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苛立ちのもたらした幻惑

作者: 道端のコーヒー

 その日はひどく荒れた天気だった。朝方降り始めた雪は次第にその姿を変え、9時の頃には既に激しいみぞれとなって僅かに積もった雪を溶かしていた。


『ただいま電車は40分遅延して運行しております。また、一部区間での大幅な遅延により50分ほど遅れての到着となる予定です。お急ぎのなかご迷惑をかけ大変申し訳ありません。』

 プラットフォームにゆっくりと滑り込んでくる車両のガラスは温度差ですっかり曇っており、その中にぼんやりと疲れ切った顔をした人々の顔を映していた。

 ベルが鳴り、扉が開くやいなや、彼らは鞭打たれた馬のように、覚醒した目をぎらぎらと鋭く光らせながら我先にとそこから飛び出してくる。私は毎日この哀れなサルペートリエールの患者たち――私は彼らをしばしばこのように呼ぶが、実際にはそれを演じる役者に見える――を見る度に、決まって、アトリードを見るような憎悪と不信感を抱くのであった。


 彼らが抜け落ちて空っぽになる前に、私を含む列はその車両に乗り込む。そうして空いた座席へと腰を落ち着け、眠るものもあれば、本を読むものもある。彼らは目的地まで思い思いの事をして、有意義な移動をするのである。

 ところが今日は普段のようにはいかなかった。延々とアナウンスが、まるで呪文のように何度も繰り返され、電車は一向に動こうとしない。私はだんだんと疲れ、苛立ってきたのである。そのままの状態で数十分が経過し、呆れ返った私は本を読むのを止め、驚くことに、思わず一言、軽く俯いて"Scheiße"と呟いたのだ!

 私が自分の考えた事が不意に外に出てしまった事を少しの間理解出来ずに、誰が言ったのだろうだなんて惚けた考えをしていると、隣の少女が私の方を見て首を傾げながら何やら外語で私に話しかけて来たが、私は注意をしていなかったので彼女が何を言っていたのか全く分からなかった。

 そこで私は、彼女の方を向いて訪ねた。

「Девушка. Извините, я не расслышал. Говорите, пожалуйста, медленнее еще раз(お嬢さん、私は考え事をしていたので貴女が何を言っていたのか分からなかったのです。もう一度ゆっくりお願い出来ますか?)」と。

 そうしたら彼女は英語でこう答えたのだ。

「I don't know what you want to say.(私には貴方がいったい何を言いたいのか分かりませんわ。)」と。

 それを聞いて私はまたも驚いた。何と彼女の英語はかなりひどいドイツ訛りだったのだ。

「Entschuldigen Sie. Vielleicht haben Sie Deutsch sprach.(これは失礼。てっきり貴女がロシヤ語をお話になったのかと思いまして。)」

「Oh, du Deutsch sprechen können.(あら、貴方ドイツ語をお話になるのね。)」

 育ちの良い雰囲気を纏った美しい金髪の娘は、私がドイツ語を話すと今まで強張らせていた表情を少し緩めた。

「貴方があんまり急に"Scheiße"だなんて呟くから、わたし驚いて何事かと訊きましてよ。そしたら貴方なにやら訳のわからない言葉をお話になるのですもの、驚きましたわ。」

「私も何故思いもよらずドイツ語など呟いてしまったか分からないのです。私は日本の生まれで、よくロシヤに顔を出し、多く友人を持つものですから、自分がロシヤ語を呟いたとばかり。」

