本日はお日柄もよく
「本日はお日柄も良く」
おばあちゃんが握った、ちょっと塩からいおにぎりが私は大好きだった。細く皺の深い手が、硬く握りしめて、最後に海苔を巻いてくれる、おにぎり。幼い頃、両親が仕事で忙しかったせいで、よくおばあちゃんの家に預けられていた私は、生粋のおばあちゃんっ子だった。
「手に水を付けて、お塩を振るんだよ」
「あついよぉ! おばあちゃん」
台所で、おばあちゃんと並んで、お手伝いするのも、私は大好きだった。ガスの炊飯器で炊いたお米を、ぎゅっぎゅっと握るおばあちゃんの手つきを何度真似してみても、おばあちゃんが歳をとって指が細くなって、反対に私が成長して手が大きくなっても、おばあちゃんみたく固くしっかりと美味しいおにぎりは、私には作れない。
それは、私がもう成人した社会人で、明日おばあちゃんが70歳のお誕生日を迎えるという、今日になっても、まだまだ変わらないし、きっといつまでも追いつけない。
都会から車で3時間の田舎町に、おばあちゃんは一人で住んでいる。目の前に田んぼが広がる、田舎道の奥。大きな庭のある平屋の日本家屋が、おばあちゃんの家だ。
いつもはがらんと静かな木造の日本建築だけれど、今日に限っては親戚一同、大人から子供まで合わせて14人がおばあちゃんの家に集まっていた。
「みんな集まるとにぎやかでええねえ」
「ごはんの準備が大変じゃない」
朝から続々と親戚が集まってきて、今は私とおばあちゃん以外は居間で集まっていた。久し振りに集まった者同士、会話する声がこちらまでよく響いてくる。
おばあちゃんと私は、昔と同じように、台所で並んで晩ご飯の準備をしていた。今はお手伝いというよりも、私がメインで動けるようになったから、おばあちゃんは味見係だ。まだ現役のガス炊飯器でお米を炊いて、寸胴のお鍋で大量に豚汁を作る。
「おばあちゃん、ゆっくりしててよ」
「とわ子こそ、久し振りの休みに、働かんと、休んどってええんよ」
おばあちゃんは皺くちゃの顔でにっこり破顔して、とれたてのキュウリを切る手を止めない。そんな姿を見て、私は胃がきゅうっと締め付けられるような痛みを感じる。今日のことを考えて、もう1週間もよく眠れていない。涙がこぼれそうなのを、無理やりに笑顔を作って、唐揚げ用の鶏肉をさばくためだという風に背を向けた。自然に、笑うのは、今日は少し難しい。
「仕事はどうやの。ワイドショーなんかでは、ブラックいうて大変そうやけど」
「うん。残業が多くてちょっと大変だけど、平気だよ」
「そうか。聞くだけしかできひんけど、なんでも言いや」
「……うん」
「何をしたって、おばあちゃんだけはあんたの味方やさかいにな」
「……ありがとう」
どうしても、今日は、うまく笑えない理由がある。ありふれた励ましの言葉に甘えて、胸がずきずきと痛む理由を、おばあちゃんに話したら、許してくれるだろうか。いつも通り、笑顔で励ましてくれるだろうか。こんな日に甘えるのは気が退けるけれども、つい、おばあちゃんには甘えそうになってしまう。だって、こんな日におばあちゃんはにこにこと変わらずにいられるのだから!
