part3
いつからだったろう。樹と体の関係を持つようになったのは。
いつも使うラブホテルで、行為が済んだ後、秋は天井を眺めながら考えた。バスルームからシャワーの音と、樹の鼻歌が聞こえてくる。
秋は夏が死んだ後、彼氏と呼ぶ存在を作らなくなった。ただ、何故かわからないが、男に不自由することはなかった。セックスするだけの存在を求め、終われば去るし、合えば思い出した時に連絡する。その中で付き合って欲しいと真摯な態度を取る男もいた。そう言われたらすぐに連絡を絶った。わかっている。特定の何かを作ることを、私は必死で避けている。いや、避けているというよりも…
「秋、入っておいでよ」
バスルームの扉が開く音と、溢れ出てきた湯気と共に樹が顔を出した。黒縁眼鏡を取った樹の顔は端正な方だと思う。何故眼鏡を掛けているのか聞いたら、彼女の希望らしい。
「眼鏡外したらモテるだろうからって」
樹は臆面もなくさらりと言った。秋は「へぇ」っと言っただけだった。その反応が、樹の中では初めてだったのかもしれない。目を丸くして、しげしげと秋を見つめた。
「何ですか」
「秋ってさぁ、俺に全く興味無い?」
「は?」
「あ、男としてって意味ね」
「ないですね」
秋はきっぱりと言い切った。樹だけじゃない。誰にも興味がなかった。自分のことでいっぱいいっぱいなのに、他人にまで興味を持つ余裕はなかった。
はっきりと言い切った秋に対し、樹は少しばかり眉を潜めた。
「何で?」
少しムキになっている言い方だった。きっと今まで出会った、樹が興味を持った女からは異性として興味を持たれるのが当然だったのだろう。秋は樹にわからないよう、鼻で笑った。
「何で俺に興味ないの」
「興味を持たなければいけない理由なんてないでしょう?」
「そりゃそうだけど」
「じゃあ、これで」
そう言って去ろうとした秋の腕を、樹は掴んだ。
「俺は秋に興味ある」
「そうですか。呼び捨てやめてもらっていいですか」
「だから俺とデートしようよ」
「話、聞いてます?」
「してくれたら離す」
秋は溜息をついた。面倒な奴に捕まったなと思った。
「わかったから離してもらえますか」
「じゃあ今日定時で上がってよ。改札前で待ってるから」
そう言ってすんなり腕を離し、片頬だけで笑って、樹は去って行った。
そうだ。あの日にもう体の関係を持ったのだ。でもいつだっただろう。
「秋」
横から樹の顔が飛び出してきた。黒髪から水が滴り落ち、秋の頬に落ちた。
「入ろうよ、一緒に」
「それいつもやだって言ってる」
「いいじゃん。秋の体、見たいんだよ」
「散々見てるじゃない」
「明るい場所で見たいんだ」
そう言って、樹は秋の頬に触れる。湿気を含んだ掌が、少しうっとおしくて、秋は起き上がり、バスルームに向かった。
「秋」
「お風呂は一人で入りたいの」
そう言い放ち、秋は鍵をかけた。出しっぱなしのシャワーから湯気は絶え間なく湧き上がる。秋はシャワーに打たれながら、そっと傷痕を撫でる。心の奥深くにある、癒えることのない傷口。ひりひりして、触れると熱を持っていて、グジュグジュして腐りそうな。その傷は必死に止血しようとしても意味をなさず、ブラックホールのようにばっくりと口を開けている。
「夏…」
秋は呟いた。呟くと涙が溢れ出した。
私はいつまで。いつまでこうして生きなければならない?何故?どうして?
言葉にならない嗚咽は、シャワーの音にかき消されて排水口に流れて行った。