ヒューロン01
惑星ヒューロン――その惑星は、ヴァルラート帝国が支配する銀河の中でも、もっとも辺境の星域にあった。銀河を縦横に走る交易路からもはずれ、居住する者は少ない。そしてその大半はセレイド鉱石を採掘するために送り込まれた囚人たちであった。恒星間を移動するためのワープ航法に不可欠なエネルギーを得るための触媒は、セレイド鉱石を精製することによって作られるのだ。ヒューロンのセレイド鉱石は七色に輝く。それはその鉱石から最上級の触媒が作られる証であった。
そんな黄金よりも価値のある大地は白い雪と厚い氷に覆われていた。この惑星を最初に発見した人々はヒューロンを『白い女神の惑星』と呼ぶこともあった。
ヴァルラート暦781年冬、その日、ヒューロンの白い大地と黒い宇宙の間を『白い女神の嘆き』と呼ばれるこの惑星特有の激しい雪嵐が起きようとしていた。白い女神のその慟哭は、人々のささやかな営みさえも消し去ってしまう。
激しい吹雪に飲み込まれながら前へ進もうとするその男に残されるものはいったい何であろうか。
ヒューロンはこの年最大の雪嵐を迎えようとしていた。
※ ※ ※
冷気が鋭い刃のように顔に突き刺さる。横殴りの雪はいつしか小さな氷の欠片となって、襲ってくる。その激しさに目を開けていることすらままならない。支給された防寒スーツを重ね着しているにもに関わらず、叩きつけるような冷気と雹の痛みから逃れることはできなかった。
「あっ!」
男は足をもつれさせた。体がゆっくりと傾いていく。着膨れしている上に、寒さで体力を奪われ、疲れ果てている体では持ちこたえることができない。彼は降り積もったばかりの雪の上に顔から突っ込んだ。
降り積もる雪が、薄汚れたカーキ色の防寒スーツをうっすらと覆う。男は突然大声で笑い出した。自分を嘲る哀しい声がしばらく続き、そしてようやく止まる。
リョウ・ハヤセ――三年前まで彼はヴァルラート帝国軍の優秀な士官だった。第二級臣民という帝国の身分制度の中では最下層の出身である彼が、二十六歳という若さで中佐にまで昇ることができたのは、戦いにおいて幾つもの輝かしい功績を挙げていたからにほかならない。第一級臣民ですら滅多に受けることはないとされるローザンクロス勲章を二度も授与されていたのだ。
しかし今、彼は帝国に反逆した重罪人として、宇宙輸送船から新たな囚人とともに運ばれてくる補給物資で命をつなぎ、そして帝国の繁栄のために、一日のほとんどをセレイド鉱石の採掘作業に従事させられていたのだ。長時間の労働と貧弱な設備のせいで、何人もの囚人たちが彼の横で息絶えていった。三年たった今、彼は収容所の中でも数少ない古株の一人だ。しかしそれも今夜で終わる。
リョウは体を返し、仰向けになった。見えるのは眼前に迫ってくる雪だけだ。女神が嘆かなければ、キンと張りつめた鋭い冷気の中に見えるのは煌々と輝く満月だった。
生と死の狭間で生き延びることだけがその生活のすべてである彼にとって、ほかの囚人とともに長い鎖で一つにつながれたまま、収容所から採掘現場まで往復する時間に、月を見上げることだけが唯一の楽しみであり慰めだった。
彼が採掘作業を行う場所は収容所からもっとも遠く、朝は太陽が地平線から顔を出すよりも早く空がまだ暗いうちに収容所を出て、日が昇る前から採掘作業を行う。その間は一心不乱に作業をすることを要求され、よそ見は決して許されない。リョウは皮膚が気温の上昇を感じてようやく朝がきたことを知るのだ。そして日が暮れて手元が見えなくなるまで作業を続け、戻るのはほかの採掘現場に行った囚人たちの中でも一番最後だ。当然乏しい食料が彼らのために残されているはずはない。そんな状況の中、彼が生き残れたのは、起き抜けに配られるスティック状になった高カロリーの携帯栄養食のおかげだった。
人差し指二本分程の大きさで一日に必要な栄養素とカロリーがとれるものであるが、彼らに配給されるものは最下級品の粗悪なものであった。安価ではあるが、腐った魚のエキスを何倍にも濃縮したような代物で、飢えていても途中で食べ残してしまいそうなものだ。だが彼は吐き気をこらえながらもそれをゆっくりと最後まで食べるようにしていたのだ。自由を奪われたものにとって、食べることのみが唯一の楽しみだと言われることだが、彼ら囚人たちにとってはそれすらも苦行でしかなかった。もはやかつて食べていたものの夢さえ見ない。彼がよく好んで食べていたオレンジの味はもう思い出せなかった。