「それにしてはドイツ語がお上手ね。わたしはメラニー、メラニー・アルベルツと言います。」

「メラニー。良いお名前です。私は――」


 私達は動かない電車の中で形式的とも取れる挨拶を交わした。しかしながらその挨拶は私達にとっては当たり前のものではなかった。少なくとも、私にとっては。


「それにしても、日本の電車はすぐ止まるのね。私てっきり事故でもあったのかと思いましてよ。」

「ここは雪がなかなか降らないものですので。薬品も撒きませんので。」

 彼女は苦笑を浮かべた。

「それは私の故郷の事をおっしゃって?」

「ええ、まさしく。」

 軽い調子で話をしながら、二人して軽く微笑を交わした。


 彼女は顔立ちも良く、しかし特別綺麗という訳でもない。言ってしまえばありきたりの人であるが、その瞳は不思議な魅力を持って私を惹き付けた。

 不意に私達の間に沈黙が流れた。車内で話をしているものはおらず、時折状況説明と謝罪のアナウンスが流れるばかりで、静寂が場を支配していた。耳を澄ませば、車両の屋根をみぞれが軽く叩いている音が聴こえてくる程だった。それは小さなみぞれ達が屋根の上で踊りでも踊っているかのように、軽快で騒がしいものだった。


「私の顔に何か付いていて?」

 娘は手で自分の顔中を軽くこすりながら私に尋ねる。私は何を考えるでもなく、ただ呆然と彼女の瞳に見惚れていたのだ。言葉と共になされたいくらかの連続した瞬きが、夢の世界から私を苛立ちの募った車内へと連れ戻したのであった。

「いえ、美しい瞳だなと思いまして。」

 私は、熱のせいであろうか、怖気づく事なく心中を明かした。彼女には私にそうさせる力があったのだ。

「あら、お上手なのね。」

 ふと弛んだその口許から覗いた白い歯は、血色の良い唇のせいかやけに目立って見えた。蒼白い顔に、唯一、瞳と唇ばかりはまさに生きている様であった。



 少しの後に電車が動き出した。私は結露を指先で払い除け、普段見慣れた景色が白く染まっているのをぼんやりと眺めながら、故郷を思い出していた。唐突に私を覆った望郷の念は、しかし隣の娘の存在によってすぐさま打ち砕かれたのであった。私達は電車の中で騒ぐ訳にもいかないので、まるで大きな犯罪の共謀者のように、小さな声で話し、その小さな相手の声を、耳を欹てて聴いていた。

「雪、すぐに溶けそうですね。」

「この調子だとすぐでしょう。日が出ればもっと早いかもしれない。」

 彼女が少し打ち解けた口調になったのにつられて、つい自分まで打ち解けた口調になってしまう。だがそんな事を気にも留めさせないような光景が目の前にはあらわれた。

彼女はそんな私の視線に気がついて、再び軽い自嘲的な微笑を漏らしながら、悲しげな声で言った。

「醜いでしょう。笑うなら笑えば良いわ。」

 私はそんな彼女を見て、またも思った言葉がそのまま漏れてしまった。

「貴女は、どうしてそんなに美しいのだろう。」

「冗談はよしてくださいな。貴方は哀れな私を見て優越感にでも浸っているおつもりですの?」

「とんでもございません。」

私は自分の元来持ちあわせた皮肉っぽい物言いがこれほどまで憎いと思う事はあっただろうか。すっかり落ち込みきった娘の顔は、結露した窓から差し込む僅かな光に照らされて、なにか悲劇的なものすら感じさせるのであった。

