ヒューロン32
リョウは木の陰に身を潜めていた。
館からここまでほとんど身を隠す場所はなく、ここが唯一の場所といってもよかった。あたりを一巡りしたリョウは先客が潜んでいないのを確認していた。
リョウはその先の小高い丘の上に一本だけそびえている木に目を向けた。
「マーシアはヒューロンに来ると必ず一人で寄るところがある。そこに行く時はわたしも同行しない。おそらく敵はそこを実行場所として選ぶと見ている。その周りはヒューロン杉の木立があるし、館の警戒があまり行き届いていないんだ。だから何かあってもすぐには把握できない」
「いったいそこに何があるんだ?」
「わたしも詳しくはわからない。だが彼女にとって何か重要なところであることは違いないと思う」
「聞こうとはしなかったのか? それとも自分たちには関係ないと思ったのか?」
リョウの皮肉を感じ取ったのか、エリックは一瞬険しい視線を投げた。しかし彼は珍しく視線を外すと、
「一度だけ聞こうとしたことがある。彼女の行動を知らなければ護衛もできないからな。だがレオス卿に止められた。この件に関しては干渉するなと」
ヒューロンに滞在している約三ヶ月。リョウは気がつかなかったが、マーシアは時間がとれるときは必ずあの木を訪れていたのだとエリックは告げる。空いた時間を利用していたために数日前まではばらばらの時間だったが、今回の作戦を実行するために、最近はは必ず決まった時間していたという。それも館の人間が一番忙しくなる時間を選んでいたのだ。
「だがきみなら、自由に動ける」
更衣室でエリックはそういった。
「それにきみが館からいなくなったとしても、そのことを気にとめるものはいない」
館の中でグラントゥール人でないのは彼一人だったし、決められた仕事もない。しかし彼は館の内外を自由に動くことができた。
「これを足首につけるといい」
エリックから渡されたのは薄い装置が付いたベルトだった。
「これで発信器の電波が遮断されるはずだ。急遽作らせた」
彼は完全な自由を得ているわけではないことをすっかり忘れていた。足首に埋め込まれた発信器からの電波が収容所に常に居所を知らせているのだ。
更衣室でのやりとりを思い返したリョウは空気が変わるのを感じた。手にしていたスコープを目に当てる。
マーシアの姿がはっきりと映し出されている。リョウはその手元に小さな花束があるのに気づいた。マーシアが花束を持っているのはなんだか不思議な感じがする。いったい何のために? 不意にマーシアが立ち止まってこちらを見た。一瞬、視線があったような気がした。冷静に考えれば、彼女から自分の姿が見えているとは思えないのだが。
そのとき、視界の隅で何かが光った。マーシアが向かっている木のあたりだ。凍てつく大気が木の葉の水分を凍らせているときがある。それが太陽の光を反射することはよくあることだった。だがリョウはそれを軽視しなかった。とっさに横に寝かせて隠しておいた雪上バイクを引き起こすと、エンジンをかけながら飛び乗った。木とマーシアの間に割り込む。リョウが回転させたバイクが雪を舞い上がらせ煙幕のように広がる。マーシアは瞬時に何かあったのか理解し、雪の上に身を投げ出した。照準のずれた一条の光がその上を走る。
「長距離ライフルだ!」
リョウはライフルの射線からマーシアを隠すように立ちふさがる。伏せているマーシアを見下ろすリョウ。
「体が丸見えだぞ」
マーシアがささやく。リョウはにやりと笑って、
「俺の方がでかいから、向こうも狙いやすいだろう」
「確かにな」
かすかに笑って応じたマーシアは、視線をリョウが潜んでいた木立に投げた。うなずいたリョウがマーシアに手を伸ばした瞬間、
「リョウ、降りろっ」
マーシアの切迫した叫びにリョウの体はすぐに反応した。雪上バイクから飛び降りた彼が振り返ると、一条の赤い光がエネルギータンクを貫く寸前だった。とっさにマーシアを守るようにその体の上に覆い被さる。次の瞬間、エネルギータンクは爆発した。耳をつんざかんばかりの大音響とともにバイクの残骸がリョウの体の上に降り注ぐ。防寒スーツのおかげで熱せられた破片でやけどを負うことはないが、しかし衝撃までは吸収しきれない。思わずうめく。
「リョウ?」
体の下でマーシアが心配そうな声を出す。互いにうつ伏せになっているので、マーシアからはリョウがどういう状態なのかわからないのだ。
「心配はいらない。大丈夫だ。それよりきみは?」
「おかげでわたしも無事だ。ただ少々重たいな」
リョウは笑って、
「すまないな。君のところの料理がうまいせいだよ」
リョウは静かに体を離し、あたりに注意を払った。狙撃者からは爆発の煙と水蒸気のせいですぐには狙いが付けられないはずだ。
「だが足を奪われたな」
木立まで行くには、なにもない場所で体をさらすしかない。その間、狙撃手は狙い放題と言うことだ。向こうの射程は長いが、こちらの手持ちの武器ではどうがんばっても狙撃手をこの場から撃ち殺すことはできない。
「それにやっかいなことがあるぞ」
マーシアの言葉にリョウも顔が険しくなった。まるでタイミングを見計らったかのように雪上車の音が聞こえてくる。
「エリックたちは?」
マーシアは首を振った。
「当てにしない方がいい。向こうも取り込み中のようだ」
とにかく今は生き残ることだ。ここにいたところでどうにもならない。二人は姿勢を低くして、木立に向かって走り出した。丘の狙撃者と、姿を現した雪上車から二人に向かって攻撃が始まった。リョウは雪上車の運転係を狙う。額を打ち抜かれた運転係はのけぞったまま動かない。死んだ運転係がその寸前にハンドルを切ったせいで、その雪上車は大きくUターンして後続車に向かっていく。後続車はそれをよけようとしてあわててハンドルを切り、横転する。そしてまたそれをよけようとして斜めに止まったりと、大混乱となった。雪上車から男たちが降りてきて口々にののしっている間にリョウは木立の中に飛び込んだ。身を守る場所としてはいささか心許ないが遮蔽物がないのとあるのとでは大いに違う。
「あれは看守たちじゃない」
リョウは木の陰から混乱が静まっていく様子を見つめた。
「看守たちが襲ってくると考えていたんだろう?」
リョウは振り返った。マーシアは頷いた。
「だから看守たちを監視していたんだ。ここしばらく動きが怪しかったしな。だがそれはどうやら罠だったようだな。連中をどう見る?」
「看守たちは元々兵士だが、向こうの連中はそれ以上の訓練を受けているな。あの行動を見ると、出来合いの組織でないことは確かだ。帝国軍かな?」
「もしそうなら、帝国はグラントゥールに喧嘩を売っていることになる。サイラート帝はグラントゥールと事を構えるつもりは毛頭ない。従って帝国軍だとしたら皇帝に反逆していることになる」
マーシアは言葉を切った。
「おまえは惑星国家が独自の軍隊を持てるのを知っているか?」
「これでも帝国の士官に昇格したんだ。惑星国家の規模によって制限はあるが自衛のための軍は持てる。もっとも帝国軍の下部組織という位置づけだが、その軍を動かすには帝国の許可はいらない。だが惑星国家が支配している宙域にしか展開できない……」
リョウははっとした。規則はそうなっていても、破る者は必ず存在する。
「アルシオール軍の兵士たちなのか?」
「なぜ? アルシオール軍だと?」
「きみが敵視しているからだ。きみは何の理由もなくそういうことはしない」
マーシアがほほえんだ。




