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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン19

「裸になれと言っているんだ」

 ベッドの端に腰を下ろしているリョウは困惑した顔でマーシアを見上げた。ここはマーシアの執務室兼寝室だ。彼の細胞再生治療装置が置かれていた場所でもある。リョウは手当をした方がいいというエリックに半ばむりやりこの部屋につれてこられたのだ。

「でも、どうして……」

 医務室ではないことに戸惑うリョウの前にマーシアが姿を現し、彼を有無を言わせずベッドの端に座らせ、そしていきなり服を脱ぐように命令したのだ。脳裏に浮かんだのは、収容所の新任所長が、リョウとマーシアの関係を邪推した言葉だった。もちろん彼女が彼らの思っているようなことを要求するはずはない。だがあの言葉のせいで、彼女を一人の女性として意識し始めていることにリョウは気づいてしまった。その彼女に裸になれと言われているのだ。しかも彼女には自分を男として見ている様子はまったくない。そんな状態で命じられるままに服を脱ぐのはきまりが悪すぎる。


「俺は医務室にいくよ」

 リョウは立ち上がった。だがその肩をマーシアの手が掴む。リョウは鋭い痛みに思わず息をのんだ。マーシアは彼の些細な動きの違いからだいたいどの場所にどれほどのけがを負ったのか把握したのだ。そして彼女が掴んだリョウの右肩は顔を蹴ろうとする新任所長の足をよけた際に顔の代わりに蹴られたところだった。骨は折れてはいないはずだが、その衝撃はかなりなものだった。それをマーシアはリョウが無意識にかばっている様子を見て察したのだろう。だからといってそこを掴んで動きを封じるのは……

「卑怯だぞ」

 リョウは痛みにあえぎながら、マーシアを睨んだ。

「おまえ、本当に被虐趣味はないんだよな」

「当たり前だ。何度も言わせるな」

「鎖骨の骨は折れていないが、筋肉の方はかなり痛んでいるぞ」

「マーシア……」

 彼女はただリョウの動きを封じるために肩を掴んだだけではなかったらしい。

「服の上からでは手当はできないんだぞ」

 マーシアはふと何かに思い当たったらしい。

「痛みで服が脱げないなら、そういえばいいのに。わたしが脱がせてやる」

「お、おい!」

 リョウが止めるまもなく、マーシアは彼の前にかがみ込むと、シャツのボタンに手をかけた。甘い香りがリョウの鼻腔を刺激する。思わず大きく息を吸い込むリョウ。彼は思いのほか、細いマーシアの肩を抱きしめたくなるのをやっとの思いでこらえ、あわてて後ろに体を動かし、彼女の手を押さえた。彼女がボタンをはずした結果、虐待の跡の残る傷だらけの胸が露わになっていた。それなのに、マーシアは顔色一つ変えていない。男として全く意識していないのだ。


「後は俺がやるよ」

 リョウは痛みに顔をしかめながら、ボタンをはずし始めた。

「本当に大丈夫なのか?」

 リョウの手をマーシアは心配げに見守っていた。

 それでも何とか全部のボタンをはずし終え、彼は痛む肩と腕を動かし、ようやくの思いでシャツを脱いだ。体中に走る無数の虐待の後は、それが長年にわたりかなりの激しさだったことを物語っている。傷のない部分は、再生治療で新しく生まれ変わった左腕だけだ。


