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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン06

 リョウは二日前まで寝起きをしていた部屋の前に立っていた。インターフォンからマーシアの声がして、ドアが開く。広々とした部屋は、強化ガラスの壁が外の景色をそのまま見せているせいで、ヒューロンの雪原にぽつんとベッドと机だけが置かれているように見える。装飾的なものはいっさいない。荒涼とした部屋だ。ここで暮らしていたときはそんな風には思いもしなかったが、通路の方から部屋を見ると、一人で雪原を見つめているマーシアが、まるでヒューロンの大地に取り残されてしまったように見える。「マーシア……」

 おまえは一人じゃない。そう言いかけた彼にマーシアが振り返る。口元を少しあげて、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべている。彼がよく知るいつもの彼女だ。

「いつまでそうしているつもりだ? 中に入れ」

 マーシアが引きずるようにして歩いているリョウの足に目を留めた。

「痛むのか? それともまだよく動かないのか?」

 マーシアが執務机の操作卓を叩くと、部屋の中央にテーブルと椅子が現れた。確かに殺風景な部屋ではあるが、必要なものはすべて揃えられている。ただ見えないように収納されているだけなのだ。


 リョウは椅子の一つに腰を下ろすと、撃ち抜かれた左の太股をさすった。

「ヴァートン博士によれば、左腕の治療に重点を置いていたから、こちらの方はあまり治りがよくないとのことだ。痛みは少しずつ引いていくが、それでも完全になくなることはないらしい。俺の方で痛みに慣れていくしかない」

「あのヤブっ!」

 マーシアが小声で毒づいた。彼女が自分のためにそう言ってくれたのがうれしくて、リョウは思わずほほえんだ。

「ヴァートン博士のおかげで俺は命が救われたんだ。それだけじゃない。帝国の治療もあれほどの怪我なら命が助かったとしても、一生ベッドでの生活だ。金があれば、性能のいい義手や義足をつけることも可能だろうけど、俺たちのような兵士上がりにはとうてい無理だ。多少痛みが残ったところで、彼を責める気にはなれないよ。動きの方も訓練次第では元の状態に戻れるということだしな」

 リョウはマーシアの黒い瞳をまっすぐにとらえると、

「きみには本当に感謝している。ありがとう」

 マーシアは居心地が悪そうに顔を背けた。

「おまえが気にすることはない。わたしはおまえのために助けた訳じゃないんだ。ただの気まぐれだ。そんな感謝されるほどたいそうなことはしていない。勘違いするな」

 悪態で答えるマーシアだが、リョウは腹は立たなかった。彼女がどう言おうと、その行為は彼にとって感謝してもしきれないものなのだ。この先自分がどうなるかわからない。だが、息すらままならぬ絶望から、ひとときでも解放されたのだ。それだけで彼は救われていた。


 給仕係が頃合いを見計らって、カラトリーのセッティングする。テーブルにはクロスが敷かれ、複雑に折られたナプキンがその上に置かれる。マーシアが操作したのだろうか、テーブルの周りは仕切られて、ベッドや書類が山積みの机が見えなくなっている。

「おまえがわたしと一緒に食べたいと言ったそうだな」

 水を飲みかけていたリョウは吹き出しかけた。あわてて飲み込んだためにむせて咳が止まらない。マーシアはテーブルにひじを突き、組み合わせた両手の上に顎を乗せてまじまじと見つめている。

「誰から聞いたんだ?」

 しかしあえて尋ねなくてもその答えの予想はつく。

「エリックは、おまえが今にも泣き出しそうな顔で懇願していたと言っていたが……」

 エリック! 掴んでいるコップの中の水にさざ波がたつ。自分を利用するのはかまわないが、なにもそこまでおとしめなくてもいいだろう。

「そうではないのか?」

 マーシアが何の疑いもない目でリョウを見つめ返した。リョウは答えに詰まる。そこまでは言ってはいないと言いたいところなのだが、そう言ってしまえば彼の立場はどうなる?

