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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン38

 射撃室は薄暗かった。その中で、発射音が反響している。一番奥の射撃ブースにだけ明かりがついていた。耳当てを当てているリョウが、銃を片手で持ち、一番遠くに設置されている標的を次々と撃ち抜いていた。標的を見据える彼の顔は、真剣そのものだ。リョウは微動だにせず引き金を引き続けた。

 エネルギーカートリッジはすぐに空になり、横に積んであった新しいカートリッジを掴む。だがすぐに交換はしなかった。掴んだカートリッジと手にしていた銃を台の上に置くと、リョウはポケットに手を入れた。次に出したときにはその手には小さいが色鮮やかな花びらがあった。一枚の花びらは赤紫と淡い赤そしてピンク色がグラデーションされていた。三日もたっているのに、まだ色あせていない。


 これを見つけたのはあの暗殺未遂事件の後で、部屋に戻ったときだった。マーシアの護衛任務を終え、着替えているときに防寒スーツに付いていたのが落ちたのだ。ついた場所はわかっている。マーシアは墓参りをした後、館に戻るのではなく、館とは反対方向に歩きだしたのだ。リョウはなにも言わずついていった。

 自分の中に閉じこもるようにしていた彼女が、それから口を開いたのはずいぶん歩いてからだった。


「わたしは逃げているんだ」

 思いもかけない告白にリョウは足を止めかける。マーシアはかまわずに進んでいた。

「なにから逃げているんだ?」

「運命。いつかわたしが対峙しなければならないことはわかっているんだ……だが、できるなら永遠にそのこととは向き合いたくないと思っている」

 リョウはふとある考えがひらめきのように浮かんだ。

「だから暗殺事件を公にしないのか」

 マーシアの足がぴたりと止まり、振り返った。その表情を見て、リョウはそれが事実だと悟った。あの暗殺事件には、ハーヴィとは別に、ほかの何かが彼女に深く関わり合っているようだ。

「話す必要はないよ、マーシア」

「知りたくはないのか?」

「知りたいさ。だが迷っているのなら話すことはない。いつか君が心から話したくなったときに話してくれればいい」

 マーシアはまじまじとリョウを見つめると、不意に顔を背けて歩きだした。リョウの口元が思わずほころぶ。マーシアは照れているらしい。

 ゆっくりと後を追うリョウはそれからしばらく歩かされた。こういうときは雪の大地はうんざりする。どこもかしこも白く遠近感がとれない上に目の前にある風景は単調だ。ただ足の感覚で斜面を登っているらしいということだけはわかる。ただしこれがほんとに斜面かどうかは明らかではない。ただの吹き溜まりかもしれないのだ。


「いつまで歩くんだ?」

 ついにリョウは声をかけた。マーシアが振り返り、

「もう疲れたのか? 意外とヤワなんだな?」

 からかうような口調に、リョウはマーシアを睨みつける。

「冗談言うなよ。俺はまだまだ歩けるぞ。このまま日が暮れてもな」

 マーシアが空を見上げた。太陽は西の方に傾いていた。

「まさか迷子なんじゃないだろうな?」

 今度はリョウがからかう。

「わたしはそれぼど間抜けではないぞ。行く場所ぐらいちゃんとわかっている」

「それならいいけど」

 と肩をすくめた瞬間、リョウは足を滑らせた。転びはしなかったものの、体勢を崩した姿を見てマーシアが小さく吹き出した。

「人をからかった罰だな」

 リョウはマーシアを思い切り睨んだ。

 二人は再び歩き出す。マーシアが立ち止まったのはそれからすぐだった。

「ここだ。早く来い」

 マーシアの声が珍しく興奮している。行くべき場所を知っている者と知らずにいる者との差を、リョウはあっという間に縮めて、マーシアの横に立った。白い大地が永遠に続くものと思っていたリョウは息をのんだ。


 二人が立ち止まった場所は大きなくぼみの端でくぼみには色鮮やかな花が一面に咲いている。それに土の匂いがする。花々の間から黒い大地が見えている。リョウは驚いてマーシアを振り返った。

「わたしが知る限り、ヒューロンでも一年中大地がむき出しになっている場所は、三カ所だけだ。ここはそのうちの一つだ」

 マーシアはそう言うとくぼみの中心に向かって歩き始めた。リョウも後に続く。足下で小さな花がそよいでいる。こんな場所に足を踏み入れるのは、気が咎める。不用意にこの小さな命たちを踏んでしまいそうになるのが怖いのだ。だから自然と歩みは遅くなり、マーシアから引き離されてしまった。

「何をしている?」

 振り返ったマーシアが立ちすくんでいるようなリョウの姿にその表情が優しくなる。マーシアはリョウの元にやってくると

「心配はいらない。人間が踏みつけたりしても折れたり枯れたりしないんだ。だから昔はよくこうして遊んだ」

 マーシアはそう言うと花の大地に座り、思い切り体を滑らした。まるで斜面を花の滑り台にしたかのようにマーシアが滑り落ちていく。その後には花びらが宙を舞い上がる。そして一度は倒れてしまった花たちもすぐに立ち上がり、何事もなかったかのようにそよぐ。