「そういえばなあ、明日おじいちゃんと久し振りのデートやない」
私がふさぎ込んでいるのを察してか、料理を続けていると、茶目っ気たっぷりに、おばあちゃんがはしゃいだ声を出した。思わず粉を揉みこんでいた鶏肉から手を離して、振り返る。
「え? デート?」
思いがけず、むっとした感情が声に現れてしまった。今日はいつもとは違うのに、いつもみたく、おばあちゃんはおちゃらけた態度を崩さないから、お門違いとは分かっているのに、つい、苛々してしまう。寝不足のせいもあるのだろう。悩みすぎて、痛む目頭をぎゅっと抑える。
おばあちゃんとは昔から、色んな話をした。学校であったこと、友達と喧嘩をしたこと、好きな男の子のこと。成長してからも、会えなくても、電話で恋愛相談に乗ってもらったり、仕事の愚痴を聞いてもらったり、励ましてもらったり、沢山たくさん、話をした。
私の話を聞くだけじゃなく、おばあちゃんは話をするのも好きだった。おばあちゃんは、おじいちゃんが大好きだったから、惚気話や愚痴だったり、おじいちゃんの話ばっかり聞いていた。いつまでも若いつもりだから、還暦を過ぎてからも、二人でちょっと近くへ買い物へ行くだけでもデートと言って喜んで、前日から服を選んだりしていたものだった。
「どの服がええと思う? やっぱりちょっと奮発して着物かしらん」
「着物、良いと思うよ。鶯色のやつ、似合ってると思う」
「ああ。あれなあ。じゃあそれにしよ。とわちゃんありがとうねえ」
セミがミンミン鳴いている、夏真っ盛り。台所の窓から覗けば、太陽がまぶしくって、庭の池がきらきら光っている。山から湧水をひいている池では、スイカが2つ、キンキンに冷えている。
明日はきっとデートにぴったりの天気だし、今日は親戚が集まって、誕生日を祝うには絶好の日和だ。でも、親戚一同がおばあちゃんの済む田舎の家に集まっていたのは、お誕生日を祝うためなんかじゃ全然無い。
服が決まったと、明日のデートが楽しみだと、おばあちゃんは無邪気に喜んで笑う。こんな日だというのに、にこにこと、昔から変わらない笑顔のままだ。増えたのは顔の皺ぐらいで、あとは全然変わらない、元気で健康なおばあちゃんだ。
「どうして、そんな、笑ってられるのよ……」
私は作り笑いさえうまくできないのに、明日、死ぬのだと分かっていて、こんな笑顔が出来るだろうか。
おばあちゃんは明日、70歳の誕生日を迎える。それは同時に、国の制度によって、文字通り「お迎えが来る」ことを意味していた。
明日、おばあちゃんは「お迎え」がきて、もう10年前に亡くなったおじいちゃんの元へ、旅立つのだ。
*
5年前に施行された「法定寿命制度」、それは、社会保障費の増大する高齢化社会を乗り切るために、お偉いさんたちが苦肉の策で考え出した「現代の姥捨て山」制度だった。
『すべて国民は70歳の誕生日を法定寿命とし、公的施設にて死去する義務を負う。』
法律で寿命を定めることによって、医療費や年金の問題を解決しようという法律は、現代の悪法とも画期的な制度とも受け取られている。5年前、法律が可決されるまでは熱い議論が交わされていたけれども、結局、70歳までは手厚い保障を受けられるとあって、か細い年金で長く生きるより、太く短く生きる方が良いという意見が優勢となり、法案は可決された。
明日の朝には、安楽死施設の薄桃色の車がお迎えに来て、おばあちゃんは連れて行かれてしまう。そして、次に会えるときにはもう葬儀場で、おばあちゃんは棺の中にいるはずだ。
ただ、親戚一同は、おばあちゃんの死を見届けるためだけに集まった訳では無い。
制度にはたった一つだけ、抜け道があった。たとえば芸術家や研究者、技術者のように、年齢が高まるにつれて深みを増す職業や人物だっている。そういう場合を想定し、この制度にはきちんと救済措置が設けられている。
『特に、10名以上の成人の希望署名を有する場合、この義務を免除する』
『法定寿命撤回の希望署名は、成人1人につき権利を1回まで有する』
