第33話 深緑の森にて
シャングリラ大陸東部に広がる、深緑の森。
踏み入った外縁部は木々がまばらに生えており、馬による移動速度もさほど落ちてはいない。
問題はこれからだ。奥深くまで進めば群生する木が大きな障害となるだろう。
「隊長。馬に乗ったまま進んで、大丈夫でしょうか?」
ソーマ以外にも、懸念を抱いた者がいたようだ。
「森の全域を調べるのは、そもそも不可能だ。森で夜営するのを避けるためにも、ケルベロスを追うのは夕暮れまでとする」
「……追いつければいいですね」
「ああ」
見晴らしのいい草原ならまだしも、森の中での追跡は困難だ。
「隊長、左手方向に血の跡が残ってます」
「よし。追うぞ」
狩りの最中に会話をするのは問題もあるだろうが、現状ではそうも言ってられない。どうせ、蹄の音もうるさいし、仲間がはぐれては危険すぎる。
騎馬隊における集団行動などソーマは初めての経験で、自発的な行動を起こすことなく、皆にあわせて黙々と馬を走らせていた。
「熱源探知」
スキルの使用を幾度か試みたが、熱源を捕らえるより早く一同が進むため、なんら成果を上げられずにいる。
周囲の承諾を得ればケルベロスの有無は確認できるが、その間にもっと先まで逃走されてはまったくの無駄骨だ。ひとりで追っているならまだしも、他人を足止めしてまで確認する気にはなれなかった。
積極的に行動しないのは、責任回避という意味合いが強い。
『勇者』らしくない情けない理由だが、かといって、意見を押し通すほどに自分の判断に確信を持てなかった。
(勇者の資格ってのは、……やっぱり、自分を全面的に肯定できることなんだろうな)
彼の知る知識は、マンガや小説などの創作物に偏っていたが、それでも、人の上に立つ資質とは『仲間達の動揺を拭い、成功を信じさせ、結果を出すこと』だと思えた。
ソーマ本人の自己分析によれば、とても向かない役割である。
「あそこに人がいます!」
「なに!?」
馬首を巡らせた騎士達のうち、飛び降りた数名が人影に駆け寄った。
衣類が血に染まっているのも一目で分かった。
「あたりを警戒しろ! ケルベロスに襲われたのかもしれん!」
『はっ!』
馬上にあった騎士達が、その場を中心に散開し、周囲への索敵にあたる。
「隊長、男はすでに死んでいますが、これはヒトではありません」
「なに?」
騎士の指さした箇所を目に止め、クレメッティ隊長もその事実に気がついた。
遺体の耳が細長く上に伸びている。
よくよく見れば、傷だらけの身体も、男性の割には肉付きが薄く細身であった。エルフらしい身体的な特徴と言えた。
「このあたりはすでにエルフの行動圏なのか……。ケルベロスだけでなく、エルフにも警戒する必要がありそうだな」
疲れたように隊長が漏らす。
「エルフは何に襲われたと見る?」
隊長に問われた騎士が、自身の見立てを口にする。
「噛まれた痕もありますし、獣に襲われたのは間違いないでしょう。服や身体にも毒の痕跡があります。ですが、私達の追ったケルベロスに襲われたにしては、争った音が聞こえませんでした。その一方で、以前に襲われたと考えた場合、仮死状態のまま食われずに遺体が残っているのは不自然です」
「……ますます考える事が増えたな」
エルフの死体周辺を調べているため、ソーマはようやく落ちついてスキルを使える。
「熱源探知」
夕暮れ時のように、彼の視界が薄闇に覆われた。
騎士達や馬が赤々と存在を誇示し、樹木はうっすらとした青で表現される。エルフの死体は仮死状態のためわずかながら熱を保ち緑表示となっていた。
大きく視界を動かすと熱源画像が消えてしまうため、ソーマはゆっくりと周囲を見渡してみる。
「おい、勇者。なにをボケッとしてるんだ」
聞き覚えのある声が、苛立たしげにつっかかってくる。
「周囲の警戒をしてるんだよ」
「サボってるだけだろ。真面目に働けよな」
「俺に文句を言ってる暇があるなら、お前こそ仕事しろ」
「今はお前の事を言ってるんだよ!」
「ダグ! やめんか!」
「ですが隊長!」
声を張り上げるふたりに、ソーマは普段の声量で問いかけた。
「あれ、なんだと思う? 木の上だ」
「なにをふざけた事を……」
怒りを露わにしながら、ダグがソーマの視線を追った。
「……猿だろ。だからどうしたんだ?」
「なんだ。猿か……」
熱源による輪郭だけでは、動物に詳しくないソーマでは、とても種別の特定までには至らない。
ソーマだけでなくダグも拍子抜けしたようだ。
「猿なんか眺めてないで、真剣にケルベロス探しをしろ!」
ダグの大声に誘われたのか、猿が動きを見せる。
木の枝にいた猿が、近くにいた馬上の騎士へ飛びかかったのだ。
「うわっ!? な、なんだ?」
もみ合うようにして馬から落ちるひとりと1匹。
キィッ! キィッ! キィッ!