「まあ、それに近いかな……」

 リョウは仕方なく曖昧に答えた。そのとたん、マーシアが笑い出す。いったいなにがおかしいのかわからずリョウは戸惑った。だがひとしきり彼女が笑い終える頃、リョウは気づいた。エリックの嘘に彼女も気がついていたのだ。

「おまえ、俺をからかったのか?」

 困惑と怒りの混じったリョウに

「からかってなんかいない。エリックがそう言ってきたのは事実だ。わたしはおまえがそこまで卑屈になるはずはないと思っていたがな」

「それはどうも」

 大人げないと思いつつもリョウは少々むくれたように答える。目の前には給仕係が程良く湯気の立つスープを置いていく。その匂いをかいだ瞬間、リョウはすべてを忘れた。とても丁寧に作られているようだ。匂いをかぐだけで食欲が刺激されるそれは、収容所のスープとは雲泥の差だ。もっとも彼がスープを飲めたのは他人の器に残っていたものだけだが。


「どうした? これは嫌いか?」

 リョウは目を開けた。マーシアの顔が心配そうにこちらを見ていた。そのことだけでリョウはマーシアが自分をからかっていたとしても許せる。

「それならほかのものを用意させよう」

 マーシアが当然のごとく給仕係を呼ぼうとするのをリョウはあわてて制止した。

「嫌いなものを無理に食べることはないんだぞ」

「そうじゃない」

 リョウはいささか決まり悪い思いをしながら、

「感動していたんだ、ただそれだけだよ」

「ただのスープだぞ。それにまだ一口も口を付けていないじゃないか」

「収容所での食事がどんなものかきみには想像もつかないだろう。俺は三年ぶりに人間の食事を前にしているんだ。それまではすっかり忘れていた匂いだ。収容所では朝起き抜けに配られる魚が腐ったような強烈な匂いのする携帯栄養食だけで、その日の重労働を生き延びていたんだ。俺たちのグループは、一番遠くの採掘所でどこのグループよりも遅くまで働かされていた。いつも空腹な上に疲れ果てた体を引きずるようにして収容所に戻っていたんだ。だが待っているのは夕食じゃない。ほかの囚人たちが食べ終えた後の残骸だよ。俺たちはほかの連中が喰い散らかした後始末をするんだ。テーブルから皿を下げ、調理場で洗う。そこで使った鍋も一緒にな。その合間にほかの連中の食べ残しや、鍋底にこびりついているものを指でぬぐい取るようにして口に入れるんだ。みんな飢えているから、皿に残っているソースでさえ先を争うようになめていた」

「おまえもそうしていたのか?」

 マーシアの声から急に感情が消える。その顔には何の表情も浮かばない。彼女が自分に同情しているのか、収容所の人間に憤っているのかすらわからない。ただここで彼女に同情されたら、やむを得なかったことだとは言い聞かせながらも、やはりいたたまれなくなるほど惨めになることだろう。彼女の感情が表にでなくなったことで、リョウは内心ほっとした。だからこそ、彼は事実を伝える勇気がでた。

「そうだ。生きるために俺は看守たちがわざと靴底で踏みつぶしたものも口に入れた。そうしなければ空腹に責められて眠ることができないからだ。眠れなければ体力が落ちる。体力が落ちれば、収容所の中にいても死体になるんだ。生きてさえいれば、必ず希望はあると信じたかったんだ。あの日、看守たちに狩りの獲物として収容所の外に追い出されるまではな」

 リョウの瞳が一瞬、過去に飛んだ。

「だが、すでにそれ以前から希望はなくなっていたかもしれない」

 狩りの獲物にされる以前から、彼は何のために生きているのかわからなくなっていた。抵抗してもどうにもならないことを、いつの間にか体に覚え込まされていたのだ。

「冷める前に食べるといい。向こうでエリックの料理人がいらいらしているようだぞ。うまい食事を出すために彼はすごくいろいろなことにことこだわるらしいという話だ」

マーシアがスプーンでトロリとしたスープをすくい口の中に入れるのと同時に、リョウもそのスープを味わう。口の中に広がる優しい味に、リョウは思わずため息をもらした。まともな食事ができる幸せにリョウは涙がこぼれそうになるのを必死にこらえる。何事もなく平然とスプーンを動かしているマーシアの前で、大の男がそんなことで涙を流しているのを見られたくはない。見栄といえばそれまでのだが。しかし今日のこのスープの味は一生忘れられないとリョウは思った。

