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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン30

 髪の毛を濡らした熱いシャワーが傷だらけの体を伝って足下に落ちていく。リョウは顔を上げて顔に振り注ぐ感触を楽しむ。一人で心行くまでシャワーを浴びる。ふつうなら当たり前のことが、彼にはとても贅沢なことに感じられた。収容所の生活を一度味わえば、それがごく当たり前のことでもとても貴重に思えてしまう。

 常時氷点下の部屋の中で薄い毛布一枚と支給されている防寒スーツを着たまま床の上に横になる生活。囚人同士の体温で暖をとらなければろくに寝ることもできない。収容所でのまともな食事は夕食の一回だけだが、それすらも量が足りずに、毎晩争奪戦が起こる。看守たちが食べ残した黴臭いパンのひとかけらを巡って、囚人同士で殺し合いが始まるのだ。しかしそれでも夕食にありつけるのならまだいい。看守たちに睨まれている囚人はどこの囚人たちよりも遠くの採掘場に送られ、彼らが帰り着いた頃には、夕食時間はすでに終わっている。彼らは他の囚人たちの皿や鍋を洗いながら、そこにこびりついているものをなめて空腹を紛らわすしかないのだ。それでも生きていられるのは、毎朝必ず出される携帯栄養食のおかげだ。魚が腐ったような味と臭いのする粗悪な代物だが、それだけで一日の栄養は十分にとれる。生き延びたければ吐き気をこらえてそれを飲み下すしかない。


 過酷な労働と飢え、看守たちからの虐待。それらに耐えたところで何ら希望などない。ただ生きているだけの存在となるのだ。ヒューロンに残るということはそういうことだ。生きていたからといって、流刑となっている囚人たちに恩赦が与えられることはない。生きている限り、彼らは帝国のためにセレイド鉱石を掘り続けるのだ。

 ヒューロンに残るということは、そういう生活に戻るということだ。マーシアと初めて会ったとき、リョウは看守たちの楽しみの一つである囚人狩りの獲物として収容所から追い出された。シャトルの発着場までたどり着ければ自由にしてやるとの言葉に、わずかな救いを求めて一斉に駆け出す囚人たち。だが彼だけは別の方向に駆けだしていた。足首に埋め込まれた発信器のせいで逃げきれないことはわかっていた。そして看守たちが一人も生かすつもりもないことを。リョウは死ぬつもりだった。次の瞬間を生き残るのにさえ、死力を尽くさなければならない生活にリ疲れ果てていたのだ。希望があるのならまだそれも耐えられただろう。だがヒューロンに希望はなかった。マーシアと出会う寸前まで、彼の世界は光一つ指さない闇の中だったのだ。

「生きたいのか?」

 あのときマーシアはそう尋ねてきた。リョウは無意識に応えていたのだ。

「生きたい」と。

 すべてはそこから始まった。


 リョウは壁に手を突いている左腕を見た。そこにもシャワーの滴が勢いよくたたきつけている。ほかの肌とは色の薄いこの腕だけが無傷だった。囚人狩りの際、凍傷を負ったこの腕の状態はひどく、黒く変色していたのだ。本来なら切断するのだが、マーシアはグラントゥールの最新技術の細胞再生治療を施して左腕を元の状態に戻してくれたのだ。

 ヒューロンに残るということは、再びあの暗闇の中で生きることだけに死力を尽くし続けなければならないということだ。マーシアの館で自由を体験した彼には希望のない世界に戻ることが出来のか、そしてその世界に耐えられることが出来るのか自信は全くなかった。むしろマーシアに保護されたこの生活を知ったからこそ、かえって収容所での闇をより深く感じるのかもしれない。だがすぐに首を振る。囚人狩りの獲物となった時点で、彼の心は折れていたのだ。だからこそ死を望んだ。


 不意にリョウの脳裏に、ロンドヴァルトの言葉がよみがえる。

 『マーシアを利用すればいい』という彼の言葉はまるで麻薬のようにリョウの中にしみこんでくる。

 マーシアが出した条件をのんで、宇宙に出て、自由になったあと、その条件を破ればいいとロンドヴァルトは言っているのだ。マーシアの出した条件が、ニコラスたちとの決別なのだ。彼らがリョウの思いとは違う方向に行っていることは、マーシアがくれた情報でわかっていた。惑星国家アルシオール王国の走狗となっているのだ。そしてそれが決して帝国に対抗するための行為ではないことは明らかだ。マーシアの情報に偽りはないと信じてはいるが、自分の目で確かめたいという思いがあった。そしてニコラスがそのことを自覚しているのか、知りたかった。俺たちが望んだのは誰かの走狗になることではないのだ。そのためにはリョウ自身が自由でいなければならない。それにはマーシアを偽って彼女の条件を呑んだ振りをして宇宙に出るしかない。

 リョウはそれが一番いいことだとわかっていた。だが……

「くそっ!」

 リョウは割り切れない思いをぶつけるように拳で壁を殴りつけた。

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