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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン35

 運が良かった。


 リョウは銃を構えたまま、走っている速度を落とした。追跡してくる雪上車を確認したときに視界に入った光に違和感を感じて、密かにスコープでその正体を確認したのだ。それが雪上バイクだと知ったとき、リョウはマーシアを狙った狙撃手の可能性を考えた。そしてクレバスに穴をあけた爆発を引き起こすと同時に、それが巻き起こした煙に紛れて木立に戻ったのだ。もちろん来た道は使えない。しかし斜面を利用したおかげで、気づかれずに銃の射程内に戻ることができた。暗殺者が雪上車の失敗を見届けていたのも、リョウたちには都合がよかった。そして逃走用の足である雪上バイクを破壊したことで、追いつく時間を得た。


 リョウは立ち止まった。

「両手をゆっくりと前に出せ」

 いつでも頭を打ち抜けるように銃を構えたままリョウは彼に告げた。

 男は手をゆっくりと動かしながら、

「どうして、こんなことをするんですか? 僕の命を助けてくれたのに?」

「ハーヴィ?」

 まさにその瞬間、ハーヴィは跳ね起きるように立ち上がりながら、引き金を引いた。

 次の瞬間、リョウは横に転がっていた。転がりながら、引き金を引く。うめき声とともに雪原に穴をあけていた銃撃がやんだ。ハーヴィが手にしていた銃が、雪の上に落ち熱い銃身が雪を溶かして蒸気をあげていた。

「腕がいいのか、悪いのか……。性格は甘いくせに、なぜよけられた。俺の考えではおまえはショックを受けてすぐには対処できないはずだったのに……」

 リョウは呆然と利き腕を押さえているハーヴィを見下ろしていた。


 ここにいるのは彼が知っているハーヴィではない。同じ顔をした別の人物のようだ。言葉遣いもその雰囲気もまるで違う。

「おまえは本当にハーヴィなのか?」

 ハーヴィは冷ややかに笑った。

「俺は間違いなくハーヴィ・ストロナイだ。正真正銘のグラントゥール人だ」

「じゃあ、あれは……俺を慕っていたのは……あれは演技だったのか?」

「氷の女王が執心する男を知りたいと思っただけさ。それに野心のないちょっと弱々しい男はそれほど注目を浴びない。潜入するにはもってこいのキャラクターだ」

「キャラクター……」

 彼の言葉の意味の重要さにリョウは気がついた。

「初めからはマーシアを暗殺するつもりだったのか? なぜだ? マーシアはおまえたちの上司だろう? 彼女に不満があったのか?」

「不満だって?」

 公然と顔を上げたハーヴィはその視線をリョウの横に立つマーシアに向けた。

「不満なら大ありだ。なぜグラントゥール人でもない者が、全軍の指揮をとれる地位についている? おまえにその資格はないだろう。グラントゥールの血の一滴も入っていないおまえにはな。おまえがそうして偉そうにしていられるのは、フェルデヴァルト公爵が特別に目をかけて、自分の養い子としているからだろう。俺はそんなおまえなど認めない。決してな」


 すさまじい憎悪の言葉にリョウは次に言うべき言葉を失った。なぜそこまで彼女を憎むんだ?


「わたしのこの地位はわたしが自ら望んで得たものではない。上級指揮官たちの総意だ。それが気に入らないのなら、それなりの手続きを踏めばいいだろう。そのためにグラントゥールの掟は存在するのだからな」

「だがその決定を変更できる地位までにたどり着くには、多くの戦いをしなければならない」

「だから手っとり早くマーシアを殺そうとしたのか?」

 リョウは信頼していた相手に裏切られて心の底が冷えていくのを感じた。彼のことはすっかり信じていて疑いもしなかったのだ。


「俺が看守たちに捕まった件は……あれは、おまえが仕組んだのか?」

 リョウはなるべく感情を抑えて尋ねた。だがかすかに動揺しているのが口調に現れていたのだろうか、ハーヴィは冷笑を浮かべて

「俺はおまえが危険だと感じた。だから排除しようとしたんだ。そして同時に、今回の件の布石を打ったつもりでいたんだ。看守たちがおまえを奪い返せば、マーシアは帝国に対して悪感情を抱く。そして今度は帝国の看守たちがマーシアを殺したとなれば、フェルデヴァルト公爵は帝国に肩入れできなくなる。おまえの拉致事件はそのために行ったんだ。納得したか? そこでおまえが情に流されやすいこともわかったけどな」

 ハーヴイはそこでひとつ息を吸い込むと

「だがなぜ今のはよけられたんだ?」


「それはリョウがおまえが考えているほど単純な男ではないと言うことだ。彼は戦士なんだ。それもグラントゥールの中でさえ五指にはいるほどだといっていい。それがどういう意味かわかるか?」

