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なぜ溺愛してくるのですか

作者: ウノカグラ
掲載日:2026/10/08

 ……眩暈がする。

 王城の大広間を包む、絢爛豪華な楽曲の調べと爛漫たる花々の香り。

 しかし、その中央で繰り広げられていたのは、目を覆いたくなるほど浅はかで不快な茶番劇だった。


「クレア! 私と可憐なマリアの真実の愛を前に、お前のような冷酷で可愛げのない女は不要だ! 今この時をもって、お前との婚約を破棄する!」


 王太子アレス殿下が、己の正義を信じて疑わない朗々とした声で高らかに宣言する。

 そのお隣には、異世界から『聖女』として降臨したという少女──マリアが寄り添っていた。桃色の髪をなびかせ、小動物のような上目遣いでアレス殿下の腕にしがみついている。


 私——伯爵令嬢クレア・ヴァルハイトは、背筋をピンと伸ばしたまま、静かに彼らを見据えていた。

 幼少期から「完璧な王太子妃」となるべく、大好きな甘いものを断ち、大声で笑うことを禁じられ、血の滲むような妃教育に耐え続けてきた。その結末が、この言い草である。

 胸の中に湧き上がったのは、悲しみでも絶望でもない。呆れ果てた失笑と、煮えたぎるほどの怒りだった。


「……承知いたしました、殿下。どうぞお二人で、どこまでもお幸せに」


 ここで取り乱してヒステリーを起こせば、彼らの思うツボだ。

 私は寸分の狂いもない完璧な淑女の礼を執ると、ざわめく大広間へ一切の未練もなく背を向けた。


 ひそひそと囁き交わされる好奇と哀れみの視線が、背中に刺さる。私は誰にも邪魔されないよう、会場の奥にある、月光と夜風だけが満ちる静かなバルコニーへと避難した。


「……はぁぁぁぁぁぁぁ……っ!!」


 深く深く、溜め込んでいた息を吐き出す。周囲に誰の気配もないことを入念に確認してから、私はドレスの裾を少しだけ蹴り上げた。


「やってられないわよ、あの馬鹿王子!! 『冷酷で可愛げがない』!? 誰のせいで毎晩書類の山と格闘して、あいつの尻ぬぐいをしてたと思ってるのよ! 真実の愛ですって? 単に頭の軽い女に甘やかされて、鼻の下伸びてるだけじゃない!!」


 普段の「冷徹な鉄の淑女」の仮面を剥ぎ取り、心ゆくまで罵詈雑言をぶちまけていた——その時だった。


「……実に素晴らしいな。概ね同意だ」


 暗がりから、低く影のある、しかし信じられないほど美しい声が響いた。


 心臓が口から飛び出そうになりながら振り向くと、巨大な大理石の柱の影に、一人の男が佇んでいた。

 輝く銀髪に、凍てつく湖のように澄んだ青い瞳。

 公爵家の嫡男であり、近衛騎士団の最年少隊長——『氷の騎士』と称えられるルシアン・グランヴェール卿だった。


「ル、ルシアン様……!? なぜここに!?」


「居場所を失ったからですよ。クレア様、隠れる場所の選択を間違われましたね。俺が先客です」


 ルシアン様は自嘲気味に口元を歪めると、手にしていたグラスの白ワインを煽った。

 彼ほどの完璧な騎士が、こんなところで一人酒をしているなど異常事態だ。しかし、私はすぐにピンと来た。


「……新しく王太子殿下の腕に引っ付いていた『聖女様』の件かしら」


「ご察しの通りです」


 ルシアン様は深くため息をつき、頭を抱えた。


「俺がこれまで命がけで護衛してきた幼馴染は、今日から王太子殿下のものだそうだ。『ルシアンは頼れるお兄ちゃんだから、これからも私を助けてね!』だそうだ。……正気とは思えん。俺はお前の都合のいいパシリでも、無料の用心棒でもないんだが?」


 いつも無表情で完璧な仕事をこなす「氷の騎士」の口から出たのは、まるで限界社畜の愚痴だった。


 私は扇子で口元を隠し、くすりと笑う。


「あら。聖女様の都合のいい『噛ませ犬』にされたわけですか、ルシアン様」


「手厳しいですね、捨てられ令嬢様。だが、ぐうの音も出ない」


 月明かりの下、私たちは視線を合わせ、どちらからともなく小さな笑い声を漏らした。


 世間からは完璧だと崇められ、裏では身勝手な「物語の主役たち」に都合よく利用されて投げ捨てられた被害者同士。

 私たちの間に、奇妙な連帯感と信頼が生まれた瞬間だった。


「ねえ、ルシアン様」


 私はバルコニーの手すりに肘を預け、夜風に髪を遊ばせながら彼を見た。


「このままあの二人を好き勝手にさせて、私たちは『哀れな敗北者』として笑われっぱなしで満足かしら?」


「まさか。俺だって、あいつらの引き立て役のまま終わるつもりはありませんよ」


 ルシアン様の青い瞳に、肉食獣のような鋭く冷たい光が宿る。


「でしたら、私と同盟を結びませんか?」


「同盟……ですか?」


「ええ。私と貴方で『偽装恋人』になるのです。あの二人以上に幸せそうで、お互いにぞっこんであるように周囲に見せつけるの。そうすれば世間は『実はお似合いの二人が結ばれただけ』と納得し、あの二人はいざ自分たちが捨てられたような気になって勝手に焦り狂うはずだわ」


