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ヴァルラート戦記  作者: 結月 薫
第1章 ヒューロン
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ヒューロン17

 マーシアは足を止めた。男の憎悪が、リョウ自身に向けられたものではないことをマーシアは知っていた。リョウは身代わりにしか過ぎない。男が本当に殺したいのは……。

 マーシアは静かに銃を抜いた。


「そこまでだな。それ以上言うと、今度はフェルデヴァルト公爵が怒り狂うぞ。彼をそこまで激怒させると、サイラート帝ですら鎮めるのは難しい」

 新任の所長は明らかにぎょっとしていた。マーシアは誰にも悟られずに、彼に近づき、その銃口を彼の広い背中に当てていたのだ。もちろん、リョウも気づいてはいなかった。二人にしてみれば、マーシアの登場は突然空中から現れたようなものだ。

「その汚い足をリョウの顔からどけろ。ただし下手な動きは見せるなよ。銃はおまえの心臓を撃ち抜けるからな」

 男はそろそろと足を動かした。


「銃を捨てろ」

 言われるままに銃を足下に落とす。立ち上がったリョウはその銃を男の後方に蹴った。マーシアがその行動をみて、ちらりと笑みを浮かべた。

「おまえは明日が帰還のはずだったのではないか。なぜ今日、戻った」

 リョウはハッとした。なぜ新任の収容所の所長が彼女のスケジュールを知っているのだ? 帝国の収容所とマーシアの館とは本来何の関わりもないはずだ。収容所の囚人である自分が、マーシアにかくまわれているから、こうやって関わりができているだけで、本来は互いがなにをしていようと興味は持たない。今まで何度も囚人狩りは行われていたが、グラントゥール人は今まで一切干渉していない。今回が特別なのだ。


「おまえにわたしの帰還を知らせる義務はないはずだが……それとも知らせてほしかったのか?」

 一見無邪気そうな様子で目を見開いてみせるマーシア。だがその黒い瞳はまるでヒューロンの凍てつく大気のように冷ややかだ。

「ここはグラントゥールの管轄だと言うことは知っているな」

 所長は口を閉ざしたまま答えない。だが当然知っているはずだ。

「そして彼はわたしが保護している。おまえたちに引き渡す気はない。よく覚えておくんだな」

 所長の顔にあざけるような笑みが浮かぶ。なにを想像しているのか、リョウにはすぐにわかった。だが後ろ手に手錠をかけられた状態ではあの男を殴ることもできない。奥歯をかんで、その苛立ちを押さえ、彼を睨みつけるしかできないのだ。


「俺をどうするつもりだ?」

「グラントゥールの領域を悪意を持って侵入すれば、命を取られても当然だとわかっているわけだ」

 マーシアは口元に笑みを浮かべる。その笑顔はまるで獲物を前にした優美でしなやかな豹を思わせた。リョウは子供の頃野生の豹が獲物を狩るところをみたことがある。彼女は無駄な動きは全くしなかった。ただの一撃で獲物の喉元にかみつき自分の倍もある獲物を倒したのだ。そして草むらから子供たちが出てくると、彼らが食べ終わるまでその傍らで、毛並みを整えていたのだ。

「本来ならこのまま引き金を引くが……。サイラート帝から、やたらと辺境の収容所の監視任務に関わっている兵士たちを殺さないでほしいと言われているんでね。囚人たちを管理するにはそれなりに人手が必要だし、辺境の収容所にいきたがる兵士はいないそうだ。だから今回の件は見逃してやる。サイラート帝の顔を立ててな。だが今度このようなことをしたら、そのときはその命はないと思え」


 男はふんと笑うと、

「後悔することになるぞ」

 と告げて、まだ立っている部下を叱咤して、引き上げた。彼らが気を失った仲間を抱き起こし雪上車に乗り込ませて姿が見えなくなるまで、マーシアは警戒を緩めなかった。

 彼らの姿が完全に見えなくなり、気配も消えてようやくマーシアの肩から緊張が消えた。

「おまえは……」

 マーシアはリョウの元につかつかと歩み寄ると、顔を上げた。そのとき初めてリョウは、彼女が自分よりも頭一つ分も背が低いのに気がついた。こんな風に向き合ったことがないせいだろうか、リョウは彼女が自分と同じぐらいのような感じでいたのだ。マーシアの黒い瞳が一瞬心配そうな光を浮かべて消える。顔がひどく腫れ上がっているだろう。右目は腫れた瞼のせいでほとんど見えない。そんな彼をマーシアの視線は隅々まで確かめるように見つめている。あまりの視線の強さにリョウは身の置きどころがない感じにさせられ、つい、