「やめろっ! 離れろ、こいつ!」
騎士の顔にしがみつき、顔や首を猿の爪がひっかいた。軽い負傷だが、赤いオーラが飛散する。
傍らにいたひとりの騎士が、抜き打ちの氷結剣で猿へ斬りつけた。
小さな身体が飛ばされて、地面の上でゴムマリの様に弾む。
木へ転がりついた猿が、するすると樹上まで逃亡を果たした。
「お、降りてこい!」
「ふざけた猿め。殺してやる!」
実害を受けた騎士は、その屈辱もあって樹上へ怒鳴りつけている。
「なんなんだ、あの猿?」
戸惑いの方が大きいソーマと違い、ダグはすでに怒りに染まっていた。
「知るか! なんであろうと騎士を愚弄するとは、許せん!」
貴族出身者ばかりで自尊心が高く、連帯意識の強い第5騎士隊員達は、すぐに怒りを伝播させていた。
とても共感できずにいるソーマは、貴族への隔意を抱くトビアスと視線を交わし、お互いに苦笑を浮かべるのだった。
数名が怒りに任せたまま、猿を追って徒歩のまま追いかけていく。
「待て! まだ任務の途中だぞ!」
たしなめる隊長の言葉に、当事者と友人らしいふたりの騎士が叫び返す。
「ケルベロスを探しに行きます! 空振りだったらすぐ戻りますから!」
「同じく!」
何が目的かは誰の目にも明らかだ。
「おい3班はあいつらを連れ戻してこい! 残りは周囲の警戒だ!」
『はっ!』
3人が属していた3班は共同責任を問われかねないため、急いで追いかける。ほとんどが騎乗者なので、すぐにでも戻ってくるはずだった。
しかし、事態はより悪化してしまう。
「貴様っ! 何をするか!?」
騎士の発した非難の声へ、鈴の音を思わせる涼しげな声が応じた。
「それはこちらが告げるべき言葉だ。なぜ猿を襲う?」
「エルフの知った事ではない! 関係ないのに邪魔をするな!」
事態を察した残りの者達も、慌てて猿を追った1団を追った。
「この森はエルフの住む土地だ。無害な猿を襲う蛮人に、躾をするのは我らの義務と言っていい」
嘆息しながら告げられた言葉に、騎士側はすぐに激昂する。
「蛮人だと!? それは貴様等の方ではないか! それこそ野人のような生活をしていて良く言う!」
「言葉は通じても、会話は理解できないか。恥じる事はない。お前達に知性が足りないのは、お前達の責任ではない」
会話だけが聞こえていた騎士隊の面々も、問題の現場にようやく到着した。
3班が視線を向けた樹上では、青年エルフが騎士隊に向けて弓を構えている。
騎士の足元に突き立っている矢は、彼の放った物だろう。彼がつがえているのは、2本目の矢だ。
死体と違って、命ある状態でもエルフの肌はとても白い。髪も金髪で全体的に色素が薄い印象だ。『トラフロ』に限らず、他の創作物の描写同様、非常に容姿が整っていた。
「礼儀をわきまえない貴様等こそが、蛮人だとなぜわからん! 木の実を食べる生活など、それこそ知恵を持たぬ猿ではないか!」
「我らは自然と共に生きる術を知っているのだ。木々を切り倒し、動物を狩り尽くすヒトという種族は、自らの罪を自覚するがいい」
エルフの告げる言葉は、どこまで言ってもヒトへの侮蔑が混じっていた。
『トラフロ』で遭遇するエルフの『中の人』はほぼ日本人なため、このような意識的な齟齬は生まれない。
どうやら、『この世界』のヒトとエルフには、大きな隔たりが存在するようだ。
「お前達は猿を襲った理由をまだ答えていない。エルフと猿を同列視していたが、それはどちらもヒトが敵意を向ける対象だとする表明か?」
「何を言うかっ! それなら、そっちの猿が先に襲ってきたんだ! ちゃんと躾ておけ!」
腹を立てた騎士の言葉にも、エルフは動じなかった。
「つまらぬ嘘はよせ。猿は人間を襲ったりしない」
「俺達の言葉は信じないくせに、猿は信じるのか!?」
「無論だ。猿は貴様等のように相手を騙そうとはしない」
エルフが守るべき対象は、森の動物や自然であって、人間はそれに含まれないようだ。
会話を聞いていたソーマは、『現代日本』……いや、『現代の地球』を連想していた。
海棲哺乳類の保護を声高に訴えて、特定の民族に侮蔑的な批判を繰り返す事例がある。動物に序列をつけ、異なる文化を否定し、自分たちは公明正大だと信じて疑わない。非常に偏った主張だ。
「サンテリは黙っていろ! エルフとは私が話そう!」
