夢売りの老人
「夢を売ります」
目の前の老人が言った。黒いシルクハットにスーツの出で立ちは、どこか悪魔的な印象を与えている。
「へえ。それはいいですね」と僕が返すと「でしょう」と言って老人がほほ笑んだ。
夢。それは現実では起こりえない願望を投射する、自分に都合のいい映画のようなものだ。それは当人にとって望む、心の奥底の想いを映し出すものである。
だからそんな夢を売るなんて要領を得ない言葉に曖昧な返事しかできないでいた。
「対価は、もちろんいただきますがね」
老人がそう言って一枚の紙を、取り出した。A4の大きさの紙で、それは契約書のような体裁をとっていた。
初めに夢を売るとは厳密にはどう言った物だと言うことが書かれていて、続いてその対価について記されている。そしてそれらの契約で起こり得る不利益は当社の責任ではないと言う文で締めくくられていた。
「ふむ」とうなずいて。
「質問があります」と言う。
「どうぞ」と老人。
「まず、夢についてなのですが。これは本当にどんなものでも実現するのですか」
「もちろん。それがどのような荒唐無稽な夢物語だろうと、あなたはそれを手に入れることが出来ますよ」
老人が堂々と答えた。答えながらペンを取り出して僕に差し出してきた。
僕はおそるおそる老人が差し出したペンを手に取る。
「対価について。ですが。これには現実を差し出すと、そう書かれていますね」
「ええ。あなたの今の生活。そうですね現実でのあなたをいただきます」
「それは、僕が失われると、そういう事ですか」
「ええ。ですがあなたは夢の世界を手に入れることが出来ますよ」
それは、何て素晴らしいのだろうか。
「夢の世界で、あなたは思うが儘、好きに過ごすことが出来る。その権利を、私はあなたに提供したいのですよ」老人が手を広げ語った。その顔には、地震に満ち溢れた笑みが浮かんでいた。
なるほど、しかし。
現実を売って夢を買うなんて、そんなことが本当に。
「おや、まだ夢を買う決心がつきませんか」
老人が困ったようにほほを描いた。
「しかしいいのですかな。この機会を逃せば、あなたは一生うだつの上がらないみじめな人生を送ることになりますよ。それでよければ、この話は無かった事にさせていただきますがね」
そんなことを言われて、現実でのありさまを思い浮かべる。
二十歳を過ぎて三十路に至り。会社では使えないと評され、バイトにすら邪険に扱われて、家へ帰れば親からやれ結婚しろだの孫がどうだの言われ、妹夫婦に至っては二人とも大企業の一線で戦う企業戦士だ。
だったら、こんな現実、売ってしまって。
なんだってできる夢を買うのは、それはとても理に適っているのではないかと、思ってしまった。
思ってしまったら。もう手が動いて契約書にサインしてしまっていた。
「ありがとうございます」
そう言って紙を回収する老人。
「これで、あなたは夢の世界を得ました。現実を対価に」
老人が一礼した。
「では、良き夢を」
そう言って、僕の視界ホワイトアウトした。
目が覚めると、いや夢なのだから目が覚めるのはおかしいのか。ともかく次に気が付いたときには、すでに夢の、僕が思い描く理想の自分になって理想の世界の中に居た。
なんて事は無い、僕が英雄で、世界を救って。その過程でいろんな女の子と仲良くなって、だれと結ばれるか選んで、死ぬ気で生き抜いて、戦って。
そういう、夢を見た。
そういう、夢を望んだ。
そういう、夢を駆け抜けて。
そして。
そして、醒めた。
醒めて、あたりが、真っ暗なのに気が付いた。
「おーい」と、僕を好いてくれた人たちの名前を呼ぶ。僕の師匠となった人の名前を呼ぶけれども。返事は無い。
だれも、僕の世界に居ない。誰も。
見渡す限りの暗黒。
暗く孤独な世界。自分の体すら見えない闇の中で。その中にぽっかりと浮かぶようにして意識があった。
「だれか。誰かいないのか」
叫んで、叫んで。でも誰もいない。
どういう事だ。理不尽だ。あんまりだ。裏切りだ。
夢の世界での思い出が、消えていく。流出していく。この暗黒に飲まれていく。
消える。
思い出が。楽しい、つらい、苦しい、悲しい、でもそれでも駆け抜けたかけがえのない思い出の数々が、その一切合財が僕の脳内から流れ出ていく。
やめろ。奪うな。大事な物なんだ。僕の、それは僕の。大事な。
ゆ――――。
「夢、ですかな」
すぅと。目の前に老人が現れた。
黒いシルクハットにスーツのいでたちの老人。この真っ暗な世界で、淡く輝くその風貌は尋常ではない存在だと、僕に知らせる。
「あんた、は」
そう。この老人は夢売りの老人だ。
僕に、夢を売った。
その張本人。
「どういう事だ」
「と言いますと?」
いけしゃあしゃあと、聞き返してきた老人。
「この暗闇は何だって聞いてるんだ」
「ああ」
と納得した風にうなずいた老人。そして一言、残酷な事実を告げた。
「夢は、醒める物ですからな」
「は、っはは」
笑う。そんなコト。理解してしまった。
ああ、なんてことだ。僕は、取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
この老人は、この、悪魔は。僕の全部を奪いやがった。
甘い言葉で惑わして、僕をはめた。
「いやですね。私がまるで悪者のようだ」
笑う老人。あざ笑う、老人。
「現実を差し出して、一時の夢を望んだのはあなたでしょうに」
「だとしても、そんなコト聞いてないぞ。夢が醒めるなんて――」
僕が怒鳴るようにして騒ぎ立てると、老人は冷たく、言い放った。
「夢は醒める。当たり前の事実でしょう。それをまるで私が悪魔か何かのように。詐欺師か何かのようにあなたは疑う」
老人が言う。
「あなたはおろかだ。そんな夢が醒めるなんて当たり前の事を、解らないから現実でもあの有様だった。せめて夢の中では、と私が優しさを与えたのに」
「そんなことを、のぞんでなんて」
「それはそれは。ですが現実はすでに私が回収させて頂きましたからねえ。いまさらクーリングオフなんて利かないのですよ。ほら。あなたの現実は、見ての通りの様ですからねえ」
と言ってあたりを見回す老人。
どこまでも、どこまでも真っ暗な、世界。これが、現実。僕の現実。一抹の夢を得るために、対価にし
た、その成れの果て。
「そんな。そんな、事」
「まあ、一時の遊興だったのだよ。君の夢物語は。いやあ良い夢だったねえ。友情に努力そして勝利と。まるで少年漫画のようだったさ。では、このたびはご利用ありがとうございました」
言って礼をする老人。
大仰に、厳かに。
そして顔を上げて言った。
「またのご利用を、いや。あなたは無一文だ。二度と、利用できないでしょうかね」
老人が消える。
僕が、一人取り残される。
静寂。静寂に次ぐ静寂。
一切の生者の気配すらない暗黒の世界で。暗黒の現実で。夢みたいな現実の中で、僕は独りぼっち。
孤独。誰とも会うことなく。
残ったものは、何もなくて。
僕は叫んで、叫んで。
そして眠りについた。
次は、次こそは、と。
「いい夢が、見られますように」と。




