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おやすみアリス、よい夢を

作者: 青星 雫
掲載日:2026/06/18

 黒々とした穴があった。人工の穴だ。暗がりに、ぽつりぽつりと油灯がともされている。とてもとても普通の人間なら心地いいとは思えない場所であった。湿って黴と鉄の臭いがしている。そんな穴に一人の男が転がされていた。


 ここは王城の地下牢だ。


 男は、気が滅入るような闇の中、石と土を穿った地下牢の空気を胸に吸い込んでみた。()えている。やはり好んでは嗅ぎたくない臭気だ。


 廊下に面した扉は鉄板と樫板を重ね合わせた頑丈なものだ。ふと、その扉の外で空気が揺れて生じた微細な風を感じ取った。男は目を(すが)めて、呼びもしない来訪者が扉を開けるのを淡々と眺めていた。


 看守が鉄鍵で錠前を開けた。キイ、と蝶番が油不足を訴えるように軋むと、廊下からの光が牢の中にも射し込んできた。


「もし。あなたが海の向こうからのお客人だとか」


 声が聞こえた。若い女の声だ。娘の話す言葉はむろん男の知っている言語ではあった。だが、男の故郷のものとは(なま)りがやや異なる。しかしまあ、物は言い様だ。これが客人に対する扱いか。


 とにかく、男は土埃にまみれた半身を起こして娘を見た。


 けぶるような薄闇で、はっ、と娘が息を呑んだ気配があった。が、すぐその動揺を隠すように落ち着き払った声で娘は言った。


「あなたと交渉をしにきました」


「なんの、だろうか」


 ひび割れた唇で男は問い返した。ろくに水を飲んでいないので、いつもの朗々たる美声は、今は張りがない。


「私はアリスブルー・ドロッセル。このシュテルネル王国の魔法使いです」


「魔法使い?」


「ええ」


 魔法使いだと名乗ったアリスブルーという娘は、こくりとうなずいた。銀の手燭にぼうっと照らされた横顔は若々しいが、どこか憔悴していて、いやに蒼白い。


「その魔法使い様が、おれに一体何の用かな」


「頼みがあるのです。私の願いを叶えていただきたい」


「……願い?」


「一週間後、新年の暁に亡び星が降ってきます。私は命を引き換えにした結界魔法で、その亡び星の災厄から人々を守らねばならないのです」


「隕石衝突、というわけか」


「ええ。それであなたには、私の死後、私の後継たる『英雄』として、遺産を相続していただきたいのです。……よろしいでしょうか?」


「アリスブルー嬢、死ぬのか」


「はい」


 アリスブルーは短く返答した。


「……ここから出してくれるのだろうな?」


「もちろんです」


 男は鎖国中のシュテルネルの異邦人として、明日には処刑を待つ身だったのである。


「今さら大真面目に英雄様をやれ、か……」


「今さら?」


 顔に影が差して窺い知れなかったのだろう。アリスブルーに訊かれて、男は軽く息をついた。


「あ、いや、もう若くはないさ。四十だよ」


 アリスブルーは目をぱちくりとさせた。


「おじさんでも、きっと英雄になれますよ」


「そうだろうか」


「そうです」


 と、またうなずいたアリスブルーである。


「では改めて『英雄様』、あなたのお名前は?」


「ラウル」

 

「ラウルさん、どうやって海を越えてシュテルネルに?」


「なに、飛んできたさ」


 ♢


 青い星が悪魔の尾をひいて、一直線にこちらめがけて落っこちてくる。


 毎晩、星が降ってくる夢を見る。繰り返し見る夢は、きっと自分の最期に見る光景だ。


「うーん、やな目覚めですね、ほんと」


 アリスブルーは今年二十。天涯孤独の身だ。眠い顔をしかめて一声唸る。アンティークといえば聞こえのいいチェスナットの寝台は、この王都郊外の中古屋敷を安値で買い取ったときに屋敷に放置されていたもの。アリスブルーは薄っぺらい寝具からもぞもぞと這い出た。


 現在時刻は朝七時。さて、湯が沸いた。しゅんしゅん、と音と湯気を立てるケトルを焜炉から下ろして、アリスブルーはガラス製のティーポットにそろそろと注いだ。


 アリスブルーの一日はミルクティーのカップ片手に新聞を読むことから始まる。お気に入りの南半島産香料茶葉がガラスポットの中で舞踏する間、一面を飾るニュースにざっと目を通す。