猿に襲われた騎士をたしなめて、隊長が改めてエルフと対峙する。
「そちらの要求を聞こう? 猿を襲った罪で我々を罰しようというのか?」
「森から出て行け。我々がヒトに望むのはそれだけだ」
『この世界』でモンスターと呼ばれる存在に、動物学的な区分は存在しない。そもそも、サボテニアンを含む植物だろうが、ゴーレムのような非生命体であろうが、モンスターに含まれているのだ。
いわゆるモンスターとは、ヒトの目から見た『害獣』を指している。
つまり、エルフ側の視点では、ヒトもまたモンスターに分類されているのだろう。
「ケルベロス討伐という目的を果たすまでは、我々も帰るわけにはいかん」
「この森の周辺にケルベロスは棲息していない。自らを正当化するために、虚偽を述べるのは愚かな選択だ」
「棲息していないのはこちらも理解している。だが、実際に出現し、被害も出ているのだ。否定材料もなく、頭から否定するのは思考の放棄だと思うが?」
「猿を襲った理由も、ケルベロスの説明も、お前達が告げる言葉は信憑性を著しく欠いている。会話するだけ時間の無駄のようだ」
「だったら、あっちの死体はどうなんだ!? あれが何よりの証拠だ!」
ダグが声を張り上がる。隊長が顔をしかめたが、言葉を挟む事はなかった。
「死体だと?」
「お前等の仲間が何かに襲われて死んでるぞ! ケルベロスがいる何よりの証拠だろう!」
怪訝そうに眉をひそめたエルフが、身軽に枝の上を渡って、騎士達が来た道を逆に辿る。先ほど、騎士達から逃げた猿を思わせる身のこなしだった。
騎士達を警戒してか、エルフは枝に立ったまま死体を見下ろす。
「……トビアーシュが獣に襲われたのは確かなようだ」
仲間の名を口にしたエルフは、ヒトへの敵意をいささかも減らしていない。
「これはつまり、お前達の追い立てたケルベロスによって、同胞に犠牲が出たということだな?」
望ましくない追求に、隊長が強く反論する。
「それは言いがかりだ。誰もその場面を見ていないのだからな。それに、我々が追ってきたタイミングを考えれば、時間的にもそれはないと断言できる」
「お前達の言葉に真実が含まれているようには思えない。このまま森にとどまるというのならば、放置するわけにはいかん」
互いに敵意を増していく状況に、ソーマは思わず口を挟んでしまう。
「隊長! エルフと敵対して殺すつもりですか?」
言葉を濁さすことなく、最悪の展開に言及する。
「……そこまでは考えていない。我々の目的はあくまでもケルベロス退治だ」
「このままエルフと言い争うのは時間の無駄です。ここは放っておきましょう。問答無用で襲ってこないのであれば、こちらの目的を行動で示せるはずです。もともと、森を荒らすつもりは無かったわけだし」
エルフをかばっているように感じたのか、数名の騎士が非難の目をソーマに向ける。
隊長は、エルフに視線を向けたまま、相手の意図を代弁する。
「エルフの方で、それを認めるつもりはなさそうだが?」
「こちらに非がないのに、それを理解する知性もなく、感情に任せて襲いかかるようなら、しょせんエルフはその程度だってことです。その時は力ずくで黙らせればいい」
嫌味混じりに牽制したソーマに、当のエルフは不愉快そうな視線を向けてくる。
この際、騎士達を抑えるのが優先で、エルフの好悪の念など無視するしかなかいのだ。
「……仕方あるまい。各班ごとに散開してケルベロスの痕跡を追う事にする」
隊長は、一番多い本隊を5班と6班に分割した上で、受け持ちを割り振った。11時方向が1班、2時方向が3班、4時方向が5班、7時方向を6班となる。
「はぐれる者が出ないよう人数確認は怠るな! ケルベロスを発見したら長音を2連続で呼び笛を鳴らせ。エルフが戦いを仕掛けてきた場合も同様だ。日が沈む前には撤収する。短音の繰り返しで吹いた場合は、この場所に集合した上で撤収。私が緊急事態と判断した場合は、長く吹き続けるため、即時西へ向かって森を脱出しろ」
隊長の指示を、副隊長代理が要約して復唱する。
「ケルベロスやエルフとの交戦時は長音2回。撤収時は短音連続。即時撤退は長音のみ」
『はいっ!』
なんとか戦闘を回避できたと、安堵するソーマ。
だが、この判断は希望的観測に基づいたもので、危険性を極めて甘く見つもったその場しのぎの案だと、彼は思い知ることになる。