つまり、成人10人が生きていてほしいと届け出を出せば、義務は免除されるのだ。だけれども、この希望を出せるのは1人につき1回までだ。誰も彼も長生きしてほしいという願いは、残念ながら聞き届けられることはない。
台所の扉の向こう、襖を全部取り払った3部屋ぶち抜きの居間では、自分たちの有する権利をどう使うか、おばあちゃんが明後日死んじゃうか、明後日以降も生きるか、親戚が一同介して喧々諤々議論をしている。
おばあちゃんの子供である伯父さん、伯母さん、お父さん。それぞれの配偶者と、孫6人とひ孫が1人。孫の内2人はまだ成人していないけれど、ちょうどぴったり成人が10人いた。おばあちゃんが、明後日以降も生きていられる可能性は、決してゼロでは無い。
だけれども、もちろん、簡単に結論を出せる問題では無い。簡単な問題なら、親戚が集まってからずっと、かれこれ3時間も喧嘩腰の議論になったりはしないのだ。
「じゃあお前たちはお袋を見殺しにするっていうのか!?」
一番熱くなっているのは長男の源蔵おじさん。おじさんはもちろん権利を行使するつもりでいる。やっぱり、母親が明日死んでしまうのに何もできないというのはつらいんだろう。親戚一同の賛同を得ようと必死になって、少し熱くなりすぎているきらいもある。
「権利は1回しかないんだから、孫のわたしが使っちゃったらお母さんお父さんはどうなるのよ」
源蔵おじさんの娘の奏ちゃんは先を見据えた考え方だ。感情的には、身近な人の死が迫るのはつらいけれども、将来を考えれば一生に1度の権利を簡単に使えないのも事実である。自分より年上の人たちに、みんなに生きていてほしいと願えるだけの権利を私たちは有していない。
「そもそもぉーもう70歳なんだしぃ、この先そんな長くないでしょお」
「権利が無い奴は黙ってろ!」
まだ高校生のいとこの花ちゃんは面倒くさそうな態度で叱られている。そもそも、長生きする老人たちに搾取されるぐらいなら、死の年齢が決まってしまった方が寿命を踏まえた生き方が出来ると、30代以下の世代にはこの制度は比較的好評でもあった。法定寿命の70歳なんて、遠い未来のことを実際問題として考えづらいというのも一因ではあるが、余りに長生きするのは不徳であり、短命を美徳とする考え方も若い世代の間では流行っているらしい。
「10人も同意するなんて無理だってば」
「それよりもせっかく集まってるんだから遺言をしっかりしてもらって遺産相続の検討ってのは」
「お前それでも俺の弟か!」
三兄妹の末っ子であるうちのお父さんは相続だなんて現実的なことを言っちゃってる。お父さんはサラリーマンだから、社会制度の変化を受け入れやすいんだろう。ここに来るまでの車の中で泣いちゃって運転できなくなっちゃったのは、きっとプライドが邪魔して隠している。事務的な手続きを考えて、明日迎える親の死から頭を逸らせたいのだ。
「直系の娘息子ならともかく、婿や嫁まで強制はできないでしょ、兄さん」
兄妹の紅一点の喜代子伯母さんは、現実的に考えて既に諦めちゃっている。伯母さんの言うことももっともで、たとえば、伯母さんが夫である伯父さんに署名を頼んだら、それはつまり伯父さんの父母は見殺しにするってことになる。
親戚一同、みんな、明日おばあちゃんに死んでほしい人なんているはずが無い。だけれども、みんなそれぞれに大切な人がいて、大切な人を選ぶなんて出来るはずが無い。
誰だって家族には生きていてほしいけれど、その権利は1人の人生で1回こっきりしかないのだ。
何かを決めるのは、恐ろしい。人の生き死にに関する事なら、なおさらだ。私は、唾をぎゅっと飲み込んで、このまま議論が平行線のまま明日を迎えて、何も決まらないままにおばあちゃんの寿命が来てしまうことを、うっすらと望んでいる。決断しなければ、罪悪感も国の偉い人たちのせいにして、曖昧なままでいられると、私は期待してしまっている。
私が犯した過ちも、無かったことにして、罪悪感と向き合わないままに、今日という日が過ぎてくれないか知らん。あっけらかんと鳴いている、セミみたく、お気楽に晴れている入道雲に紛れるみたいに、おばあちゃんの寿命が来るのを、私は望んでしまっていた。
