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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン39

「忘れることなど一生できないな」

 リョウは手のひらの中の、マーシアを包み込んだ花びらを見て思わずつぶやいた。ほんの一瞬、が垣間見た、本当のマーシア。はかなくて不用意に触れてしまえば壊れてしまいそうな彼女を思い浮かべた。


 不意に射撃場が明るくなった。リョウはとっさに花びらをポケットに戻し、入り口に目を向ける。体は戦闘態勢だ。この館に彼の敵などいないのだが、それでも反応してしまうのは仕方がない。むしろ今後のことを考えれば、無意識のうちに、常にそういう状態でいることに体を慣らそうとしているのだろう。

「戦闘的な空気がいっぱいだな」

 明かりをつけたのはエリックだった。

「こんな夜中に訓練か? ほかの連中はみんな寝ているんだぞ」

 あきれたような声にリョウはにやりとする。

「きみだって当直ではないだろう?」

「まあ、そうだが……」

 リョウは銃にカートリッジを詰め、標的に向かって構えた。そして引き金を引く。光弾が続けざまに標的に穴をあけていく。

「ずいぶんと熱心なんだな」

 リョウは銃をおいて、エリックを見る。

「次はいつ、こういうことをする機会があるか、わからないからな。明日からはまた看守たちの監視のもとで、朝から晩までヒューロンの氷を掘り返すことになる」

 リョウは穏やかに告げた。エリックの顔が曇る。

「考え直す気はないのか? なぜそこまで彼らに義理立てするんだ?」

「義理立てしているつもりはない。友人だからだ。彼らには処刑されそうになったときに助けられた」

「マーシアだってそうだろう。おまえは彼女と出会っていなければ惨めに殺されていた」

 リョウはマーシアとの出会いを思い出しうなずいた。彼女がいなければリョウは狩られた動物のように看守たちに射殺されていたのだ。彼女に保護されたおかげで、帝国で受ける最高の治療よりも格段に高い治療を受けることができた。リョウは右手でそっと左手に触れた。この左手は凍傷の度合いがひどく、帝国の最高技術ですら再生することは不可能なはずだった。だがグラントゥールの技術は帝国以上の水準で、彼の腕は再生した。はじめの頃にあった違和感も、今はない。


「おまえは囮となって、彼らを逃がした。そのおかげで彼らは今も生きていられる。だがそのためにおまえは反逆者として収容所に送られた。そこでおまえは多くのものを失った。自由だけではなくな。人としての尊厳も奪われた。そうだろう」

 リョウは苦々しい思いでうなずいた。収容所での暮らしは、とても人間としての意識があればやっていけないほど屈辱的で過酷なものだった。そこで生き抜くためにはプライドも誇りもすべて切り捨てなければならない。空腹を紛らわすために、明日のために少しでも力を付けるためには、他人が食べた皿にこびりついている食べかすさえも貴重な食料だったのだ。そうして生きていく中で、次第になんのために生きていくのかわからなくなってくる。時には死がとても甘美なものにさえなってしまうのだ。

「それなのに、なぜ再びその中に戻ろうとするのか、わたしには理解できない。彼らへの恩義は囮となった時点ですべて終わったはずだ。第一彼らのやっていることは、後援者のために表沙汰にできない仕事を請け負うだけだ。反帝国運動をしている連中は彼らを自分たちと同じ志を持っているものとは決して認めないだろう。それでもマーシアの申し出を断るのか?」

 エリックの言葉はリョウの胸に深く突き刺さる。彼が下したニコラスたちへの評価に対して、反論できないのが何とももどかしい。


「俺はこの目で直接知りたいんだ」

「マーシアの情報が操作されたものだとでもいいたいのか?」

 すかさず問い返したエリックの言葉はとがっていた。リョウはあわてて否定する。

「彼女は公平だし公正だ。マーシアは俺にとって不利な情報も有利な情報もそのまま渡してくれる。彼女自身のことについてさえも俺が知りたければ教えてくれる。マーシアは嘘はつかない。ただ口を閉ざすだけだ。だから俺も……」

 リョウは言葉を切ると、穴のあいた標的に目をやった。

「俺はニコラスたちに会って彼らの考えを知りたいんだ。後援者がいなければ、艦一隻動かすことはできないことはわかっている。確かにマーシアのいう通りなんだ。俺たちには財政的基盤がない。だがやっていいことと、やるべきではないことがあるはずなんだ。俺たちだけで帝国を覆すこともできないことはわかっている。しかしもはやその支配を甘んじて受けることは、もう俺にはできない」

 リョウは故郷マリダスでの差別された生活。ろくに学校行くことも許されない生活や、帝国軍での不当な扱い、そしてなにより収容所での過酷な労働のことを思い浮かべていた。帝国が存続する限り、それらのことは続いていく。