次々と運ばれてくる料理はどれも一口口に入れただけで、彼を至福の世界へとつれていってくれる。しかもどれもが彼の体調を考慮して、あっさりとした味付けの上に量自体も少ない。


 一口一口を丹念に味わっていたためか、進むペースはかなり遅れており、彼がナイフとフォークをおいたときには、すでにマーシアは食べ終えてからしばらくたっているようだった。

「待たせてすまなかった」

「気にするな」

 給仕係が二人の皿を下げ、改めてテーブルの周りを整え、飲み物を尋ねる。アルコール類も揃っているとのことだが、リョウはアルコールを入れることで酔うのを警戒した。何しろ、三年間、アルコールはいっさい抜きの生活をしていたのだ。

 二人の前にコーヒーが用意される。湯気とともに立ち上る香りに、リョウは圧倒される。彼の出身であるマリダスは、帝国内でも有数のコーヒーの産地であった。マリダスの住民にとってコーヒーは帝国から許された数少ない嗜好品の一つだ。帝国に納めるコーヒー豆の規格からはずれたものは税金をかけられることなく、貧しい庶民でも簡単に手に入れることができる。逆にワインやウィスキーなどのアルコール類は高い税金をかけられなかなか庶民が飲むことはできない。そんな家庭環境だったから、コーヒーには結構詳しいのだ。目の前のコーヒーは、焙煎したばかりのように感じる。

「ヒューロンの研究者の中にコーヒー好きの人間がいてね。ヒューロンで栽培できるか研究をしていたんだが、結局この厳寒の中でコーヒーを育てることは、どんなに品種改良しても無駄だと悟ったんだ。しかしその男はそれでもあきらめきれずに、わざわざ別棟を建てたんだ。しかもその費用はすべて自分で出した。これはそこで栽培している豆だ。ヒューロンのコーヒーはすべてその男の作品だ。グラントゥールのコーヒー通では結構有名らしい。わざわざここに立ち寄って豆を買っていく連中もいる」

「商売にしているのか?」

「もちろんだ。今ではしっかりと利益を出しているそうだ。だがわたしにはなぜ食べ物にそこまで執着するのかわからない」

リョウはカップをおいて、マーシアを見つめた。本気でいっているのだろうか? だがマーシアはまじめにそう思っているようだ。そこに何かがある。リョウは彼女のことが知りたかった。慎重に言葉を選んで、

「食べることは生きていく上で必要不可欠なことだし、なによりもただ空腹を満たすのではなく、心を満たすことにもなるからだと思う。それに思い出もあるからな」

「思い出か……」

 マーシアはコーヒーを一口飲むと、

「おまえにはきっと楽しい思い出がたくさんあるのだろうな。だがわたしには苦いものばかりだ。しかも一時期のわたしにとって食事は、命を懸けたギャンブルのようなものだった。だから食べることがあまり好きではない。簡単にすませられるのなら、携帯栄養食で十分だ」

 カップを見つめていたマーシアが顔を上げる。

「だが、こうしておまえとともに食べるのも悪くないな。一口一口丹念に味わっているおまえの幸せそうな顔を見ているとこちらまでそんな気になる」

「それは皮肉なのかな?」

リョウは思わず聞き返してしまった。今日出された料理は、囚人であった時はもちろんのことだが、それ以前の生活から考えても一生食べられるかどうかの高級な料理なのだ。平然と表情も変えずに食べているマーシアにとっては、当たり前の食事なのだろう。

「わたしは今日初めて料理を味わえることがどういうことなのか知ったんだ。おまえは本当に幸せそうに食べるからな。わたしには一生わからない感覚だ」

 リョウはハッとした。

「わたしは別に舌が肥えているわけでも、こういう手の込んだ料理を食べ慣れているわけでもないんだ。ただ単に、わたしには味覚がほとんどない。味を感じ分けることができないんだ。魚料理や肉料理、スープも皆同じ味なんだ。結局携帯栄養食と変わらない」