瞼を閉じて運命に身をゆだねたリョウに、降り積もるヒューロンの雪は温かく彼を包んでいた。いつしか風の音が止んでいる。しんとした沈黙の世界。リョウはこの三年間では一度も味わったことのない穏やかな気分に満たされていた。これ以上生きることが許されないのなら、このまま静かに逝こう。明け方になれば間違いなく、この苦しみから逃れられるのだ。
※ ※ ※
ヒューロンの白い女神が嘆く夜は、厚い雲に覆われた空から光が漏れることはない。あたりは漆黒の闇のはずだった。だが今夜は嵐なのにも関わらず、収容所の方角から放たれるサーチライトがひっきりなしに闇を切り裂く。何度もヒューロンに来ているが、こんなことは初めてだ。
「ずいぶんと騒々しいな」
収容所の管轄区域との境界近くの小高い丘の上に止めた雪上車の中で、マーシアはつぶやいた。
「大量の脱走者が出たようです。情報では収容者の約三分の一が逃げ出したとのこと」
助手席で館のコンピュータを通して情報を集めていたエリックが応える。
「もっとも確定情報ではありませんが。帝国のコンピュータにもイリスが接続してみましたが、なにも報告がないようです」
「ここは帝国の廃棄物処理施設だ。囚人たちは帝国の反逆者とされている。報告ならすべてのことが終わってからだろう」
マーシアは一瞬考えて、
「いや、報告自体行わないかもしれないな。脱走はなかったことになるかもしれない」
「それはまたずいぶんいい加減ですね。たとえ末端の組織とはいえ基本的なこともしないんですか?」
エリックの右の眉が軽蔑したように吊り上がった。それを見てマーシアは口元に笑みを浮かべる。彼はローデンベルク伯爵家の当主でもあるため、そういう組織の規律にはかなりうるさい。
「エリック、帝国はグラントゥールじゃない」
「もちろん承知しています。グラントゥールでこんないい加減なことは許されませんからね。そんな怠け者はグラントゥール人ではいられません」
典型的なグラントゥール人の言葉だった。マーシアは肩をすくめると、後部座席に手を伸ばしヘルメットを取った。
「外に行かれるんですか?」
なぜわざわざと言いたげな口調に苦笑する。彼は寒いのが苦手なのだ。しかもこの先には帝国との境界線がある。
「心配するな、帝国兵相手に面倒は起こさない」
そう応えると、マーシアは長い髪をひとまとめにしてヘルメットをかぶった。
「そう願いたいですね」
彼の皮肉っぽい言い方にマーシアはあえて顔を向ける。
「まさか、帝国とやり合うのをおそれているのか?」
キーボードをたたいて情報を検索していたエリックの手が止まった。穏やかな光をたたえていた青い瞳が突然鷹のように鋭く光る。その視線をマーシアは笑みを浮かべたまま受け止める。数瞬のち、エリックは再び視線を和らげコンピュータの端末に向き直る。
「あなたでなければ、侮辱されたとして戦いを挑んでいましたよ。あなたもそれを承知の上でいったのでしょうから、たちが悪い。そんなに退屈ですか?」
マーシアはちょっと不機嫌な表情を浮かべると、
「二十四時間だけ滞在する予定が、今日で丸三日も足止めされているんだ」
「それは仕方ないでしょう。今度の嵐は今までの中でも最大級ですよ。さすがに我がシャトルもそのような状況で大気圏を通り抜けることは不可能です」
「それは十分承知している。だが……」
マーシアはキャノピーの向こうに目を向けると小さくため息をついた。
「明朝には出発できますよ。今、私の部下たちが機材を必死に調整していますから、昼頃には、宇宙の任務に戻れます。危険とスリルに満ちた宇宙にね」
エリックは予定外のヒューロンの滞在期間の延長でマーシアの気持ちがささくれ立っていることに気づいていた。マーシアはヴァイザーを下げ、スーツとヘルメットを完全につなぎあわせた。その瞬間、内蔵されているコンピュータがかすかなうなりをあげて起動する。
「すぐに戻る」