「帝国は巨大なダムだ。あちこちにひびが入り始めているが、その都度修復されているからダムはまだ存在し続けている」

 意味を含めた視線をリョウはエリックに向ける。彼はむっとして、

「わたしがダムを修復しているわけではない。筆頭公爵のフェルデヴァルト公爵の意志だ」

「彼が修復してもまた次々とひびが入るのは、帝国そのものがすでに限界に達しているからだろう。俺はそこに小さな穴をあけたいと思っているんだ。そうすればダムは決壊する」

「だがどちらにしてもおまえの仲間ではできない」

 エリックはずばりと告げた。リョウの顔に陰が落ちる。

「今のままでは無理だ。それにあの戦力ではな。だが同じ志を持っているものに働きかけることはできるはずだ。あちこちでバラバラに戦うのではなく一つにまとまる必要がある。どのみちこのままでは、反帝国運動は各個撃破されておしまいだ。一つの組織で対抗するには帝国は大きい存在だからな。それに戦いが終わった後のことも考えなければならないだろう」

「次の政府だな」

 リョウはうなずいた。


「だったらそれこそ、マーシアの案を受け入れるべきだろう。マーシアは有力な反帝国運動組織ともつながりがあるし、彼らはマーシアに借りもあるからな」

「マーシアは本当に顔が広いな。本人は帝国側の人間なのに、よく彼らが信用する」

「彼らはマーシアから情報を得ているのさ。帝国側の人間というが、それはグラントゥールが帝国側に立っているからだ。正確に言えばやや帝国側だな。彼らはマーシアの情報で何度も命拾いをしているし、マーシアはおまえのいうとおり公正公平だ。彼女がたたきつぶしている反帝国組織は、自分の利益をもっとも優先させている連中だ。彼らもそれは十分にわかっているんだ。そういう連中にマーシアならおまえを紹介することもできるんだぞ。それでも仲間のもとがいいのか?」

「情に流されていることは俺もわかっている。目的を思えばマーシアの案に乗るべきなのだろう。だが俺は自分で納得したいんだ。彼らとともにやっていく余地はまだ残っているのかどうか。方向を修正できるかもしれないとも。もし再び原点に帰ることができたら、俺は彼らとともに戦いたいと思っているんだ。仲間だからな。それに……」

 リョウはポケットに手を入れると花びらを手のひらに乗せた。そしてそれを見つめながら

「俺はマーシアに助けられた。彼女に保護され、救われた。体だけではなく魂もな。だが俺は何一つ返すことができない。おそらくこれからも返すことはできないだろう。それだけ彼女が俺にくれたものは大きいんだ。だからせめて、嘘だけはつきたくない。たとえそれがどれほど愚かなことだとしても、彼女にだけは誠実でいたいんだ」

 切実な思いが言葉に現れていた。エリックの視線をリョウは感じていた。不意に彼が短く息を吐き出す。


「本当におまえは愚かだよ。自分で自分の首を絞めるんだから。たった一つの嘘をつくだけなのに。二度と彼らには会わないとたった一言告げるだけでいいのに。誰もおまえの後を追跡することもないんだぞ。宇宙に出て自由になった後の行動まで、いちいちマーシアはチェックしない。それなのにおまえは本当にバカだよな」

 ロンドヴァルトも同じようなことを言っていた。

「だが誰が知らなくても、俺自身が彼女をだましていることを知っている。もし仮に彼女に別の場所で会うことがあったら、そのとき俺はきっと彼女の目をまっすぐ見ることはできないだろう。それは嫌なんだ。俺は彼女の目をいつまでもまっすぐ見ていたい」

「だから嘘はつきたくない、か……」

 リョウはうなずいた。

「うらやましいな、おまえが」

 リョウは顔を上げた。

「そこまでマーシアのために、たったひとりの女のためにそこまで愚かになれるおまえがうらやましい」

 背を向けて言った彼の言葉には本音が現れていた。


「マーシアの周りにはそんな人間は誰もいなかった。わたしを含めてね。わたしたちには個人的な思いよりも優先しなければならないことが多すぎるからな」

 彼らはグラントゥールの掟に縛られているのだ。それは個人的なことよりも優先してしまう。

「グラントゥールの悪弊だな」

 ぽつりとつぶやいたリョウの言葉にエリックがニヤリと笑う。

「悪弊か……確かにそうだ」

 彼はそういうと腕にはめている時計を見て、リョウに視線を戻した。

「今から、きっかり一時間後に格納庫にきてくれ」

「深夜だぞ?」

「わかっている。だが私たちは明日の昼にはこの惑星からいなくなる。それまでにおまえに一つ教えておきたいことがあるんだ。遅れるなよ」

 エリックは怪訝そうなリョウを残し再び射撃訓練室を出ていった。そこはまたリョウ一人だけとなった。

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