フリーダム22
リョウはベッドの端に腰を下ろし、スケッチブックを広げていた。
「たった二枚しか描いていないのか……」
ジュリアが用意してくれたスケッチブックだが、思いのほか忙しく、ゆっくりと描いている時間がなかったのだ。
彼は自分の絵を改めて眺めると、ふっと笑った。
「それもマーシアだけとはね」
描くのものならほかにもたくさんある。夢にまで見たフリーダムと仲間たち。そして懐かしい故郷、惑星マリダスの景色。鮮やかに思い出せるし、絵の題材としても決して悪くない。だが鉛筆を手にした彼は再び女性の輪郭を描き始めた。集中して手を動かしているうちに、彼は次第に絵の中に入り込んでいく。
ほっそりとした顔立ちに、長い黒い髪。ただ彼女を特徴づけているこめかみから伸びる白銀色の髪だけは描き残す。強い意志を持った瞳と、きりりとしまった口元。できあがったデッサンは、まさにマーシアだった。
リョウは詰めていた息を大きく吐きだして、没入していた世界から抜け出した。
描きあがったばかりのデッサンを少し離してもう一度見る。もっともマーシアらしい表情に彼は満足はした。だがすぐに鉛筆の代わりに消しゴムを手に修正を加える。
口元と目を柔らかく描き直すリョウ。絵の中のマーシアは優しい空気をまといほほえんでいる。ヒューロンで暮らしていたときも、滅多に見たことのないマーシアの顔だ。
「少しばかり願望が入っているな」
リョウは苦くつぶやくと、スケッチブックを閉じ、ベッドに横になる。
戦っているときはいい。訓練をしているときも、兵士たちの教官として訓練室にいるときも、忙しさに紛れてマーシアのことは心の片隅にしまわれたままだ。だが今日のような休養日はマーシアのことを考えてしまう。なにより彼女に会いたい、と。だがまだ彼にはその資格がなかった。そして資格を得て、会うときが来たとしても、それは互いの銃口の向こうだ。
「覚悟はしているんだがな……いささか女々しいか」
そうつぶやいたときだ。彼の携帯端末が鳴った。相手はジュリアだ。
「せっかくの休養日だというのに、地上に降りないと聞いたけど、本当にそうらしいわね」
「そんなことを確かめるために、わざわざ連絡をよこしたのか?」
リョウは体を起こした。
「別にそういうわけではないけど、地上には興味がないの?」
「俺は宇宙にあがったばかりだからな。地上が恋しいというほどではない。俺がここにいれば、そのかわり別の誰かが地上に降りることができるだろう。地上に行くことを希望した全員が行けるわけではないんだからな」
「そうね。それであなたは部屋に引きこもって、絵を描くのね。今もそうだったんでしょう。ベッドの上にスケッチブックが見えるわ」
「目敏いな」
リョウはスケッチブックを引き寄せる。
「昔はよく任務の合間に描いていたでしょう。わたしの家に来るときだって手放さなかったわ。描いた風景画を見せてくれたじゃない。だけどこの艦の中に絵の題材になるものってあるの? この艦にあるといったら、機械か、人よ。でも人物画は苦手だったようだし」
「別に苦手というわけじゃないさ。描きたいと思わなかっただけだよ」
「あら、わたしでも? そういえば一度も描いてくれなかったわね」
ジュリアが過去のことを持ち出してからかう。
「君の場合は絵筆でとどめるよりはそのままの方がきれいだからさ」
「まあっ」
ジュリアが思わず驚きの声を上げる。
「あなたがそんなお世辞をいうなんて、いったいどういうことかしらね?」
深読みしそうな彼女の視線を受けながら、
「別に意図なんかないよ。本当にそう思っただけなんだ。それより、俺に連絡してきた本当の目的を話してくれないか? 何か困っているんだろう?」
ジュリアは驚いた表情をすっと消して
「相変わらず勘がいいのね。本当はあなたが休養時間を使って絵に集中したいと思っているだろうから、話さなかったんだけど……」
彼女の説明は、アリシアーナと雑談をしていたときに遡っていた。その中で王女であるアリシアーナが一度も買い物をしたことがないというのを知ったのだ。
「彼女は王女なんだぞ。君のように街中に出て好きなものを買うというわけには行かないだろう」
「そうなのよ。女に生まれたのに、最大の楽しみをふいにしているわ」
賛同を得たばかりジュリアは力強くうなずいた。リョウはそんな彼女をこわごわと見つめる。
「だからね。今回のシドラスの滞在に彼女を連れて行こうと思ったのよ」
「それはいい考えだと思うよ。彼女はいろいろな経験を積むべきだ」
「そうよね。あなたもそう思うわよね」
ジュリアの言葉にリョウはいやな予感をを覚える。
「確か、エディがシドラスに降りる予定だっただろう? 彼を同行させたらどうだ? 彼なら護衛にはぴったりだ。地上の新鮮な空気を吸いたいと言っていただけだしな」
にっこりとジュリアがほほえむ。
「もうすでにそういう話はしておいたの」
「それはよかったな」
だが本当はその言葉のように安心はできなかった。なぜなら、ジュリアの笑みがますます悪魔の笑みに見えてきたからだ。
「もちろんエディは自ら同行してくれる気でいたわ」
意外ではない。エディは彼女のショッピングの癖を知らないのだから、しかも彼女は有無を言わせず男を従わせるすべを持っている。ニコラスも自分も、休暇のたびに朝から夕方まで彼女の買い物につきあわされた。しかも一日かけて選んだものがスカーフ一枚だったりするのだ。文句を言おうものならば、じろりと睨んで、それ以上の抗議を塞いでしまう。
「でも仕方ないのよ、リョウ。通信機器にプログラム上のエラーが出たとなれば、エディの休暇は取り消し。でもわたしはアリシアーナを連れて下に降りたいの」
リョウは大きく息を吐き出すと
「それで俺に白羽の矢がたったという訳か……」
「はい、よくできました。その通りよ」
リョウはあきれたように携帯端末の中にいるジュリアを見た。
「そこまでたどり着くのにずいぶんとかかったな」
「あなたに事情を理解してもらいたいと思ったの。わたしのショッピングにつきあうことを、内心ではうんざりしているのは知っているし、あなたにとっては久々の休暇だと言うことも、地上には降りる気がしないと言うのもわかっているの。でもエディ以外にわたしが頼りにできるのは、ニコラスかあなただもの。ニコラスは今回は無理だしね。彼ったら逃げたのよ、きっと」
「そんなことはないだろう。彼は艦長だから」
「あら、艦長でも休暇を取る必要はあるわ。今回はわざとずらしたのよ。わたしが地上に降りたらショッピングをすることがわかっているから。そういうことで、あなたしかいないのよ」
「そこまで言われたら断れないだろう。で、いったい何時に軌道エレベーターに行けばいいんだ? 俺は地上に降りる手続きもしなければいけないんだ」
ジュリアは少し考えてから
「一時間後でどうかしら?」
「それだけあれば十分だ」
「じゃあ、軌道エレベーターで」
通信を終えたリョウは、スケッチブックを手に取った。
「次の休暇までお預けだな」
引き出しを開け、スケッチブックをしまい込んだ。そして代わりに、一枚の身分証のカードを手に取る。
それはフリーダムに乗り込む直前に、ウィロードル商船団のアランから受け取ったものだ。
「さっそくこれを使うことになろうとはな」
リョウはカードをポケットにしまった。