 小さくなっていくマーシアの後ろ姿をみているうちに、子供の笑い声が聞こえてくるようだった。小さいマーシアが子供特有の無邪気な声で笑う姿が見える。だが彼は気がついた。実際に声が聞こえているのだ。風に乗った声はかすかだが、マーシアが子供のように、滑り降りる感触を楽しんでいる。

 くぼみの底近くで止まったマーシアが振り返って何かを叫んでいるようだ。聞こえていないのに気づいたのか、大きく手を振り回している。その様子はなんの思惑もない。

 リョウはマーシアに倣って花の斜面をすべりおりた。彼の後を花びらが舞い上がっていく。マーシアがリョウの後ろの渦を巻いている花びらを見つめていた。そしてようやく彼に顔を戻す。

「おまえの方が巻き上がる量が多いな」

「競争していたのか?」

 いや、とマーシアは首を振った。

「きれいなところだな」

 リョウは斜面を見上げるように眺めた。上から眺めているのとはまた違って見えるのが不思議だ。

「それにしてもどうしてここだけ花がこんなに咲いているんだ? ヒューロンの緑といったら、氷の下まで根を生やすことのできるヒューロン杉ぐらいだと思っていたが……」

「これはたぶんクレーターの後なんだと思う。はっきりとは調べていないからわからないが、二百年から三百年前に隕石が衝突して厚い氷を溶かし、大地にひびを入れたんじゃないかと思う」

「このあたりだけマグマが活性化したと?」

 マーシアは肩をすくめた。

「でもこのあたりの地熱がほかよりも格段に高いからこうして花が咲いている」

 リョウは改めて周りを見渡した。

「一年中、咲いているのか?」

「一本一本の花には、芽を出し生長して花を咲かせ種を作ると行ったサイクルはあるが、それが花それぞれでまちまちのようだ。結局一年中ここはこの花で満たされている。くぼみの外では生きてはいけないしな」

 マーシアがそう言っている途中から、リョウは何かがはじける音をとらえていた。マーシアもそれに気づいている。それは彼らの周りを包むように数が増えていく。周りを何か正体の分からないものに囲まれているようであまり気分のいいものではない。自然と緊張する。戦闘態勢には行ったリョウを宥めるように、マーシアの手が彼の腕に置かれた。見下ろすリョウにマーシアが穏やかにささやいた。

「大丈夫だ。心配はいらない。これをおまえに見せたかったんだ」

 その瞬間、あちこちで一気にはじけた。まるでそれが合図だったかのように、花びらがゆっくりと空中を漂うように大地から離れた。

 足下にあった花びらがゆっくりと腰から肩へと昇ってくる。まわりの花がそう言う状態なのだ。花の色の艶やかさとともに、リョウは花びらに包まれていくのを感じた。ふとマーシアを見ると、マーシアも食い入るようにその光景に見入っている。リョウがそばにいることすらも忘れて、マーシアは一つの花びらをゆっくりと目で追っている。花びらは渦を描くようにマーシアを包み始め、そしてついにその姿がすっかり隠れてしまう。かすかに花びらの隙間からマーシアの姿が見えるだけだ。


「マーシア……」

 と声をかけようとしたとき、その中からマーシアの笑い声が聞こえてきた。子供のように無垢な声にリョウは胸を突かれた。

「さあ、飛んでいって」

 マーシアがささやくようにそう言うと、彼女は両手を広げて体を回転させた。マーシアのまわりに漂って花びらは彼女が起こした風に乗って渦を描きながらオレンジ色に染まりつつある空に向かっていった。すべての花びらが飛んでいくと、リョウの方を向いて止まった。黒く長い髪がふんわりと彼女の顔のまわりに降りる。こめかみから伸びている銀色の髪がまだ揺れていた。マーシアは柔らかくほほえんで、少し小首を傾げてリョウを見つめた。

 その瞬間、そこにいるのはいくつもの鎧を取り去った本当のマーシアなのだと気がついた。

 夕暮れの日差しがクレーターの中にいる二人を照らし始めていた。マーシアが次第にいつもの彼女に戻っていく。その変化を見つめながら、リョウは残念に感じていた。いつまでもあの彼女が見ていたかった。だが、リョウにはわかっていた。ここはヒューロンの中でありながらヒューロンではない。別の世界なのだ。マーシアが生きている世界ではこれらの花は生きてはいけない。あの一瞬、彼に見せた無防備なマーシアがそのままでは生きていけないように。彼女が生きていくためには、いくつもの鎧が必要なのだ。


「そろそろ戻らないとな」

 その声も感情がすっぽり抜け落ちたいつもの彼女のものに戻っていた。

 そして二人はクレーターを出た、館に戻った。そのころにはすっかりあたりは暗くなっており、エリックの料理人に「すっかり料理が冷めたではないか」と文句まで言われる羽目になったのは、仕方あるまい。

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