*** 1 ***
ありえない。
ハヅキはこの日何度この言葉を反芻しただろうか。
滔々と読み上げられる「決議文」はもはや耳に入ってこない。
ありえない。こんなことはありえない。何かの間違いだ。
「――以上、査問会を終了する」
……ああ、終わったのか。
「ハヅキ・ノーティス。退室だ」
のろのろと声の方へ顔を向ける。少しだけ同情的な目をした男がハヅキを見下ろしていた。「弁護人」だ。名前は憶えていない。ただの一度しか顔を合わせていないし、ろくに話もしていないのだ。
ハヅキはぼんやりと周囲を見渡した。十数人の男たちが取り囲むように席に座している。その中央にいる自分を今更のように自覚した。
――これは何かの間違いだ。
「残念だよ、ノーティス少尉。――いや、もう少尉ではないか」
低い声に身を固くする。右手側の席を振り返れば上品な口ひげを生やした中年の男が目に入った。
「……ナイル中将」
ハヅキがつい先日まで補佐官として就いていた男だ。彼は組んだ両手に顎を乗せ、大仰な息を吐いた。
「実に残念だよ、ノーティス君。君ならいい士官になれただろうに。――惜しいことだ」
「……にを」
ハヅキはギリと唇を噛んだ。
「全部あなたが――」
「ノーティス! さっさと退室しなさい」
厳しい叱咤の声がハヅキを遮る。忍んだ嘲笑が方々から上がった。
「こんなの……茶番だ」
「ノーティス少尉。――いや、ノーティス二等兵。出ましょう」
弁護人から脇を抱えられ、無理に引っ張られる。ハヅキはそれを大きく振り払った。
「触るな!」
ハヅキはそのまま一度も振り向かず、部屋を後にした。
この日、ハヅキの懲戒処分が決定し、事実上の除隊命令が下された。
窃盗・横領・背任。
それがハヅキに被せられた罪だった。
上官であるナイル中将の私物の銃を盗み、それを闇市場に横流しした。更には軍関係者しか知りえない情報が、とあるネットの掲示板に流れていた。どちらもハヅキによるものだという。
全く身に覚えのないことだった。これらは何かの間違いで、すぐに身の潔白は証明されるだろうとハヅキは思っていた。だが、甘かった。ハヅキのために用意された弁護人はほとんどその勤めを果たさなかった。ただ形式上就けられただけにすぎない。
罪状が突き付けられた瞬間にはすでにハヅキの処分は決まっていたのだ。査問会は意味をもたなかった。見たことすらないナイルの私物の銃が証拠として示され、そこからハヅキの指紋が検出されたとあり、更には、漏洩した情報の閲覧申請がハヅキの名によってされていたというまるで記憶にない証拠までが提出された。覚えがないというハヅキの訴えは全く聞き入れられることなく、これだけの証拠がそろっているのだから軍法会議にかけるまでもないと、その場で処分が決定したのだ。
すべてが仕組まれていた。ナイル中将によって。
何故ナイルが――とは思わなかった。心当たりは一つしかない。
罪状を着せられる数日前のこと、ハヅキはナイルから突然体の関係を迫られた。執務室で二人きりになった時、背後から抱きしめられ、身体をまさぐられた。
『いいだろう?』
『上官に従うのは補佐官の仕事のうちだ』
確かにナイルは上官だ、一瞬抵抗することに迷いが出た。だが、ナイルの分厚い唇がハヅキのものに押し付けられ、舌が侵入してきた瞬間、その迷いは消えた。ハヅキは力の限りナイルの身体を突き飛ばしたのだ。突き飛ばされたナイルは怒りはしなかった。ただ、口の端を歪ませ『わかった』とただ一言だけ呟いた。
その結果がこれだというのか。
「……腐ってる」
制服の胸に付けていた階級章を引きちぎり、拳の中に固く握り締める。
軍は腐ってる。ろくに調べもせずに、くだらない私怨で罪を偽装し裁くことがこうも簡単に行われている。そんなばかげたことがまかり通っているなんて。
「知らなかった……」
手の中から階級章がポロリと転げ落ちた。
これまで誇らしかったはずのものが、ひどく汚らわしいものに思えた。
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「ハヅキ・ノーティスさん」
橋の欄干から川面を眺めていたハヅキの背後には、いつの間にか男が立っていた。長身で体格がいい。一瞬軍人かと思ったが違う。黒のロングコートの下はごく普通のスーツだった。
警戒も露わに、声をかけてきたこの男を見返す。男は整った顔に淡く苦笑いを浮かべた。
「ああ、失礼。私はカイル・ウッドと申します。ハヅキ・ノーティスさんですね?」
「……ええ」
「お話があるのですが、少々よろしいでしょうか」
穏やかな声にうっかり頷きそうになるが、すんでのところでそれを止めた。
「待ってください。話の前に、あなたはどうして私をご存じなのですか?」
「失礼ながら、調べさせていただいたのですよ。元中央陸軍所属、ハヅキ・ノーティス少尉」
「最終的には二等兵です。……なぜそんなことを」
「必要だからです」
カイルは薄く笑んで懐から一枚のカードを出して、優雅な所作でハヅキの前に差し出した。
「今日はあなたを勧誘に来ました」
「は?」
話の飛躍に困惑しながら、カードをおずおずと受け取る。そこにはごくシンプルな書体の文字が書いてあった。
「『フール』……?」
「民間警備会社、とでも言いましょうか」
「は、はあ」
「私どもは多方面において優れた人員を求めています。あなたのようなね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ハヅキは首を振った。
「私はそんなところに勧誘されるような人間では」
「士官学校での成績、軍に入ってからの功績、能力、人格――すべてを調査した上で勧誘しているのです。私どもはあなたが欲しい」
「え……」
「三日後の正午、時計塔の下でお待ちしております。では」
カイルは微笑み、去っていく。ポカンとしていたハヅキは慌てて声を上げた。
「ちょっと! 私行くなんて言ってな――」
しかしカイルはあっという間に人波にのまれていった。ハヅキは呼び止めようと伸ばした手をただ泳がせるしかなかった。