔すら合わせていない。上の兄からは絶縁を突き付けられた。親しかったはずの同僚も誰も連絡してこない。皆罪人とは縁を切りたくて当然なのだ。
あの日から、ハヅキの居場所はどこにもなかった。
「……?」
ハヅキは頬に違和感を覚え、手でそこに触れた。指先に濡れた感触。
――涙だ。
「え……?」
ハヅキは目を丸くした。自分が信じられなかった。
――泣くなど。まさか、この私が。
涙は後から後から流れてくる。ハヅキは拭うことも忘れ、ただ茫然としていた。視界が滲む。瞬きをしてそれを流す。――ただそれだけを繰り返す。
ポン、と頭に軽い衝撃を受けた。同時に視界が陰る。
「おいで」
頭上から降ってきたまろやかな声はレノのもの。そのまま足音は遠ざかっていく。ハヅキの頭にはレノのハットが乗せられていた。
「どうぞ、待っていますから」
まるで促すかのようなカイルの声。
ハヅキはのろのろと手を動かし、ハットのつばに触れる。それを固く握りしめると、顔を覆うように深くかぶった。
ようやく泣いている自分を受け入れることができた。