マーシアはそう告げると、外に出た。ブーツが降り積もった雪の中に沈む。嵐はとりあえず落ち着いたようだが、その名残のように雪がひらひらと舞い降りている。防寒用のスーツを着ているにも関わらず、空気は刺さるように冷たい。
マーシアは雪を踏みしめながら斜面との境に歩み出た。足下の緩やかな斜面はそのまま平地へとつながり、その先には小さな建物群が見える。そこがヒューロンにおける帝国の収容所だった。境界線はちょうどここと収容所との中間に生えているヒューロン杉の林のあたりだ。ヒューロン杉は、雪と氷に包まれたこの惑星にかろうじて自生している数少ない植物であった。ここが赤道近くの比較的暖かい場所であることと、収容所があることでほかの地域より寒さが緩いせいであろう。
そのとき、降り積もった雪を風が舞いあげた。風は犬の吠え声を運んだ。そして言葉ははっきりしないものの、何人かの怒声が聞こえる。
顔を向けたマーシアはヘルメット側面のスイッチを入れた。ヴァイザーの向こう側がぼんやりと明るくなり、映像を結ぶ。内蔵されている視覚支援装置が遠方の光景を映し出したのだ。倍率を上げたマーシアは、雪の中から起きあがる人物をはっきりと捕らえた。
※ ※ ※
いったいどれだけの時がたっただろうか。リョウは瞼をあけた。彼を包む雪は暖かい。風が収まり、しんと静まり返っている世界に、心臓の脈打つ音が聞こえる。彼はまだ生きていた。
その鼓動を聞いているうちに、リョウは再び力がみなぎってくるのを感じた。理不尽な仕打ちで反逆者にされたことへの怒り。収容所で日常的に行われる虐待とそれを是正することのない帝国への憤り。それらはひとかけらの希望すらを持つことができないこの世界において、リョウの魂を守り今日まで生き残らせた原動力であった。一度は消えかけたそれが再びよみがえってきたのだ。
風が彼の感情をもっとかき立てるように吹き抜け、体を覆っていた雪が巻き上げられる。そして獲物を求める犬の声が届く。さほど遠くはない。その瞬間、彼の反発心に火がつく。
「こんなところで食われてたまるかっ」
リョウはそう叫ぶと立ち上がった。肉体的にはここに倒れ込んだ時点で限界だった。しかし反発心が彼の体を動かしたのだ。この惑星から生きて脱出する可能性はゼロに等しい。だが結果は死であっても、囚人たちよりもずっと贅沢な食事を与えられている犬たちの慰みに喰い殺されるのはごめんだ。
立ち上がった彼は看守たちから少しでも遠くに逃れようとするかのように歩き出す。ゆっくりとした歩みに苛立つが、これ以上早く進むことは無理だった。そんな彼に女神が同情したのか、空を厚く覆っていた雲が次第に薄くなり、満月の光が雲を抜けてかすかに周りを明るくする。リョウの目に小高い丘が見えた。肩越しに後ろを見るリョウ。看守たちの姿はまだ見えないが、その気配は確実に近づいている。リョウは再び向き直ると、その頂を見据えた。――せめてあの向こうに行ってみたい。
リョウは再び歩きだした。
※ ※ ※
ヒューロン特別労働教育訓練所――名前だけはとても高尚な印象を与えるが、ここはまさに政治犯たちを収監している収容所だった。
その一室で、正式な文書では教官と呼ばれている看守たちが、壁一面のスクリーンを横目にカードを楽しんでいた。カードがめくられる度に彼らの悲喜こもごもの声が上がる。その合間に、外で脱走者を始末している看守たちから雑音混じりの報告が入る。手の空いたものがそれに応じる。
「向こうの方はどうだって?」
手に持っているカードから目を離さずに年かさの男が聞く。聞かれた方の男は本来ならここの備品を入れている棚から酒を取り出し、一口あおる。
「なかなか順調そうだったぜ。今回は副所長が一番しとめたらしいな」
「おいおい、それでは所長が不機嫌になるだろう。とばっちりがこっちに来たりしたらうんざりだぜ」
カードを引きながら男の一人がつぶやくと、向かいに座っている男が、
「今回の船で来た囚人たちの中で、所長好みの奴を選んでつれていけば機嫌も直るさ」
「確かに」
と、そこにいる連中が声を立てて笑った。
不意に、その監視室内で警報音が響く。全員がハッとした。
「いったい何だっ?」