 私の提案に、ルシアン様は一瞬目を見開いた。しかし次の瞬間、その綺麗な顔を歪めて、なんとも凶悪で魅力的な笑みを浮かべた。


「……実に魅力的だ。思考が、非常に好戦的で素晴らしい」


「褒め言葉として受け取っておきますわ、噛ませ犬様」


「ですが、やるからには徹底的にやりますよ? 生半可な大根演技では、あの自己中心的な二人の肥大化したプライドは打ち砕けません。心底惚れ合っているように見せるため……スキンシップも、甘い言葉も、惜しみなく使わせていただきます」


「……の、望むところですわ!」


 顔が熱くなるのを必死で隠しながら、私は彼に手を差し出した。

 ルシアン様はその手を取ると、手袋越しではなく、わざわざ自分の手袋を外して生肌の手で私の手の甲にそっと唇を寄せた。


「よろしくお願いいたします、俺の新しい……『愛しい人』」


「……っ! はい、よろしく、お願いいたします……!」


 こうして、身勝手な元パートナーたちに地獄を見せるための「偽装カップル同盟」が結成されたのだった。


♢


 翌日から、私たちの「偽装」という名の怒涛の反撃が始まった。


 ルシアン様は毎日のように我が家へ、私の目の色に合わせた大輪の薔薇の花束を届けさせた。

 休日の午後には、王都で最も賑わう高級テラスカフェで堂々とデートをした。


「クレア、口元にクリームがついていますよ」


「えっ、あ、ごめんなさ——んっ!?」


ルシアン様は親指で私の唇の端をそっと撫でると、なんとその指を自分の口元に運んで舐めとったのだ。


「……甘いですね。君と同じだ」


「っ……!?!?!?」


 悲鳴を上げそうになるのを、必死で扇子で顔を隠して耐える。

 周りの令嬢たちから「まあ!」「なんて情熱的なの!」と黄色い悲鳴が上がる。


「ル、ルシアン様! やりすぎですわ! 心臓が止まるかと思いましたのよ!?」


「何をおっしゃいますか。見せつけるための同盟でしょう? ……それに、これくらいで赤くなっていては、この先持ちませんよ」


 耳元に顔を近づけられ、低く囁かれる。


 「氷の騎士」などという二つ名は嘘だ。この男、二人きりになると存外意地悪で、そして恐ろしいほど過保護で甘い。


「クレア、また少し痩せましたね。あの馬鹿王子に無理な書類仕事を押し付けられていた反動でしょう。もっと食べてください。ほら、あーん」


「も、もう! 自分で食べられますわ!……あむ」


「偉いですね。美味しいですか?」


「……美味しいです」


 満足そうに目を細める彼を見て、胸がドキンと跳ね上がる。


 アレスは私を「完璧で当たり前の都合のいい道具」としてしか見ていなかった。しかしルシアン様は、私の些細な変化に気づき、私の努力を正当に評価し、一人の女性として大切に扱ってくれる。


「ルシアン様こそ……昨夜は聖女様の『夜間に魔物の気配がして怖い』という我儘で駆り出されたのでしょう? 目の下にうっすら隈がありますわ。はい、リラックス効果のあるハーブティーです」


「……君は、本当に目ざといですね。そして、優しい」


 ふっと柔らかく、花がほころぶように笑うルシアン様。


(ダメよ、クレア。勘違いしちゃダメ。これは全部、あの二人を見返すための『演技』なんだから……!)


 必死に自分へ言い聞かせるが、彼と過ごす時間は、私のこれまでの18年間の人生の中で、間違いなく一番あたたかく、愛おしいものになっていた。


 一方のルシアン様が、私を見る青い瞳に宿る熱量を、日増しに隠さなくなってきていることに——当時の私は、まだ気づいていなかった。


♢


 同盟を結んで一ヶ月。ついに、最大の決戦場となる「国王陛下主催の夜会」がやってきた。


 大広間の扉が開いた瞬間、会場中の視線が私たちに集まった。

 深紅のドレスを纏った私と、私のドレスに合わせた赤い宝石を胸元に光らせたルシアン様。彼は私をエスコートし、まるで世界で一番大切な宝物を扱うかのように優しく手を添えている。