だって、おばあちゃんが生きられる可能性は、ゼロなのだ。10人分の署名が集まることはないと、愚かな私は知っている。
「ね。こんな日に、なにも喧嘩しなくても良いのにね」
ごまかすように、私は言った。台所にいるおばあちゃんには聞こえないと思っているのか、居間では喧嘩腰で意見が飛び交っている。
でも、もっとも、おばあちゃんは気にしている様子もない。自分のことについて、親戚がみんな集まって熱くなって話し合っているというのに、おばあちゃんはどこか他人事で、明日はデートなんてふざけている。
「そうだねえ。大声あげて、喉も渇いたろう。スイカでも切って持って行っておあげ」
「どうしてそんな落ち着いていられるの……?」
明日死んでしまうかもしれないと思ったら、もっと、不安だったり、動揺したり、特別やり残したことが無いように焦ったりするものじゃないだろうか。
居間の喧噪を気にしないで、話の内容よりもみんなの喉の渇きを心配して、緑茶をずずずっと啜るおばあちゃんに、私はつい、声を荒げた。
「おばあちゃんのことなんだよ!?」
「そうねえ、年寄りの為に、みんな、すまないねえ……」
「そうやってふざけないでよ!」
馬鹿みたいだ。おばあちゃんのことを心配して、みんな集まって、生きていてほしくて、でも簡単には決断できなくて、罪悪感でいっぱいで、苦しい思いをしているのに、当人がそんなふざけた態度でいられるなんて、馬鹿みたいじゃないか!
涙をぼろぼろこぼしながら、私は逃げるように庭に向かった。
八つ当たりだってことは、身に染みるぐらいに分かっていた。
*
庭の日差しは厳しくて、目にまぶしい。池の中では、大きい金魚がスイカをツンツン突いている。
小学生の頃、神社のお祭りで、金魚すくいでとってきた金魚たちだった。近所でも大きなお祭りで、人の多さと神社の提灯のゆらゆら揺れる不思議な明かりに幼かった私はすぐに魅了された。屋台をおばあちゃんの手をひいて練り歩いて、食べ物を買ってもらって、屋台で遊ばせてもらった。
なかなか金魚がすくえなくて泣いてしまった私に、おばあちゃんは何度もやりなおしさせてくれて、しまいには屋台のおじさんがおまけで金魚をくれたのだった。涙をすすりながら、買ってもらったわたがしを食べて、おばあちゃんに手をひかれて帰ってきた縁日のこと、今でもよく思い出せる。
おばあちゃんの言うとおり、頭を冷やそうと思って、金魚の泳ぐ中に手を入れて、スイカを取ると、ちょうど冷たく冷えていた。切るために台所に行くと、おばあちゃんはいつの間にかいなくなっていた。お手洗いかどこかだろうか。気になって、家の中を少し歩いてみた。
入り組んだ家でもないから、おばあちゃんはすぐに見つかった。一番奥の部屋、おじいちゃんの仏壇の前に、ちょこんと正座で、話しかけるみたいに座っていた。
こんなおばあちゃんを、私はよく知っていた。おじいちゃんが亡くなってから、たびたび、仏壇に向かって、まるでおじいちゃんがそこにいるみたいに、おばあちゃんはよく話しかけていた。話の内容は他愛もないことばかりで、恋人と世間話する若者みたいな感じ、いつもは微笑ましく眺めていたものだった。
すぐに話しかけるのも気が退けて、廊下で少しの間、はばかりながら盗み聞きをする。
「おじいちゃん、今日はねえ、みんな集まってくれたんよ」
「今日は子供や孫に会えて、明日はあんたに会える、私はしあわせもんやねえ」
「あんた、そっちはどんなところやの」
「一人やったら迷ってまうから、ちゃんと手引いて、連れて行ってや……」
仏壇に話しかける、おばあちゃんの背は震えていた。いつもはまっすぐに伸びた姿勢の、足がもじもじと左右に動いて、まるでその背は幼い子供の様に見えた。
怖くないはずが、無いのだ。明日死ぬなんてこと、いくらおばあちゃんだからって、怖くないはずが無いのに、私たちは、なんて無遠慮に、声を荒げていたのだろう!
