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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第2章 フリーダム
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フリーダム18

「似合うかしら?」

 グレイハウンドの乗組員がはいているパンツに長袖のシャツを着、その上にフリーダムの制服代わりになっているジャケットを羽織ったアリシアーナは、鏡の前でくるりと回って見せた。

「とてもよくお似合いですよ」

 ミカエラ夫人は優しい光を浮かべた目で鏡の中のアリシアーナを見つめる。

「でも本当に侍女を連れて行かなくてもよろしいのですか?」

 アリシアーナの表情が少し曇ったのを夫人は見逃さなかった。

「不安なんですね?」

 アリシアーナは振り返ってうなずいた。生まれたときから誰かが側にいて、いろいろと世話をしてくれたのだ。朝起きてから夜寝るまで、常に侍女が側にいる生活だった。それはこの艦グレイハウンドの中でも変らない。大勢の侍女たちがこの艦の一画を占有し、そのおかげで王宮にいた頃とほとんど変わらない生活を送っているのだ。それが一転して、たった一人でなにもかもすることになる。もちろんできなくはないはずだ。今、一人で服を着替えることが出来たのだ。だが不安は消えない。


「わたしから侍女を一人つけるようにフラー将軍に申しましょう」

 大きなスーツケースに荷物を詰めていた侍女たちの手が止まり、困惑げに顔を見合わせる。

「いくら何でも姫様をおひとりで知らない艦にお乗せするわけにはいかないと、強くわたしが申せば、フラー将軍とて否とは言いますまい」

 そこにはアルシオール国王の厚い信頼を受けているという自負が込められている。アリシアーナは鏡の方を向いた。侍女をつけてもらった方が安心できることは確かだ。だがフラー将軍は彼女がフリーダムへの乗艦を願ったときに力になってくれたが同時に、はっきりとこう言ったのだ。

『心がけはすばらしいものといえます。ですが、これだけは理解してください。あなたは戦闘の訓練を受けていません。しかも王女という身分がある以上、彼らはあなたのために人員を割くことになります。ただでさえ、戦闘員不足の彼らを困らせるつもりでないのなら、侍女はお連れにならないでください。どうしても侍女を連れて行きたいと言われるのでしたら……』

 最後の言葉がアリシアーナの耳に再び聞こえてくる。

『フリーダムの乗艦はあきらめるべきです。彼らはまがいなりにも命をかけて戦っているのですから』

 その言葉にアリシアーナの甘い感情は消えていったのだ。物見遊山のつもりはなかったが、それでもどこかにフリーダムでの暮らしはここでの生活が少しばかり不便になるだけだろうと言う思いがあったのは事実だ。

 もしここで不安だから侍女を連れていくといったら、フラー将軍は決してフリーダムへの乗艦を許さないだろう。一人で全部自分のことをしなければならない不安とフリーダムに乗り込むことを秤に掛ければ、フリーダムに乗ることの方がアリシアーナには重要だった。アリシアーナは迷いを振り払うと、再びミカエラ夫人の方を向いて、

「いいえ、やはり侍女の件は必要はないわ。これも一つの経験だと思いましょう。私はそのためにフリーダムに乗るんですもの」


 その言葉にほっとしたのはスーツケースを閉めようとしている侍女たちだった。彼女たちは侍女とはいえ、決して身分が低いものたちではない。中流から上流貴族の娘たちなのだ。彼女たちは結婚するときの箔付けのために侍女としてつかえているようなものだった。王女の侍女を勤めたとなれば、結婚相手に不自由はしない。

 貴族の令嬢とは言え、自分たちが王宮での暮らしを変えずに済んでいるのは、ここがグレイハウンドだがら出来ることだとなのだ。彼女たちはそのことを十分理解していた。侍女を連れて行くかどうかですらもめるフリーダムでは、どれほどの不自由を強いられるか想像がつく。アリシアーナは自らの意志で望んで行くから問題はないだろうが、侍女たちは違うのだ。だが、王女に仕えている以上拒否は出来ない。だからこそ、アリシアーナが侍女を連れていかないと決めたことに心の底から安堵したのだ。


「いったいどこに行くつもりなんですか?」

 様子を見にやってきたフラーは並べられたスーツケースの大きさと数に驚きの声を上げる。人が一人入る大きさのスーツケースが七つも並べられていた。

「どこにって……もちろんフリーダムですよ。決まっていることではありませんか」

 フラーは深く息を吐き出すと、

「フリーダムにこれだけの荷物を入れる場所はありませんよ。おわかりですか、ミカエラ夫人。フリーダムはこの艦とは大きさも居住環境も違うんです。なにをそんなに入れているのかは知りませんが、替えの服が二、三枚あれば十分ですよ」

「二、三枚ですって? 侍女も連れていけないのに、汚れたらどうするんですか」

「ご自身で洗濯をなさればいいんですよ。みんなそうしていますよ」

「みんな……ですか? この艦の人たちもですか?」

 アリシアーナが戸惑いながらフラーを見た。

「ええ、そうですよ。なにもしなくても汚れが落ちる方法などありません。あなたが着ているものは、あなたの侍女の手に渡り、侍女から下働きの者に渡って洗濯されるんです。ただしそれができるのも、この艦にあなたのお付きの人間を乗り込ませるだけの余裕があるからです。しかしフリーダムにはそんな余裕はありません。自分のことはすべで自分でしなければなりません。彼らと同じ生活をして、彼らの考えをより深く知りたいと願ったのはあなたのはずです。違いましたか?」