「まさか下まで脱げと言うんじゃないだろうな?」

 マーシアはハッとして彼を見返した。

「足の方も痛むのか? 歩いている様子を見ると上半身よりはひどくはないように見えたが……確かめるから……」

「その必要はないっ」

 リョウはあわてて遮った。マーシアの関心はあくまでも彼の怪我にあるのだ。

「しかし……」

「本当に大丈夫だから」

 リョウは疲れたように体の力が抜けてしまった。それを彼女が首を傾げてみている。

「あのな、マーシア。もしきみが怪我をして、俺がその治療をするために、裸になれと言ったらどう感じる?」

 マーシアはきょとんとした顔をすると、なぜそんなことを聞くのかわからないと言う口調で

「当然、裸になるさ。そうしなければ治療はできないからな」

「だがきみは女で俺は男なんだぞ」

「それは当然だろう?」

 マーシアがますます意味が分からないと困惑している。そして不意に思い当たったらしい。

「おまえ、わたしの前で裸になるが恥ずかしかったのか?」

 驚いたような問いかけに、リョウは顔が熱くなるのを感じた。

「女性が担当医だったとしてもおまえは恥ずかしいと思うのか?」

「そんなことはない。医者の性別は気にしたことはないからな」

「それなら、なにも恥ずかしがることなどないだろう」

 だが、きみは医者じゃないし、なにより女性として意識しているんだ。と彼は寸前まで叫びそうになった。だがそういうことで、彼女を警戒させたくなかったし、なによりそういうことで彼女の態度が変わるのが怖かった。


「きみは俺の裸を見てなにも感じないのか? その……羞恥心とか……きみは、あまり男の裸を見慣れているとは思えないが……」

 リョウは半ばやけくそ気味に尋ねた。マーシアに自分の裸を見られることに動揺しているリョウだが、その反面、マーシアが自分の体を見て顔色一つ変えないのがしゃくに障り始めていた。

「わたしに男の裸を見て歩く趣味はない」

 マーシアはきっぱりと答えた。しかしその直後、いたずらな光をその黒い瞳に浮かべると、

「だがおまえの一糸まとわぬ姿なら見慣れているからな」

「なんだって!」

 リョウの声が裏返っていた。


 マーシアは執務机に向かうと、引き出しの奥をゴソゴソと掻き回して一綴りの書類を取り出した。

「ほら、これだ。その4ページと10ページのところを見て見ろ」

 リョウは早速ページをめくった。彼女の言ったページにその写真はあった。両方ともリョウは裸だった。生まれたままの姿で前と後ろから全身の写真が撮られている。4ページ目の写真はおそらくあの囚人狩りの日、マーシアに助けられた直後のものだ。体中に虐待の跡があり、あの日撃ち抜かれた足の傷口はまだそのままだ。特にひどいのは左腕だ。二の腕あたりまでどす黒く変色している。あの日の怪我の状態を知るのはこれが始めてだった。左腕は明らかに凍傷で切断しかない状態なのは素人である彼にもよくわかる。リョウは背筋に冷たいものが走った。こんなひどい状態でよく生きていたものだと。彼は10ページ目をめくったそこには、細胞再生治療終了直後の写真があった。体中の傷のほとんどは細胞再生治療で治療できる段階をすぎていたために、しっかりと彼がどういう扱いを受けていたのか証拠となるように残っているが、囚人狩りの時に受けた傷は何事もなかったかのように消滅していた。どす黒く変色していた左腕さえ、その痕跡はほかの部分とは肌の色が違う程度しかない。左腕は再生治療の結果、ほとんど作り直すところまでいったらしい。それは切断して義手をつけるよりも困難な作業のようだ。文面からはその苦労と成功したことへの自慢がにじみ出ている。


「ヴァートン博士にとって、細胞再生治療を受ける人間はただの実験体でしかないからな」

「きみにもそう見えるのか? 俺が実験体か何かのように? だからこういう写真を見ても落ち着いていられるのか?」

 リョウは少々自信を失いつつあった。成人男性の全裸の写真を見ても彼女は動揺していたようには見えない。それだけ自分にはなにもないのだろうかと考えてしまう。スーパーモデルのような体つきだとは言わないし、自分の体にナルシストのような感情はない。だが、こうまで落ち着いていられたら、やはり落ち込みたくなる。彼女はただ自分を哀れんでいるだけなのだろうかと。