「生まれつきなのか?」

「いや、ある薬の副作用だ。子供の頃はかなりの病弱でね」

 マーシアがなぜか皮肉っぽくほほえんだように見えたが、すぐに表情が消える。

「ヴァートン博士はそのことを知っているのか? きみの主治医なんだろう」

「博士が知っているのは、わたしの味覚がかなり鈍っているということだけだ。ほとんど味を感じないとは思っていないだろう」

「なぜ博士に本当のことを話さないんだ。主治医に隠していても、きみが困るだけだ。治療のことだってあるだろう?」

 マーシアは首を振った。

「治療方法はないんだ」

「だから、ヴァートン博士に真実を告げないというのか? それは間違っているように思える」

「味覚が失われたのは博士が実証されていない実験的な治療を行った結果なんだ。だが彼がその決断をしなければ、私は死んでいた。味覚を失ったことは命の代償として払うべき代価だと思っている。しかし博士にこのことを告げれば、彼は自分を責めるだろう。そして、今度はそのための研究を一心不乱に行うんだ。自分の健康も顧みずにな」

 マーシアは再びコーヒーを飲んだ。


「きみは優しいな」

 リョウの言葉にマーシアがむせた。不意打ちを食らわせることができて、リョウはほほえんだ。部屋を移ってから、施設の配置を把握と足慣らしのために、通路を歩いているのだが、そこでエリックの部下たちが、マーシアについて話しているのを時々耳にすることがあった。

 彼らはマーシアに保護されているリョウのことを手厳しく評価していたし、またマーシアがそう言う行動をとったことにかなりの驚きを感じていた。「氷の女王」「冷酷無比のグラントゥール」というのが彼女につけられた形容詞だった。彼らはいくつかの作戦を例に挙げていた。その一つは彼も軍人時代に情報として接したことのあるものだった。グラントゥールの武装商船を襲った反乱軍の一味の本拠地を突き止め根絶やしにした作戦の見事な采配ぶりは、帝国軍でも評判だった。しかしいったいどこの部隊がその作戦を実行したのかは彼らに機密扱いで知らされることはなかった。ただその作戦の情報はその経過のみ開示されていただけである。兵士たちの間ではその作戦が誰によって行われていたのか、長い間話題になったものだ。あの指揮を彼女がとっていたとは、ここにきて初めて知ることだった。だがなぜか目の前の彼女と、エリックの部下たちが話していたイメージがつながらない。目の前にいるマーシアはとても女子供問わず皆殺しにするような人にはとても見えない。事実マーシアは囚人である自分を帝国の看守たちの手から救い出してくれた。しかも今こうして差し向かいでコーヒーまで飲んでいる。彼女は自分を対等な存在として扱ってくれているのだ。エリックの部下たちがどう言おうと、目の前にいるマーシアが優しい女性であることに間違いない。

「いきなり変なことをいうな。わたしが優しいなんて、いったいどこからそんな言葉が出て来るんだ?」

 驚きあきれているようなマーシアの口調。リョウは彼女が自覚していないことに気がついた。

「優しいさ。俺とこうして差し向かいで食事をしてくれるんだから。一人で食べる食事はたとえこれ以上立派な料理でもうまいとは感じられないだろう。人と向き合い人の温もりを感じながら食べると、どんな料理でもうまくなるものさ」

 しばらくリョウを見つめていたマーシアがふっと優しく笑った。

「おまえは本当に不思議な男だ。圧倒的な力を持っているわたしに媚びを売るでもなく、また卑屈になるでもなく、プライドという檻を張り巡らせて自分を守ろうとするのでもない。おまえにとっては身分も立場もまるで関係がない。とても自然だな」

「今の俺は無力だからな。自分で生きていくことすらできない。それが事実だろう? 強がってみせることで自分を守ったとしてもそれは所詮砂上の楼閣だ。だからといって媚びを売ったりするほどの処世術は身につけられなかった。それができていれば、こうはならなかっただろうけどな」

 リョウはちらりと自分の体に視線を落とした。服で覆われている体には無数の虐待の後が消えずに残っている。リョウが何を言おうとしたのか、マーシアはちゃんと理解していた。

「明日の夕食も食べに来るといい。用意しておく。その方がエリックの料理人が喜ぶだろうしな」

 コーヒーを終え、自室に戻ろうとするリョウをドアまで送ったマーシアは彼にそうほほえんだ。

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