「そんなに見つめられてもこれ以上、いい男にはにはなれないよ」

 そのとたん、マーシアの瞳がヒューロンの「白い女神の嘆き」並の嵐が吹き荒れる。対処を間違えたら彼女の内で渦巻いている嵐が、猛烈な勢いで外側に吹き荒れることは間違いない。マーシアは猛烈にリョウに腹を立てているのだ。リョウはその怒りを受け止める覚悟で、静かにマーシアを見下ろした。しばらくして不意にマーシアの怒りが和らぐ。


「後ろを向け」

 マーシアがぶっきらぼうに指示する。マーシアでなければその指示に従うことに恐怖を感じていただろう。両手の自由を奪われた状態で背中を見せることは命を預けたも同然だ。しかも彼女はまだ銃を手にしている。だが、たとえ彼女がどれほど激怒していようと、リョウは彼女に無防備な背中を見せることにためらいはなかった。彼女と出会ってから、それほど時間はたっていない。それなのに誰よりも彼女を信頼している自分に驚いた。ともに夢を抱き、帝国の戦艦を奪った親友のニコラスにでさえ、こういう状況になったときは、信じてはいても自然と体が緊張する。だが今マーシアに背中を向けている自分はむしろリラックスしていた。


 光弾の発射音と同時に手首に軽い衝撃が走る。次の瞬間、手首の圧迫感が消え、手錠がはずれた。

 マーシアは黒い瞳をまっすぐリョウに向けると、

「わたしが駆けつけるたびに、おまえはひどく痛めつけられているが、なぜいつもそうなんだ?」

「なぜって……俺に聞かれても知るか。ただの偶然だ」

「そうか、ただの偶然か……」

 マーシアはリョウに歩けるかと問いかけた。リョウは彼女の前で、少し歩いた。節々は痛むが、大したことはない。その様子を見て、マーシアも歩き出す。

「何か言いたいことがあるんだろう? はっきりと言ったらどうだ?」

 リョウはマーシアが言った言葉が気になっていた。彼女は彼がいつも殴られ、手も足も出せない状態で屈服させられているときに駆けつけるのを偶然だと思っていないのだろうか?

「何かの資料で、自分の体を痛めつけられると、苦痛ではなく快感を感じる人間がいると書かれていたのを思い出したんだ」

 リョウは足を止めた。

「まさか俺がそんな人間だと疑っているのか!」


 それは問い返すと言うより、言い返すと言った方がよかった。マーシアにそんな風に思われるのは心外だ。

「俺に被虐趣味はない。殴られて喜ぶなんて想像もつかない。マーシア、俺はふつうの男なんだ。痛みを感じれば、苦痛だ。俺は決してマゾヒストじゃない」

 リョウは彼女に理解してもらおうと必死に説明する。真剣に自分を弁護するリョウを見て、マーシアがくすりと笑った。その瞬間、リョウはマーシアをまじまじと見返す。

「マーシア! 人が悪いぞ」

 リョウは思わず声を荒げた。

「おまえが心配をかけさせるからだ」

 マーシアの少し怒ったような言葉に、リョウは冷たい水をかけられた思いがした。腹立たしさが一瞬で消える。

「心配……してくれたのか?」

「意外か?」

 マーシアが皮肉っぽい目でリョウを振り返った。正直、彼女が自分のことを気にかけているのだとは思ってもいなかった。彼女はリョウの怪我がほぼ治った後も、彼を収容所に戻そうとはしなかったが、彼女が帝国側の人間であることは間違いない。それなのに、何の見返りも求めず反逆者である彼を自由にさせているのだ。自分という人間に関心がないからなのだろうかと言う思いがよぎることもあった。だがそうではなかったらしい。少なくともマーシアは気にかけてくれてはいるのだ。気まぐれで助けた自分のことを。リョウは腫れ上がった顔をマーシアに向けた。その瞳は優しい光をたたえている。

「うれしいよ、君が心配してくれるのは」

 マーシアにはその声は甘いささやきのように聞こえた。頬が熱くなるような気がした。マーシアはとっさに顔を背けて、

「おまえのことを心配するのは今回だけだ。だから二度とこんな無茶なことはするな。わかったな」

 無茶なことか……リョウは彼女の言葉に引っかかった。ここは確かグラントゥールの管轄の場所のはずだ。本来なら安全なはずなのに、なぜ無茶をしたと俺が叱られるんだ? 無茶なことは何一つしていないのに……


「返事はないのか?」

 立ち止まったマーシアがこちらをにらみつけるように見ている。この事態は俺のせいじゃないぞ、と言おうとしてリョウは気を変えた。マーシアはとても心配していたのだ。だから八つ当たりじみたことをする。そこまで気にかけていたことを知られたくないと、たぶん無意識にそう言う態度に出てしまうのだろう。エリックたちを前にしているときの冷静沈着でよほどのことがない限り驚きもしない彼女とはまるで違って見える。