逃げるように台所へ走って行って、スイカに包丁を入れた。パン、みずみずしいスイカは切れ目を一つ入れただけで、はじける音を立てて半分に割れた。甘い香りがよけいに、涙を誘う。
おばあちゃんの言うように、スイカでも食べて、みんなの頭を冷やそうと思った。明日死んでしまうおばあちゃんの最後の一日を、少しでも穏やかに、朗らかに過ごさせてあげたい。
だって、議論をしたところで、無駄なのだから。
私は、みんなに告白しなければいけないことがある。私が、今日うまく笑えない理由の、もう一つ、おばあちゃんが明日亡くなってしまう、決定的な理由を、私が持っているということ。
何日も寝られなかった原因は、おばあちゃんが明日法定寿命を迎えるからというだけでは無かった。免除の可能性を私が潰してしまったから、おばあちゃんが明日死ぬ原因の致命傷が、私だからなのだ。
議論がこのまま、まとまらずに、何も言わずに済めばいいのになんて、甘えた考えは、もう止そう。おばあちゃんの震える背中に、私はきちんと懺悔しないといけない。
「まあまあ皆、ちょっと休んで」
スイカをお盆の上に細かく切り分けて、居間に持って行く。テーブルの上にどんとスイカを置いてみせると、剣呑な雰囲気が少しだけ冷えた気がする。誰からともなくスイカを手に取って、みんなさっきとは打って変わって、無言でしゃりしゃりと食べ始めた。先程まで声で満ちていた家が、夏の静かな空気で満たされる。台所で煮込んでいるお鍋が、カタカタ鳴るのさえ響いてくる、静寂が充ちる。
「お前はもちろん、権利を使うよな?」
静かな空気を破って、源蔵おじさんが、さも当たり前のように、私に尋ねてきた。ついに、この時が来てしまった。私がおばあちゃんっ子であることは周知の事実だから、他の人たちも私は当然権利を使うものとして、議論から外れていると思っているのだろう。まさか、私が、権利を使えないなんてこと、誰も思いもしなかったのだ。
「そのことなんだけど私……」
言葉が詰まる。肺が震える。暑さとは違った汗が背中を伝って、腰まで冷たい感覚がぞわりと襲う。
ぼーんぼーんぼーん、柱時計が3回鳴った。もう時計はおやつの時間で、午後3時、夕立の気配が鼻をかすめる。ざああっと、田舎の木々が風に揺れる音が広がって、雲が陰る。
「権利が無いの」
「はあ? お前25だろう」
源蔵おじさんが呆れた声を出す。もちろん、すべての成人1人は、人生で1回は誰かに生きていてほしいと願う権利は保証されている。そう、人生で、たった1回分だけ。
「歳の問題じゃなくて……私、使っちゃったの。権利」
声が震える。だってこれは、おばあちゃんの、可能性がゼロになるという話だ。私が馬鹿なせいで、おばあちゃんは明日死んでしまう。
「どういうことだ。誰に使ったんだ」
お父さんが私の肩をがっと掴む。掴まれた衝撃で、頭が揺れて、堪えていた涙がぽろり、こぼれる。
「ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……売っちゃったの。私、署名する権利を、売っちゃったの……」
ぼた、ぼた、ぼた、涙がテーブルに落ちるのと同じように、空が陰って、雨粒が空から降ってくる。暑く湿った空気を一掃するように、夕立がざああっと庭の土を叩いて、急に部屋の中まで暗くなった。今まであんなに暑かったのに、足元に冷たい空気がすうっと流れる。強まった雨足が地面を濡らし、雷がごろごろ鳴る。幼い頃の柔らかい夕立と違って、最近は本当にバケツを引っ繰り返したようなひどい雨が降る。
暗くなった部屋が、一瞬、白く照らされ、ぴしゃあん、割れるような音が鼓膜を震う。雨は当分、止みそうに無い。
*
夕立の雨脚が弱まってきた頃、女子高生の花ちゃんが急に手を叩いた。
「買っちゃえば?」
