目指す理由
夏休みがやってきた。いつもなら待ち遠しいはずの夏も今年に限っては手放しで浮かれいられない。
”夏を制する者は受験を制する”
教師や塾の講師から散々言われてきた言葉を胸に、美令は心して夏を迎えた。
夏休みは学校の講習をいくつか受講するが、基本的には塾の夏期講習に参加する。ようやく元気から解放されるかと思うと、安堵と自分でもわからない少しの寂しさがあった。
しかし、受験の天王山である夏に、天下分け目の戦いである夏に、元気なんかに振り回されている場合ではないのである。
「あ、椿じゃん!」
夏期講習の初日。美令は教室に足を踏み入れて固まった。聞こえるはずのない声が聞こえる。見えるはずのない者が見える。
「な、なんで源くんがこ、ここに……?」
冷静を装うが失敗して声がどもる。元気はそんな美令の様子など気づかずに爽やかスマイルを向けてきた。
「俺もこの塾通ってんの。今日からRクラスに上がったんだ。よろしくなー」
「は、はあ……どうも……」
「とりあえず席に座れば?」
元気に促されて自分の席を探す。さすがに塾まで席が隣ということはなかった。だが、夏の間も元気と顔を合わせなくてはならないことに、美令はため息をついた。
1時間目から4時間目までは平穏に過ぎた。美令も一度授業が始まってしまえば元気の存在など忘れて勉強に集中した。
「椿はこの後とってるのか?」
4時間目が終わり、自分の席で弁当箱を広げていると元気が近づいてきた。
この塾のシステムは午前中は必修授業を各クラスで受講し、午後は各人が事前に申し込んだ単元別の授業を受講する。人によっては必修授業のみで終わるため、元気は美令が午後も授業をとっているか聞いてきたのだ。
「とってるけど……」
「じゃあさ、昼一緒に食っていい?俺、このクラスじゃ知り合いいないからさぁ」
「……どうぞ」
断るわけにもいかず頷くと、元気は前の席に座り体とコンビニ弁当を美令の机に乗せて食べ始めた。
「椿はどこ目指してんの?」
話すこともないので気まずさを感じながらも黙々と箸を動かしていると、元気の方から話しかけてきた。
「え、えっと……N高だけど……」
「まじで?同じじゃん!」
「……」
それは知っていることなので驚きはしなかったが、何と答えればいいのかわからず美令は沈黙した。
「椿はなんでN高目指してんの?」
それを察してか元気は答えやすい質問に変えてきた。話している間も元気の箸は止まらない。器用な人だと思う。美令の箸は話始めてから全く動かない。
「なんでって、都立だし、進学校だから」
「へー。やっぱ将来的にはT大とかK大とかW大とか狙ってんの?」
「まだそこまでは決めてないけど……でもいい大学には行きたいなぁと思ってる」
「ふーん。ちゃんと先のことまで考えてんだな」
「そ、そんなことないよ……」
何も決めていないから、とりあえずレベルの高い学校を目指してるだけだ。その先に何かあるわけではない。きっとN高じゃなくてもT大じゃなくても、近いレベルの学校なら満足してしまうだろう。
そこまで考えて、じゃあ元気はどうなんだろう?という疑問がわいた。今なら美令でも自然なタイミングで聞ける。
「源くんは?なんでN高を目指してるの?」
ごく自然に、しかも普通の質問をぶつけたつもりだった。しかし、簡単に返ってくると思っていた答えはすぐには返ってこなかった。
元気は考え込むそぶりをして、言葉を選んでいるようだった。
「……うーんと、こんなこと言うと、椿は軽蔑するかもしれないけど……。俺、好きな人がいるんだ」
「え?」
「だから目指してんの!」
じゃあ、と乱暴に言い捨てると、元気は荷物をまとめて教室を後にした。いつも力の抜けた笑顔しか見ていなかったが、教室を出るときの元気は顔が真っ赤だった。
「……」
教室にひとり取り残された美令は、再び弁当に向き合った。さっきから量が変わっていない。
好きな人のために志望校を選ぶ。それも一つの道かもしれない。だが、美令は元気に失望していた。なぜか裏切られた気分だった。
「N高をなめないでよ」
本気でN高を目指してる人もいるんだ。絶対に元気には負けたくない。
費やした時間を取り戻そうとするかのように、美令は弁当をかきこんだ。