「わかった。こんなことは二度と起こらないように努力するよ」

 曖昧な言い方だ。だが自分が悪いわけではないのに、彼女の機嫌をとるために謝罪するつもりはない。ここまでが彼にできる限界だ。マーシアはちょっと驚いたように目を大きくすると、不意にふっと笑った。少し取り澄ました彼女は先ほどとはまた別の彼女だ。

「起こらないように努力するか……うまく言い逃れたな」

「不満なのか?」

 マーシアは一瞬考えて、首を横に振る。

「それならよかった。今の答えが気に入らなかったら、別の言い方を考えないといけないからな」

「結局謝る気はないんだな」

「心配かけたのは悪いと思っているよ。だがそれだけだ。ただ……」

 リョウは思わせぶりに言葉を切った。

「ただ、なんだ?」

 マーシアは待ちきれずに促す。

「ただ、きみに心配してもらってことは本当にうれしいんだよ」

「正直だな」

「ああ、自分の気持ちに嘘をついても仕方がない。それにきみには嘘をつきたくないんだ」

 マーシアはまじまじとリョウを見つめると、

「おまえは確かに、被虐趣味の変態ではないかもしれないが……」

「ようやく理解してくれたようでうれしいよ」

「だが、おまえは女が欲しがりたくなるような甘い言葉をささやく女たらしの才能は十分にあるぞ」

「女たらし……」

 リョウは再び愕然とした。ヒューロンに送られる前は確かに女性とつきあったこともある。だが彼女に非難されるようなつきあい方はしていない。

「マーシア、俺は……」

「私はおまえが女たらしだと言ってはいないぞ。その才能があると言っただけだ」

 振り返ったマーシアはニヤリと笑う。どうやらこういうやりとりを彼女は楽しんでいるらしい。だがエリックたちとはこんな会話しているところを見たことはない。自分だけが特別なら、彼女にからかわれても嫌な気はしない。これももう一人の彼女なのだ。エリックたちはこんな彼女を知らない。そう思うとリョウはマーシアに追いつくためにスピードを上げた。


 リョウは来た道をちらりと振り返った。

「どうした?」

「ずいぶんと長い間蹴られ転がされていたのか思っていたが、そうでもなかったようだな。自分の身を守るのに精一杯で余裕がなかったということか……」

 一人ごちたリョウは空を見上げた。太陽は沈んだのだろう。オレンジ色に輝いていた空は薄闇に染まりつつある。

「早々に片づけて、館に戻らないと、真っ暗になってしまう」

「片づけるってなにをだ?」

 このあたりでリョウが倒した看守たちの姿はない。彼らは皆収容所に引き上げたはずだ。

「マーシア! 無事でしたか?」

 エリックの部下たちが輪になっている。その中心で意気消沈してうなだれているハーヴィだが、怪我はないようだ。

「それにしてもずいぶんひどくやられたな」

 エリックは輪からはずれ近づきながらまじまじとリョウの顔を確かめる。

「連中は手加減を知らないからな」

「でも、とにかくよかった。マーシアが予定通りの日程で帰還していたら、きみは今頃、収容所に連れ戻されていたな」

 マーシアが来てくれなければと思うと、背筋がぞっとする。

「あとはあなたにお任せしますよ」


 リョウははっと我に返った。マーシアは何かを無言で問いかけ、エリックはそれを了承したらしい。いったいなにをしようというのか、マーシアはハーヴィの前に立った。

「マーシア?」

 その手には銃が握られている。しかもその銃口はハーヴィに向けられていた。

「おまえに与えられた任務はなんだ?」

 マーシアの声は冷ややかを通り越して凍てついていた。ハーヴィを取り囲んでいた何人かがごくりと喉を喉を動かし、思わず後ずさった。リョウもまた彼女の背中から静かににじみ出ている冷たい雰囲気に息を飲む。彼女が今まとっているのは、ヒューロンの大気だ。なにもかも凍らせ、時には人の命さえ平気で奪ってしまうほどのものだ。

「答えろ」

 抑揚のないマーシアの声に、ハーヴィはようやく顔を上げる。そして悲しい目でリョウを見ると、

「彼の、リョウ・ハヤセの護衛です」

「あの男がどういう立場なのかわかっているはずだな」

 ハーヴィはこくりとうなずいた。

「護衛任務は命に代えて対象者を守ることだ。それなのにおまえはなにをした? 守るべきものを守らず、それどころか人質となって、かえって対象者を窮地に陥れた。それが護衛任務を与えられた者の仕事か!」

 大気がふるえるほどの叱責にエリックまでが青ざめる。

「覚悟はできています」

 再びうなだれたハーヴィの表情は見えないが、その声はすっかりあきらめきっていた。なにを? 生きることを、だ!


「やめろ! マーシア!」

 その瞬間、リョウは叫んでいた。

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