「え?」
「だからぁ、売れるんなら買えるじゃん。いくらか知んないけどさぁ。ぱーっと10人分買っちゃえば議論の余地ナシじゃん」
盲点だった。売ったことに関して、罪の意識ばかり感じていたけれども、売れるものは買えるのだ。よく気付いたとばかりに、源蔵おじさんが花ちゃんの背中を叩いて嫌そうな顔をされる。
みんなに急かされて私は、財布の中にいれっぱなしだった売ったブローカーの名刺を取り出した。
名刺に書かれたふざけたような「人材仲介のラブアンドピース」というロゴを見て、当時のことを思い出す。
あの日もこんな雨で、私は大学生だった。遊ぶお金欲しさに、手っ取り早く稼げる方法として、友人から紹介されたのが権利の売却だった。綺麗なビルの中にある事務所は役所や銀行のような感じで、5つ並んだ窓口は満員で盛況だった。受付担当というやけに明るい口調の男性に、即急に売りたいと申し込むと、その日のうちに権利を買い取ってくれて、50万円を振り込んでくれた。
あの時、馬鹿な私は、権利の意味なんて全く考えていなかったのだ。
コール音さえ待ち遠しく、私は携帯電話に噛り付いた。周りに聞こえるように音量を最大にすると、みんなも噛り付くように私の周りに集まって聞き耳を立てた。
「お電話ありがとうございます。人材仲介のラブアンドピースでございます」
売った時と同じ、明るい男性の声だった。かいつまんで権利を買いたい旨を説明すると、さも手慣れた口調で、男性は承知いたしました、と簡単に請け負った。
「ただいま、1票1000万円より承っております」
「そんなに!? 5年前は50万で買い取っておいて……」
「ただいま相場が高騰しておりますので、恐縮ですが1000万となります。現在は売値も500万からのお取り扱いとなっております」
「そんな……」
周りでみんなが狼狽えるのが聞こえる。売った値段との相違もショックだったけれども、もちろん、簡単に買える値段では無かったことが一番ショックだ。おばあちゃんが、生きられる希望が目の前に現れたように思えたのに、愕然とするほど壁は高い。呆然として、私はいったん電話を保留にした。
「1000万、だって……」
震える声で、私は背中を丸める。たとえば、あの時、くだらない遊びの為に使ったお金を、もう少しよく考えていれば、おばあちゃんの生きられる可能性はもっと上がったのだ。親戚中で議論して賛成をまとめるだけで、良かったのに、私が馬鹿なばっかりに、おばあちゃんは死んでしまう。
呆然として、呼吸さえ忘れるぐらい頭も真っ白になってしまった私の背中に、不意にどんと温かいものが触れた。
「俺が出す。命の値段とすれば安いもんだ」
お父さんが、私の背中に手を置いていた。服越しにじわりと汗がにじむぐらい、熱い手の平が、私の呼吸を取り戻す。
「俺も出す! 権利を使いたくない奴がいたら、言え。その分も俺が買ってやる」
源蔵伯父さんが揃って声を挙げた。おそるおそる振り向くと、喜代子伯母さんも頷いて、みんなの視線が私に集まって、背中を押すように見守ってくれていた。
可能性がゼロじゃなくなった。それだけで私は涙がこぼれそうなのだけれども、ぐっとこらえて、保留ボタンを解除した。
すると、急に、私の手から携帯電話が無くなった。余りにも突然だったので、私は呆気にとられてしばらく何が起こったのかよく分からなかった。誰かが、すっと引き抜いたのだと気付くまで、時間を要して、その間に事は終わっていた。なかなか声が聞こえないことが不思議で、一瞬遅れて手の中に携帯が無いと気付いて、はっと前を見ると、いつの間にか居間に来ていたおばあちゃんが、私の電話を耳元に当てて、話し始めたのであった。