「まあ、グランヴェール卿とヴァルハイト令嬢……!」


「なんて絵になるお二人なの。アレス殿下といた頃のクレア様より、ずっと誇り高く美しく見えるわ」


「ええ、本当の愛を見つけられたのね」


 会場に感嘆の声が満ちる中、顔を真っ青にして近づいてくる二つの影があった。


 アレス殿下と、聖女マリアだ。


「クレア……! お前、ルシアンとどういうつもりだ!?」


 アレス殿下が激昂し、私の腕を掴もうと手を伸ばす。しかしその手は、割り込んできたルシアン様の鋼のような手によって素早く叩き落とされた。


「殿下。俺の『連れ』に不躾に触れないでいただきたい」


「ルシアン! お前、私の護衛のくせに何をしているんだ! クレアは私と婚約破棄されて、当てつけでお前をたぶらかしているだけだぞ!」


 さらに、マリアもボロボロと涙をこぼしながらルシアン様にすがりつこうとした。


「ルシアン、ひどいよ! 私を一番に守ってくれるって言ったじゃない! 私を置いて、そんな冷たくて意地悪な女のところに行くなんてずるいよ!」


 あまりの身勝手さと頭の悪さに、私は呆れて深く溜息をついた。

 自分たちから捨てたくせに、いざ手放したものが他人の手で眩しく輝き出すと、急に自分の所有物が奪われた気になって焦り散らかしているのだ。実に滑稽である。


「殿下、並びに聖女様」


 私はルシアン様の腕にそっと手を添え、凛とした声で言い放った。


「私どもは、お互いに真実の愛を見つけただけにございます。殿下方がそうであったように、私とルシアン様もまた、惹かれ合う情熱を止められなかったのですわ。……私を雑に扱う方との虚飾の婚姻より、私を世界一愛してくれる方との絆の方が、100倍誇らしいですから」


「なっ……! ざ、雑になど……!」


 言葉に詰まるアレス殿下。そしてルシアン様が、すがりついてくるマリアを氷のように冷ややかな眼光で見下ろした。


「マリア。俺はお前の便利な使い走りでも、都合のいい兄でもない。俺が守るべき人間は、後にも先にもクレアただ一人だ」


「っ……ルシアン、そんな冷たい目で見ないでよ……!」


「これ以上、俺の『唯一の特別』であるクレアに不快な思いをさせるなら……騎士団を辞し、グランヴェール公爵家の全力を以て、貴方方と全面対決いたします」


「ひっ……!?」


 公爵家の本気の圧力を叩きつけられ、マリアは悲鳴を上げてアレス殿下の陰に隠れた。アレス殿下も顔を真っ白にして震え上がり、二人は逃げるように人混みの中へと消えていった。


 会場からは、清々しい空気と共に、私たちへの盛大な拍手が巻き起こったのだった。


♢


 夜会が終わり、馬車で帰路につく。

 ガタゴトと揺れる車内は、二人きりの静寂に包まれていた。


「……凄かったですね、ルシアン様。あの二人、最後は青い顔をして逃げ出していきましたわ」


 私が窓の外を眺めながら誇らしげに笑ってみせると、ルシアン様は向かいの席で黙ったまま、じっと私を見つめていた。


「……クレア」


「はい?」


「これで、目的は完全に達成されましたね。あの二人はもう二度と、俺たちに干渉してこないでしょう」


「……ええ。そうですわね」


 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。

 目的は果たされた。復讐も成功した。……つまり、私たちの「偽装カップル同盟」は、ここでおしまいということだ。


「これまで、私のおふざけに付き合ってくださってありがとうございました。ルシアン様のおかげで、最高に気持ちがいいですわ。明日からはまた、ただの友人として——」


「嫌です」


 低く、しかし固い拒絶の言葉が車内に響いた。


「え……?」


「嫌です。同盟を解消するつもりは毛頭ありません」


 ルシアン様は立ち上がると、私の隣に腰掛け、逃がさないように私の両手を力強く握りしめた。手袋越しではない、彼の素肌の温もりがダイレクトに伝わってくる。


「最初は確かに、あの二人を見返すための偽装でした。ですが……クレア、俺がどれほど本気で君を愛おしいと思っていたか、気づいていなかったのですか?」


「え、あ、でも、甘い言葉もスキンシップも、全部練習で……」


「嘘に決まっているでしょう。好きでもない女性に、あんな顔をしてクリームを舐めたり『あーん』なんてすると思っているのですか?」


「へ……!?」


 ルシアン様は呆れたように笑うと、私の手の甲、そして指先へと、熱いキスを落としていった。


「君の気高さに、強さに、そして二人きりの時に見せる愛らしい素顔に……俺はとっくに救われ、魅了されていた。クレア、俺はもう、君を誰にも渡したくない。偽装なんかじゃない……俺の本当の婚約者になってくれませんか?」


 真っ直ぐに見つめてくる青い瞳には、一切の迷いも偽りもなかった。

 私の胸の中にあった不安や諦めが一気に溶けて消え、あたたかな愛しさが溢れ出す。


「……ずるいですわ、ルシアン様。そんな顔で言われたら、断れるはずがありません」


 私は彼の胸に顔を埋め、そっと笑った。


「喜んで。私のヒーロー様」


 噛ませ犬と捨てられ令嬢の偽装同盟は、これにて無事に解散。


 そして今夜から、世界で一番幸せな二人の、本物の恋が始まるのだ。

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