一番年嵩の男が声を上げる。ほかの男たちも手にしていたカードを放り出し、それぞれの位置に着き、急いでコントロールパネルを操作する。彼らの前に広がるスクリーンには、施設のあらゆるところに設置されている監視カメラの映像が映し出されていた。囚人たちにプライバシーはない。看守たちがその気になれば、二十四時間一秒も目を離すことなく彼らの行動を見ていることができるのだ。囚人たちは知る由もないが、収容所としての設備はかなり劣ってはいても、少ない人数で多くの囚人を管理する以上、それなりの費用はかけられていた。特に監視カメラの台数はほかの収容所よりも多いくらいだ。どこにも死角がないように設置され、スクリーン全面にそれぞれの映像が映し出される。その多くに映る囚人たちは今回の定期船で送り込まれた新入りで、どの顔も不安そうだ。
「施設内に異常はありません」
映像をチェックしていた男が報告する。年嵩の男が眉を顰める。
「外を映せ」
そのとたん、スクリーンが外の監視カメラに切り替わる。だが人の気配はない。
「追跡装置の映像をこちらに回せ」
「はい」
別の男が自分の目の前の小さなスクリーン映っていた収容所周辺の地図を転送する。それは収容所周辺の地図だ。その中で赤い光点が点滅しながら、ゆっくりと移動しているのがわかる。向かっているのはシャトルの発着場だ。しかしその点滅も突然消滅する。
ヒューロンの地に降り立った囚人たちはまず足首に発信器を埋め込まれる。その発信器の番号が囚人番号となるのだ。その瞬間から、彼らに名前はなくなり常に番号で個人を識別することになる。そしてその発信器から発せられる電波は、この部屋の追跡装置でとらえられているのだ。どこにいるのか一目でわかるのだ。そして発信器の持ち主の生命力が失われると同時に発信器もその役割を終え、発信電波か停止するのだ。スクリーン上に映っていた光点の消滅はすなわち、囚人が看守に殺されたことを意味する。
スクリーンにはまだ二、三の光点があったがそれも消滅した。
「どうやら、これで終わったようです」
警報はとりあえず止めているが、年かさの男にはまだ不安の色がにじみ出ていた。警報か鳴った原因が掴めていないのだ。もっとも誤報という可能性がなくもないのだが……。
「範囲を広げてみろ」
男たちは一瞬戸惑った顔をしたが
「境界線を越えて監視することになりまずいのですか?」
年嵩の男がうなずく。迷いがないわけではない。ここに到着した看守たちが真っ先に教えられるのは、収容所の管轄区域はかなり限定され、その外側では帝国の力は及ばないということだった。
この銀河において惑星はすべて帝国のものであり皇帝のものだ。たとえその惑星国家が帝国が存在する以前から国家として存在していたとしても、帝国に服属した時点で帝国領に組み込まれ、改めて帝国より臣民たちに預けられたという扱いになるのだ。自治はおおむね認められているが、帝国には治外法権があった。だがなぜかグラントゥール人は帝国の規律の枠外にいる存在だった。グラントゥール人とトラブルを起こしたものは兵士将校に限らず、処罰の対象になるのだ。
そしてここはそのグラントゥールが所有している惑星で、帝国の収容所は彼らの特別の計らいで、セレイド鉱石を採掘するためにその一部分を借りているに過ぎない。しかも彼らは自分たちの権利には非常にシビアだ。境界線を侵せばただではすまないはずだ。境界線の外にまで索敵範囲を広げると言うことは、そんな彼らを刺激する一因になる。
幸いなのは、この惑星に常駐しているグラントゥール人はほんのわずかだということだ。彼が知る限り十人前後しかいない。そんな人数で、この惑星の大部分をカバーできるはずもなく、多少の侵犯なら見つからない可能性が高い。
「見てください! あれを」
年嵩の男は顔を上げた。彼が示したスクリーンの一角には、発信器から出される電波が、光点として表示されていた。生存している証にそれは点滅している。しかもゆっくりとではあるが確実に境界線に向かっている。
境界線の手前に設置されているセンサーが、発信器の電波をキャッチして警報を鳴らしたのだ。今までこんなところまで逃げ延びたものはいない。
「至急、所長たちに連絡だ。境界線の向こうに逃げられたら非常にやっかいなことになるぞ」