「おまえもエリック並にデリカシーと言うものにかけているようだな。わたしは機械ではないんだぞ」

 マーシアは少し顔を背けた。その横顔がほんのりと赤らんで見える。マーシアも彼の裸を見て動揺したのだ。だからこの報告書だけは引き出しの奥に、それこそ掻き出さなければ出せないようにしまわれていたのだ。

「なにを考えている?」

 気を取り直したマーシアは背中の打撲した部分に薬を塗り付けた。彼女の指の心地よさによったような気分になっていたリョウはハッとした。後ろからのぞき込むようにマーシアが顔を出す。思わず顔を逸らしてしまうリョウ。まるで心臓が少年の時のようにドキドキする。


「この程度の傷なら、やはり医務室に言った方がよかったんじゃないか」

「この程度の傷だから医務室にはいかない方がいいんだ。特にこの時間はな」

 マーシアはそういうと、今度は前に回り、口の周りを丁寧に拭う。唇が切れて血が出ていたところだ。水かしみてリョウが顔をゆがめる。

「ヴァートン博士は夕食後から就寝まで、自分の研究時間と決めているんだ。それを些細なことで邪魔すると、その手当がとても乱暴になるし、治療の間、毒舌を聞く羽目になる。だからヒューロンにいる者たちは、その時間には怪我をしないように注意しているんだ。ただし、彼が興味を引くような怪我の場合は別だ。そのときは研究中であろうと就寝中であろうと喜々として起きてくる。おまえの時がそうだった。困難な状況だと、博士は張り切るからな。よし、これで終わりだ」

 マーシアはそういうと目のあたりに絆創膏を貼った。リョウは絆創膏に触れ、

「ずいぶんとひどい有様になったものだなぁ」

 と思わずつぶやく。治療箱をしまい、執務机に向かっていたマーシアがくすりと笑う。

「痣はしばらく残るだろうが、痛みはすぐに消える。二日たっても痛みが引かずにはれてきたりした場合は、医務室にいくんだな」

「いつなら博士の都合はいいんだ?」

「そうだな。朝なら十時から昼食まで、午後なら三時から夕食までだな。昼食後の彼は昼寝をするんだ。起こすと機嫌が悪くなる……」

 マーシアはそういうと改めて彼の怪我の具合を確かめるように見ると、

「でもそのときは、あまりそういうことを気にする必要はないだろう。どのみち、怒鳴られるのだから」

「えっ?」

「もちろん怒鳴られるさ。なぜもっと早く来なかったのかとね」

「彼に気を使って遠慮したのにか?」

「彼はそう思っていない。気を使われているとはぜんぜん考えたこともないだろう」

「それはまた、ずいぶんと……」

「確かに彼は身勝手な男なんだ。そうでなければ、自分の研究を貫くことなどできなかっただろうし、そういう男だからこそ、帝国の研究機関の人間たちには嫌われたんだろう」

「でもここではそうではないんだな」

 リョウは肩を回して痛み具合を確かめた。

「もちろん、なんだかんだといっても彼は細胞再生治療の研究ではめざしい成果を出しているしな。性格だって個性的なだけさ。そういうところではグラントゥールの人間は寛容なんだ―― もう行くのか?」

 リョウは足を止めた。もちろん黙って立ち去るようなことをするつもりはないが、彼女の声がなぜか寂しそうに聞こえた。もう一度ベッドの端に座り直そうかとも思ったのだが、しかしこの部屋の時計は深夜に近い時間を指そうとしている。さすがにこれ以上いるのは、よくないだろう。そう思う反面、彼もまた寂しく感じていた。新任の所長がリョウを傷つけるためとはいえあんな邪推をしなければリョウはマーシアが休むまでこの部屋にいただろう。なにをするでもない。ただマーシアが執務している姿を見ているだけで、彼は幸せな気分を味わえるのだ。しかしそれは常識的に見てあまりいいことではない。なにもないといってもこういう状況が邪推を生むのだ。そしてそれは彼女の部下たちにもいい影響は与えない。