『南海岸に不法入国者が漂着。身柄を調査し工作員と断定。王国司法大臣が死刑を承認。』


 ちょうど、三分を計る砂時計が落ちきって頃合いを示す。ガラスポットの中は、窓のレースカーテンからこぼれる陽光の雫を浴びた美しい琥珀で満たされていた。アリスブルーは金で縁取られた揃いのガラスカップにポットの中身を入れて、牛乳も少し足した。ミルクティーを淹れるには紅茶が先か牛乳が先か、という論争があるが、アリスブルーは特にこだわらない。手元に近い方を先に注ぐだけだ。


 アリスブルーは溜め息をついた。すっかり呆れ果てているのだ。


「この死刑囚、まさか『死の海』を越えてきたのでしょうか。だとしたらとんでもない超希少人材では。そんなすごい方をみすみす殺すなんて、政府はおバカさんなのでしょうか? いえ、訂正しましょうか。はっきりとおバカさんですね」


 これは独り言だから許されるが、王国政府の関係者が聞いたらアリスブルーは不敬罪でしょっぴかれること間違いなしだろう。


 アリスブルーはミルクティーを一口含んだ。香料のバニラがふわりと口の中で甘く薫り、砂糖も入れていないのにスイーツを食べている錯覚に陥る。アリスブルーは満足げに目を細めた。


「うん、よし、この死刑囚さんを助けましょう」


 アリスブルーは死刑囚が拘留されているだろう、王城の一角にある政治犯専用の留置所を訪ねることにしたのだった。アリスブルーなら死刑囚を助けられる、という確信があったからだ。


 こうして、アリスブルーは一人で出かけ、二人で帰宅することになった。


 死刑囚を生きたまま連れ帰るには、やはり手間がかかった。なにせ、王国司法省への交渉である。ひとたび大臣の判子が捺された囚人を生き返らせようというのだから、それなりの説得材料が必要だった。アリスブルーは、これはコネをふんだんに使った。


 ニコラ・シュヴァーンという貴族の青年がいる。彼こそは、本来であればアリスブルーと同時に結界魔法を展開しアリスブルーと共に死ぬはずであった人間だ。というのは、アリスブルーより優秀な、いや、この国で一番優秀な魔法使いの栄誉たる王国白銀勲章の持ち主である彼なのだが、彼は今回の「作戦」を辞退した。というより、辞退せざるを得なかった。


 それは、ニコラ青年が優秀すぎたからというのが理由として一つ。彼が提唱した「自律攻撃を行う魔法微生物の作物免疫システム転用について」の論文は、この鎖国中のシュテルネル王国の作物生産体制に大きく貢献し、彼なしでは国民の胃袋を養えなくなってしまった。


 つまり、国からいなくなってはいけない人物なのである。人間でありながら国宝の彼は、圧倒的にアリスブルーより生きるべきだった。多少なりとも彼より結界魔法に長じているだけの小娘がそれはもう生贄に選ばれるわけである。


 そして、理由はもう一つ。孤児のアリスブルーと違って、ニコラ青年には彼を案じる大切な家族がいた。亡び星から民を守って死ねば王国史に刻まれる英雄となれるが、それを家族に猛反対されたのだ。家族の懇願もあって、彼は「作戦」の志願を取り下げた。


 結果として王国の人身御供として華々しく命を散らす「英雄様」はアリスブルー一人で担うことになった。


 だからこそ、ニコラ青年には多大な貸しがあった。だって、こいつが抜けた穴のせいでアリスブルーは確実に死ぬわけだし。


 というわけで、彼にこれこれこうこうと話をして、即日で死刑囚を釈放するよう司法省に交渉してもらったのだ。これもまったく皮肉なことに、息子思いな彼の実家は建国時代からある公爵家。その大事な大事な嫡男である彼の鶴の一声は、あっという間に通例なら一切あり得ぬ死者蘇生を可能にしてみせた。まあ、まだ死んでいないけれど。


 話を戻そう。死刑囚ラウルは、本人が四十と言っていた通り、目元に小皺が若干あるし、黒い頭髪には白いものが混じり始めた初老の男だ。でも、身体は見惚れるほどに逞しく、背筋はしゃんとしている。


 それに、もっと若い頃なら年頃の女の子がコロッとやられそうなそれはそれは甘い顔をしている。今こそ雨樋のガーゴイルのようなしかめ面をしているが、笑うときっと一面薔薇が咲いたようになるのだろう。