「もしもし。家の者が先走りまして。……ええ、要りません。明日は、お父さんに会いに行かんといけんのよ。お父さん寂しがっとるけんねえ、長生きなんかしとる間ありません。ほんますみませんなあ。失礼します」
親戚一同、呆気にとられる中、おばあちゃんはほがらかな顔で電話の向こうにお辞儀をして、会話を終えた。電話の向こうから、股のご利用をお待ちしております、という、悪気のないような定型の挨拶が場違いに聞こえた。
「これどないして切ったらええの」
とぼけた顔で、今しがた話した内容なんて、まるで明日の天気の話題程度の軽さで、おばあちゃんは携帯を私に手渡す。受けとった電話はもう既に向こうが切ってくれていて、画面は暗くなっていた。真っ暗な画面に映り込んだ私の顔は、真っ青に染まって、ひどい顔色をしている。
「お袋!」
ワンテンポ遅れて、源蔵伯父さんが憤って立ち上がった。
「ふざけてるんじゃないんだぞ!」
「まあ、まあ、落ち着きなさい」
おばあちゃんが手を伸ばして、おじさんを制すると、凛とした声に、源蔵伯父さんは、委縮して、まるで叱られる子供の様に、床に座り込む。
「あんたら、よお聞きなさい」
すう、はあ、一度深呼吸をして、おばあちゃんは穏やかに正座をした。まっすぐに伸びた姿勢に、私たちの背筋も自然と正されて、きゅっと口元が引き締まる。
「私の為に色々考えてくれて、ありがとうね。十分よ。でもねえ、人の生き死にに手だしてええのんは、お天道様だけなんよ。なんなら、その権利、みんな売ってしまいなさい。私一人分の命を買ったって、家族全員分買える訳やあらへんやろ。誰かを助けよう思って、誰かを見捨てるようなこと、しんどいだけやろ。最初っから選びなさんな」
みんなの顔を一人一人見据えるようにして、おばあちゃんは言った。仏壇の前にいた、震える背中は微塵も見せず、にっかりと笑うおばあちゃんは、強い、強い人だった。
「くっそお!」
突然、お父さんが立ち上がって、スイカを持って縁側に飛び出した。スイカにむしゃぶりつくと、種をぶぶぶっと庭に飛ばす。今まで静かに事務上のことばかり言っていたお父さんが動いたものだから、みんな呆気にとられていたけれど、続いて、源蔵伯父さんも同じ様に立ち上がった。そうして、ばんとお父さんの背中を叩いて、一緒に庭に種を飛ばす。
幼い頃は、きっとこんな風に並んで遊んでいたのだろう。おばあちゃんの前で、まるでお父さんもおじさんも子供のようだ。
「死んでほしくねえよお……生きてて欲しいよ……」
我慢の限界だったのだろう。お父さんが涙をこぼすのを皮切りに、源蔵伯父さんが豪快に泣きだし、次々に皆泣き始めた。花ちゃんがおばあちゃんに抱き着いてえんえん泣いて、喜代子おばさんはスカートをぎゅっと握って静かに涙を流し続けた。口では色々言っていても、おばあちゃんに死んでほしい人なんて、誰一人だっていない。
いつの間にか夕立は止んで、空は馬鹿みたいな日本晴れで、青い空に入道雲がぽっかりと浮かんでいる。忘れていたみたいにセミがジーワジーワと鳴き出した。夏は真っ盛り、おばあちゃんが産まれた日も、きっとこんな良い天気だったのだろう。そして、明日も。
「さ、みんな、晩ご飯にしましょ。出来てるの持っておいで。お腹いっぱいにして、明日はおじいちゃんとデートやからね」
くしゃりと目元に皺を寄せて、おばあちゃんはウインクをする。その意味を、私はもう、間違えない。
おばあちゃんは明日、死ぬのだ。お迎えが来て、安楽死施設へと送られる。
私たちは何も選ばなかった。ただ一人、私だけが、愚かな真似を選んだだけだった。
台所のテーブルには、山盛りの唐揚げと、おばあちゃんの握ったおにぎりがあった。私は、持って行く前に一つだけつまみ食いをした。昔と変わらない、おばあちゃんの塩辛いおにぎりだ。
もう明日からは食べられない、おばあちゃんのおにぎりだ。