「あまり女性の部屋に遅くまで長居をすると変な噂が立つからな。きみだって部下たちに変な噂が流れたら困るだろう?」

「変な噂ってなんだ?」

 リョウはマーシアをまじまじと見つめた、思い切り肩を落とした。またあの話をする必要があるらしい。

「あのな、俺とおまえは男と女なんだ」

「そんなことは始めからわかっている。それがどうして変な噂になるんだ?」

 本当にわからないのだろうか? とリョウは真剣にマーシアを見つめる。

「おまえはそのことにこだわりすぎるぞ。それがいったいどうしたと言うんだ?」

 もはや衣に包んだ言い方では話が通じないらしい。リョウは深く息を吸い込むと、ズバリと言うしかないと覚悟を決めた。

「俺の常識では、男が女性が一人しかいない部屋に深夜までいるのは非常識とされているんだ」

「そうなのか……だがどうしてそれが非常識なんだ? 別にかまわないだろう? ここはわたしの部屋だし、おまえがいてもわたしに不都合はない」

 リョウはまた小さくため息をついた。

「男が夜遅くまで女の部屋にいるということは、男女の関係を結んだと思われても仕方がないということなんだよ。たとえそれが事実でなくても多くの者はそう思うだろう。現にヒューロンの収容所の新任所長はそういったんだ。きみが俺を情夫にしていると。まるできみが色情狂の女のようにな」

 思い出して彼はぎりりと奥歯をかんだ。あのとき自由であったら有無を言わせずにあの男を殺していただろう。


「おまえの言っていることはほとんどわからないが、その様子から見ると、あの男はわたしのいないところでわたしをひどく侮辱したらしいな」

「自由でさえあれば、あんな侮辱を言わせておくことはなかったんだが。すまなかった」

 マーシアの瞳が柔らかくなる。

「そんなことはない。おまえが憤ってくれただけで十分だ。おまえがわたしの代わりに怒ることもないのにも関わらずな。あっ、そういうことか」

 マーシアは不意に気がついたらしい。

「その男は要するに、おまえとわたしが生殖活動をする仲だと言ったんだな」

「せ、生殖活動?」


 リョウはその言葉に唖然とした。男女のもっともプライベートで親密な行為をまるで生物の単語のようにマーシアは表現した。いったい彼女の頭はどうなっているんだ? リョウの方がかえって赤面したくなる言葉だ。

「そんな関係ではないことは誰もが知っていることだが、ろくに調べもしない新任所長も案外愚かだな」

 リョウは思わずベッドの端に再び座り込んだ。立ち上がる気力はしばらく出そうにない。マーシアはただ単に事実を客観的に述べているだけなのだ。

「でもなぜそのことをおまえが気にするんだ? 男と女が生殖活動をするのは当たり前だろう?」

「それは本当に愛し合った者同士がするんだ」

 リョウは思わず叫んでいた。マーシアは本当になにも知らないのだ。見事なくらいその手のことは彼女の知識から抜け落ちている。

「おまえはわたしと生殖活動がしたいのか?」

 マーシアはまるで一緒に歩きたいのかと聞くかのような口調で尋ねる。

「それともそういうことはしたくないのか?」

 リョウはだんだんと手に負えなくなっていくのを感じていた。だがいったいどうしたらいい?

「たのむから、そういう質問はしないでくれ」

 リョウは情けない声を出した。

「変な奴だな。わたしはただしたいかしたくないか聞いているだけじゃないか。なぜ答えられないんだ?」


 マーシアはまるで無垢な子供がただ純粋な興味で聞いていた。しかしそんな質問に意味を知っているリョウが答えられるはずもない。したくないなどとは言うのは明らかに嘘だし、したいとはマーシアに面と向かっていえるはずもない。ましてやその手のことにはまるで生まれたての赤子のように彼女なのだ。

 リョウの気まずい沈黙を来訪を告げるベルが救った。マーシアの机にはエリックが立体映像となって浮かび上がる。マーシアはパネルを操作し、ドアが開いた。その姿を見て、リョウは心底ほっとした。

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