 とにかく、今日からアリスブルーの終の棲家たる王都シュテル郊外の街ロザリットのお屋敷でラウルと短い同居生活を送るわけだが。もちろん、拾ったペットは最後まで責任をもって飼いましょう、ということで、このシュテルネル王国に来たばかりの生まれたてヒヨコさんにも等しいラウルを、きちんとアリスブルーが面倒を見る必要があるのだ。


 言い方は悪いが、おじさんがペットになったようなものだ。何がどうなったらこうなる。死刑囚を助けたらこうなる。


 ♢


 郊外の街ロザリットのお屋敷は、街の中心部からも外れた閑静な丘の上に忽然とある。眺めがよくてアリスブルーはとても気に入っている。星を見るときなんて、それはもう最高の立地だった。


 だが、今はお昼時だ。お昼時ということは。


「ラウルさん、つまりですね、お腹が空いたのです」


 ラウルがゆっくり腕を組んでこちらをじろりと見た。


「なに、おれに作れと?」


「命を助けたからには、その恩を返す義務があると私は思います」


「それはまあ、分かった」


 ラウルは食品棚をちらりと見て、それから目を閉じて首を横に振った。


「お嬢さん、肝心の食材が見当たらないのだが」


「ええ、確か冷蔵庫も空でした。そこになければ、買わないとありませんね」


 アリスブルーはこのところ食欲が湧かず、買い出しも渋るような状況だった。ミルクティーくらいしかろくに口にしていないのでは。


「お嬢さんが(かすみ)を主食とする奇特な人間でないのなら買いに行かねばならないが……金は?」


「ああ、お金でしたら、国王陛下から賜った褒賞金という名の生前贈与された香典がたんまりとあるのです。来たるXデーに向けて、このお金で悔いのないよう贅沢三昧しろとのありがたいお達しなのです。まあ、このお金を受け取ったからには私は逃げられないというわけですね」


 ちなみに……とアリスブルーは付け加える。


「残ったお金は全額あなたに遺します。相続税を差し引いても、生涯遊んで暮らせるほどの財産であることに間違いありません」


 ラウルは視線を床に敷かれたシルク絨毯の葡萄蔦模様に落とした。


「それはまあ……、今は考えないでおこう」


 ところで、アリスブルーは眉をひそめた。鼻をつままなかったのはせめてもの情けだ。


「そもそもラウルさん。このままでは食事どころではないと考えます。あなたが『ただのおじさん』ならともかく、今は『(かぐわ)しいおじさん』です。とっても素敵な形容詞がついてきますね。さ、まずはお風呂に入ってください。何日入っていないのですか」


「十日」


「本当に言わなくても構わなかったのですが。確かに聞きましたけれど、聞きたくありませんでした」


 アリスブルーはもう一つのことに気づいて、それもラウルに尋ねた。


「ラウルさん、服はどうなさいましたか? 荷物はきちんと返してもらったのですよね?」


「穴が開くほど調べられたがな。司法省の局員が、結局怪しいものは何も見つからなかった、と、こっきり諦めて全部返却してきた」


「それはよかったです。初対面の男性に生まれたままのお姿になられても困ります。お風呂は廊下の突き当たりにございます。タオルは適当にお使いください。……さあ」


 湯上がりのラウルは、濡れ髪をタオルで無造作に拭いながら、勝手に冷蔵庫から取り出した水出しの紅茶を優雅に飲み始めた始末。ごくん、と嚥下した瞬間、喉仏が上下したのが妙に色っぽいが、おじさんはおじさんである。鍛えられた胸元がシャツの隙間から覗いていて、それも色気を増幅させていた。


「……うまいな、この紅茶」


 すっかり飲み干したラウルが軽く目を見張っている。


「私、紅茶を淹れることだけは天才的に上手いと自負がございます。料理は……お任せいたします」


 きちんと水出し用の茶葉を専用で用意しているくらいだ。紅茶はアリスブルーの少ない趣味の一つだった。


「素直でいいな」


 ラウルが微笑した。やはり笑うと五歳は若く見える。瑠璃色の目元が和らいで、目尻にちょっと皺が寄って、かなりチャーミングだ。


「紅茶派ですか」


「ああ」


「それは気が合いますね。珈琲はお客様用に一種類しかおいていなくて」


 話がいささか逸れた。ラウルの首にかかっている使い古されくたびれたタオルをアリスブルーは哀れむようにひとしきり眺め、こほん、と小さく咳払いする。


「ところで、そのタオル。実は雑巾がわりにしていたものなのです。ですがまあ、しっかり洗濯はしておりましたので、悪しからず」


「そうか……、雑巾だったか……」


 逞しい長身をすくめてがくりとうなだれたラウルを横目に、アリスブルーはちらと柱時計を見た。針はきっかり十二時を指している。ぐう、と腹時計も正確に鳴る。ラウルに爆音を聞かれた。これは恥ずかしい。


