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水の底  作者: peony
1/3

part1

水の底が私を呼んでいる。

幼い頃、私は綺麗な川や湖、海を覗いてはそう言い、母に怒られた。水の底には死者がいる。水の底が呼ぶなんて不吉だと、母は私を水から遠ざけた。


でも、呼んでるの。


キラキラと光る水面は宝石のように美しく、触ればすぐそこにあるような気がして、いつも手を伸ばすのだけれど、いつも届かない。それは、大人になった今も変わらない。



私の左腕の内側には、いつまで経っても消えない跡がある。幾重にも伸びた、細い鉛筆で書いたような跡。その中にある、白い太い跡。私はこれを見る度、安心と、胸を鋭く突くような痛みに襲われる。暑い季節は隠すことなく剥き出しにする。あからさまな視線が注がれることもあるが、気にしない。


彼女……私の妹の夏は18の時に自殺した。その時私は実家から遥か遠くの大学で、着いた時には夏はもう死化粧を施された後だった。

もともと美しい顔をしていた。化粧映えのする端整な顔立ち。白い布切れを取った夏は、ただ寝ているだけのように見えた。

「夏」

そう言って頬に触れた瞬間、肌が粟立った。硬く、人形のような冷たさ。糸が切れたように、私の目からは涙がとめどなく零れた。

夏は飛び降りた時、背中を強く打ったらしく、死因は内臓破裂だった。落ちていく途中に恐怖が襲ったのだろうか。頭と顔を守るように落ちていったと、見ていた人が言ったらしい。

落ちていく途中、彼女は何を思ったのだろう。恐怖はあっただろう。でもそれ以上に、「やっと楽になれる」。そう思っただろうか。

中学を卒業後、夏は次第に悪い連中とつるむようになり、夜な夜な出掛けてはシンナーや煙草の臭いを漂わせ、両親に怒鳴り散らしていた。だが、私とは不思議と気が合って、私が家にいる時は大抵部屋にやってきてとめどなくお喋りをした。

私にはわかっていた。夏は拭っても拭えきれない孤独を、悪いことをすることで、必死に埋めようとしていた。白く痩せ細った体躯。傷んだ金色に染めた髪。黒いアイシャドウと幾重にも塗られたマスカラ。彼女にとって、化粧は武装のようなものだった。しかしその心の奥底にはいつも裂け目があって、絶えず血をたらたらと流していた。

私には夏が痛ましく、見ているだけでいつも泣きそうになった。なぜなら私も夏と同様、常に孤独から逃れるように必死だったから。夏と違ったのは、私は規則正しく生きていた。それが自分を守る唯一の方法だと、あの時は信じてやまなかった。けれど、奥底にある裂け目は閉じるどころか開く一方で、その度私はカッターを手に取り、刃先で左腕の内側を引っ掻いた。それは何度も何度もやると、やがて削ったばかりの鉛筆で線を書いたかのように白い跡が残った。

夏が死んだ。もう戻らないとわかった時、私は衝動的に傍にあったカッターで内側を切った。思ったほど血は出なかったが、代わりに白い触るとぷちっと潰れそうな肉が切り口から顔を出した。痛さがなかった。感じなかった。ただ声にならない声と白い肉だけが、鮮やかに私の記憶にいつまでも残っている。


夏が死んで10年経った今も、あの白い肉が出た跡は消えずに残っている。忘れるな。傷の痛みはなかったが、あの日の心の奥底についた傷は消えない。消えるどころか、元々あった裂け目を更に抉り出して深い傷になった。時々、私はぼんやりとその傷を眺め、夏を思う。そして今も尚生きている自分に、どうしようもない絶望を感じていた。

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