「私には貴女のその瞳が、大変美しく見えるのでございます。」

「なにゆえ私をからかうのです?」

「では逆に訊きましょう。なにゆえ貴女はその瞳を醜いとおっしゃるのです?」

「醜いものは醜いのですよ。私のこの目を見て醜くないと言ったものが果たして今までいたでしょうか。」

「お嬢さん、サルミアッキはご存知ですか?」

 その質問に娘は“何をふざけた話を”とでも言いたいかのように、兎に小馬鹿にされた野獣のような威厳な風格を持って答えた。

「ええ、もちろん。」

「貴女はあれはお好きですか?」

「ええ。」

「日本では、とりわけ私の友人たちの間では、あれは非常に嫌われていましてね。一人として賛同してくれる人はいませんでしたよ。」

「それは個人の好みというものでしょう。当たり前に人には好き嫌いがあるものです。」

「それでも、私にとってはあれは非常に美味しいもので、誰が何と言おうと私の舌は、私の脳は、サルミアッキを『美味しいもの』として処理するのです。」

 少女はその目に宿っていたぎらぎらした光を抑え、黙って頷いた。

「ものの価値が時代や地域によって全く異なるように、何事もその人独自の感じ方があるものです。貴女がたまたま貴女の瞳を見て『醜い』と感じる集団の中に長くいたせいで、貴女はその瞳に自信を持てなくなってしまった。だからその瞳は貴女にとって『醜い』ものとなった、それだけの話なのですよ。」

「ではお訊きしますわ。貴方はこの私の瞳にキスが出来て?いいえ、あなたは変なのよ。あなたこそが!」

 諦めにも似た悲鳴が、細い娘の喉から絞り出された。私はただ一言

「Fühlen Sie sich ängstlich?」

そう訊いたのだった。



 それから少しの間、電車に揺られながら再び沈黙が私達の間にどっしりと構えていた。それは私達を隔てているようでもあり、また私達を共に包み込んでいたようだった。その沈黙を破ったのは、またも彼女の方であった。


「ねえ、貴方は、お馬鹿さんよ。どうして私なんかにそんな言葉かけるの?」

 彼女の瞳は、まるで万華鏡のように、その色をとめどなく移り変えるのであった。先程までの怒りと自己嫌悪に染まって攻撃的だったその瞳は、今では微かに不安と不信感の色を浮かべて、ただ感情の海原を彷徨っていた。

「貴女の瞳があまりに美しいものだから、貴女にそれを知ってほしいのです。」

「それって不味いと思うサルミアッキを美味しいと言って食べろというようなものよ。ああ、何て残酷なひと!」

「いいえ、そうでは無いのですよ。私は、ただこの世界にはサルミアッキを美味しいと感じる人もいると言いたいだけなのです。しかし不思議と、周りが不味いと言ってかかったからと言って、その食べ物が不味くなる訳ではないでしょう。」

 私は彼女の瞳を見ながら話した。それは彼女への真っ向からの対立のようなものであろうと考えていたからだ。

「私は、気に入りませんわ。」

 彼女は目を瞑って俯いてしまった。恐らく寝るのだろうと思い、私も倣って頭を垂れた。

「誰一人、親ですらも、私のこの目を褒めはしなかった。それが見ず知らずの人から、それもそんなに本気になって、褒めてもらえるだなんて、思いもするものですか。」

 独り言のように、自分に話しかけるように、彼女は続ける。

「貴方は、“ein sündiger Mensch”(私にはこのように聴こえた)よ。」



 電車が駅に近付いて、ふと彼女が立ち上がった。そうしてその万華鏡のような瞳で私をしっかりと捉えて、今度は本当に笑いながら、言うのであった。


「さようなら、優しい人。貴方とあまり長くいると、私、あまりに惨めで生きていけなくなってしまいそうですわ。きっと今まで毛嫌いしていた食べ物も、久しぶりに食べてみたならば、美味しい事もあるのでしょうね。」

 そう言って彼女は人混みを抜けて、姿を消してしまった。悪戯っぽく、軽く舌を出した顔を私の脳裏に焼き付けて。




 その日はひどく荒れた天気だった。朝方降り始めた雪は、儚く溶けてしまっていた。もし明日も雪が降るならば、私はきっとただ一つ、その結晶を探す為だけに、心躍らせているだろう。

少しだけ古いタッチを心がけましたが、どうにもなれないものでして。今日の朝、私の住む街ではすっかり交通がやられてしまっていたのですが、普段は苛立ちもしないのです。それが今日に限っては熱のせいもあってか嫌に苛立っていまして。どうにも不思議な事もあるものです。

彼女はオッドアイでした。私にはそれがとても神秘的な――それはある一種の神話の世界のように高貴さを持っていた――ふうに見えたのです。あまりに、綺麗でした。

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