 マーシアはこの男に命が狙われたことなどまるで何も感じていないかのようにハーヴィを見下ろしていた。

「誰よりも早く状況を判断し、場合によっては感情を切り離すことができると言うことだ。おまえが人質になっていたときは、ほかに方法がなかったから抵抗しなかった。だが今は違う。銃を向けた瞬間、おまえは敵になったんだ。敵に情をかけるほどリョウは優しくない。それでも頭を撃ち抜かずに腕を撃ち抜いて、戦闘力を奪ったのは彼なりの優しさだ。とっさに判断したんだ」

 マーシアは言葉を切った。

「リョウはおまえを信頼していたし、好きだったんだよ」

 リョウはハーヴィに銃を向けながらその言葉を聞いていた。

「おまえはグラントゥールが帝国側につくのがそんなに嫌なのか?」

「ああ、嫌だね」

 とハーヴィはリョウに答える。

「グラントゥールは帝国と協力関係にあるんだろう?」

 リョウはマーシアを振り返った。

「だが彼のように内心帝国から手を引いた方がいいと思っているものも少なくない。実際、帝国は斜陽の国で、グラントゥールが完全に手を引けばその崩壊の速度は速まると思っている。だからフェルデヴァルト公爵はサイラート帝に力を貸しているんだ。だがグラントゥールの中にも沈みかけた船に留まるよりも、新しい船の重要なところを押さえた方が将来のためになると考えている連中もいる。ハーヴィはそうした連中の一人だろう。確かに帝国とグラントゥールとの間に亀裂が入れば、フェルデヴァルト公爵もサイラート帝に肩入れできなくなる。おまえの考えは間違いじゃない。場合によってはグラントゥールは帝国に宣戦布告することになる。それがおまえの目的なんだろう?」

 彼はなにも答えない。だがマーシアはかまわず続けた。

「だが、おまえはフェルデヴァルト公爵を甘く見たな。彼はたとえわたしが帝国の者に殺されたとしても、サイラート帝を見捨てるようなことはしない。絶対にな」

 その瞬間、ハーヴィの表情が動いた。

「そんなはずはない。あなたはフェルデヴァルト公爵から多くの権限を与えられているほどのお気に入りだ」

「権限があるということはそれだけ負うものもあるということだ。それは無条件のものじゃない。それに優先順位の問題でもある。公爵にとってなによりも大切なのはグラントゥールとサイラート帝だ。サイラート帝がグラントゥールを直接攻撃しない限り、公爵はサイラート帝を支え続ける。そしてサイラート帝とわたしのどちらかを選べといわれたら公爵は間違いなくわたしを見捨てるだろう。おまえの策は無駄だったな」

 マーシアは不意に言葉を切ると、一瞬何かを思いめぐらしたようだった。彼女は改めてハーヴィを見下ろす。


「おまえはアルシオールの連中に踊らされたな」

「バカな。作戦指揮の主導権は俺にある」

 マーシアは冷ややかに笑った。

「彼らはそう思わせているだけだ。おまえが帝国に反感を抱いていることを彼らは調べていたのだろう。だから接触してきた。そして手引きさせたんだ。アルシオールの目的はわたしの暗殺と同時に帝国の崩壊だからな。代わりに自分たちが帝国の皇帝の椅子に座りたいと思っている。帝国がわたしを殺したことにすれば、グラントゥールは帝国とは手を切ると考えたんだろう。おまえがそう考えたようにな。連中は相変わらず、中途半端な思いこみで策を練ろうとするな」

 そうつぶやくと、マーシアは銃口をハーヴィの額に当てた。

「マーシア!」

 リョウがとがめるように声を上げた。マーシアはちらりとリョウを見るが、銃口はそのままだ。

「わたしはおまえの名前を覚えたんだ。残念だ。あのまま経験を積めばエリックと同じようにわたしの下で上級指揮官になれたはずのに」

 沈んだ声にリョウはマーシアを見た。とても哀しい色の瞳だ。マーシアは彼を信じたかったのだ。何事もなけれは、マーシアは彼をエリックと同じように身近においていたかもしれない。だがハーヴィはマーシアの信頼を裏切った。

「だが、あれは本当の俺じゃない」

 ハーヴィの声は落ち着いていた。彼が知っているハーヴィよりも何歳も年上のように感じられるほどだ。

「俺は戦いに負けた。グラントゥール人として覚悟はできている」

 ハーヴィは顔をぐいっとあげてマーシアを見据えた。

「やめろ、マーシア! 簡単に人を殺すな」

 だが次の瞬間、ハーヴィは後ろにのけぞりながら倒れた。マーシアが引き金を引いたのだ。

 額に黒い焼き焦げを作ったハーヴィが静かにほほえんでいるようにリョウには見えた。

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