 アリシアーナは少し顔を赤らめる。身の回りのことを自分でこなさなければならないと知って、腰が引けたのをフラーに見抜かれたのだ。


「将軍、私は今まで一度も洗濯などやったことはありません。どうやってやったらいいのか……」

「当たり前です。姫様がそのようなことをする必要はないのです」

 ミカエラ夫人が憤然とした顔でフラーの前に立ちはだかった。

「いいですか、フラー将軍。姫様はいずれアルシオールの王位を継ぐ方です。その方がそのようなことをする必要はありません」

 彼女がそう言い放った瞬間、フラーの目が冷ややかな光を浮かべた。周りの空気が凍り付くような寒さになったようだ。

「ミカエラ夫人、王位につこうとする人間が無知であってもいいというのですか? 洗濯などと言う仕事はする必要がないと?」

「それは……」

 さすがのミカエラ夫人もフラーの蔑んだ口調に言葉を続けることができない。

「アルシオールの国民の多くはそういう些細な仕事で生活しているのではありませんか? 王となる者がそういう者たちの仕事を馬鹿にしているようではアルシオールの行く末もしれたものですね」

「なんですって!」

 ミカエラ夫人の顔が怒りで赤く染まる。

「おまえにそのようなことを資格はないでしょう! 陛下の信頼を得た今だからこそ、姫様の護衛を任されていますが、しばらく前まではただの宇宙海賊だったではありませんか。それを陛下に引き立てられてここまできたのでしょう。その恩を忘れて無礼なことを言うのはこのわたしが許しません」

「許さないとはずいぶんな言い方ですな。だがあなたはラキスファン一世じゃない。あなたにどうこう言われる筋合いではないと思いますがね」

「陛下を呼び捨てにするなどとは、なんと無礼な……」

「嫌ならこの艦を下りてくださってかまいませんよ」

 フラーの言葉にミカエラ夫人の手がわなわなと震える。侍女たちは固唾をのんで成り行きを見つめていた。


「ミカエラ夫人、もうやめてください」

 膠着した二人の間に割って入ったのは、アリシアーナだ。

「フラー将軍、お許しください。わたしが物知らずなのがいけないのです。ミカエラ夫人もわたしのことを思って、あのようなことを言ったのです。どうか許しください」

「姫様……」

 素直な言葉で頭を下げるアリシアーナを見て、ミカエラ夫人の目が潤む。フラーも表情を和らげた。

「まあ、アリシアーナ様はご自身になにが足りないのか自覚しておられるようだ。それならいいでしょう。あとで兵士たちが使うスーツケースを持ってこさせます。兵士たちはそのスーツケースに入る分しか、自分の私物を持ち込むことができません。それに入り切らないと言うのなら、フリーダムに行くことはあきらめてください」

 フラーの通告に、アリシアーナは緊張する。

「もし、荷物が収まったのなら、フリーダムでも何とかやっていけるでしょう。困ったことがあれば、リョウ・ハヤセにお聞きなさい。彼があなたの世話係ですから。それに彼はあなたが王女であることを知っています。王女が洗濯をしたことがないと言うのもね。だから心配はいりませんよ」

 緊張していたアリシアーナの顔が明るくなった。

「あの方が、わたしの世話係なのですか?」

 フラーは大きくうなずいてみせる。

「でも彼はあなたの代わりに洗濯をするような男ではありませんよ」

「かまいませんわ。洗濯の仕方は彼から教わって自分でします。荷物もフラー将軍の言われたとおりにしますわ」

「ええ、是非そうしてください」

 

 急にうれしそうにし始めたアリシアーナを見て、ミカエラ夫人は考え込んだ。

 ミカエラ夫人の脳裏にリョウ・ハヤセの記憶がよみがえる。彼女もあの謁見の間にいたのだ。ひざまずいて挨拶するニコラスたちの傍らに立つリョウの顔を脳裏に浮かべた。あの男は無礼にもアリシアーナに握手を求めたのだ。

 ミカエラ夫人ははたと気づいて、いそいそと支度を続けるアリシアーナを見た。彼女がなぜ、フリーダムに乗りたいと思ったのか、その真の理由を悟ったのだ。

 アルシオール王国は帝国の建国よりも歴史は古い。アリシアーナはその由緒正しく誇り高いアルシオール王国の王女だ。それに比べリョウ・ハヤセは氏素性がわからぬどころか、囚人だった男だ。

 心の内の動揺を押さえたミカエラ夫人はうれしいそうに支度をしているアリシアーナを盗み見る。

 その様子は明らかに恋をしている。今まで宝石箱の宝石のようにとても大切にされてきた彼女だが、そのために一人の女性としての経験はほとんどしてきていないなかった。アリシアーナが何のためにフリーダムに行きたいと望んだのか、彼女にはリチャード卿に報告する義務がある。だが、一人の女性としてかりそめの時間を過ごすのも、姫様には悪くない。

 初恋はしょせん実らぬもの。たとえもあの男がアリシアーナの思いを利用しようとしたところで、リチャード卿が阻まれるに決まっているのだ。

 何しろリチャード卿にとってアリシアーナは命よりも大切な存在なのだから。


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