「普段はきちんと食べているのか、お嬢さん」


「実際、主食は霞という奇特な人間でして」


「そうか。まあ、そうなんだろうな」


「私が死ぬからという理由で気兼ねするのはおやめくださいね」


 ラウルは軽くうつむいた。


「……失礼した」


 そこに落ちた気まずい沈黙を振り払うように、アリスブルーはこう提案した。


「この時間ですから、今から作るのはやめて、街へ食べに行きませんか。もちろん私が代金をお支払いいたします。そもそもあなた、この国の通貨を持っていないとお聞きしています。……ああ、そうですね、あとでお小遣いをお渡しいたしますかね」


 ラウルはつい先ほどまで無精髭が生えていた、今はすっきりした形のいい顎をさすった。


「ふむ、それは助かる。実に三日ぶりの食事だ」


「なるほど、それはお可哀想に。三日前は何をお召し上がりになったのですか」


「水で練って焼いた小麦粉」


「パン、ですね。別に工程を丁寧におっしゃらなくたって、いいのですよ?」


「料理が不得意なアリスブルー女史におかれては、工程を説明しないと失礼かと思ってな」


 アリスブルーはぎこちなく微笑んだ。


「断食、四日目にいたしましょうか」


 ♢


「久しぶりの肉はいいですね。身体に染み渡ります。肉はストレス軽減にいいのだとか。……それはさておきまして、私ほどの天才にかかれば、結界魔法を張る以外の方法で亡び星から王国を救う手立ても用意できるのです」


 と、アリスブルーはフォークでメインディッシュの仔牛フィレを掬い上げながら言った。ここはロザリットの街の中心部にある高級レストラン。そして防音魔法が施された個室だ。


「というと?」


 向かいの席で合鴨のコンフィを堪能していたラウルは、小首を傾げてアリスブルーの続く言葉を待った。肉をじっくり咀嚼したあと、アリスブルーは説明した。


「……それはですね、魔剣です。なんと私、王国に黙ってこっそり魔剣を鍛造いたしまして」


「魔剣?」


「はい。一度の使い切りではございますが、降ってくる亡び星をそのまま吸い込んでしまえるという業物です」


「ほう。隕石を四次元の結界空間に吸い込んで、落下衝撃をなかったことにできる……と」


「その通りです」


 アリスブルーがもう一切れフィレを口に放り込んだのを見てから、ラウルは独りごちるように呟く。


「もしや、それがアリスブルー嬢の遺産か」


「ええ、ご明察です」


「その魔剣を使って生き残ることはしないのだな」


 アリスブルーは微笑みを唇に乗せた。なんというか、このしかめ面の美丈夫はどこまでも優しい。


「はい、そのつもりです。つまり、次の百年後の人々が私ほどの結界を張れるとは限らないので。となると、次の世代には必ず魔剣を残しておく必要があります」


「ああ、そうなるな。だが、もう一振りは作れないのか? 一本を使って、もう一本を次代に残す、とか」


「それも無理でした。これは一点ものなのです」


「なぜ?」


「魔剣の材料、一体何だと思いますか」


 ラウルは訊かれて、数瞬考えた。が、すぐに彼の目には理解の閃きが浮かんだ。


「……百年前の隕鉄」


「正解です。……そう。強度や耐久性、魔力親和性の問題から、まったく同じ材質から作るのが最適だと判断したのです」


「なるほどな。争いの火種になるな、これは」


「そうなのです。私の死後、これを手にした人物こそが救世主になれる。いかにもまずい状況です」


「それで、この王国にまったく関わりないおれに魔剣を託す、と」


「あなたには海渡りの能力がありますよね? いざとなれば、あなたの故郷にこれを持って隠れてください」


 アリスブルーは先々のことまで考えて、この方法しかない、と結論を出したのだった。


「おれはきみの前に都合よく現れた救世主、というわけか」


「そうです。私の打った魔剣スイトールちゃんを、あなたに託します」


「命名センス、どうにかならなかったのか?」


「私の命名センスがおかしいとおっしゃるのですかー? ぶーぶー」


 アリスブルーが唇を小さく尖らせていると。


「……いや。悪くないよ。きみが真剣に考えたのだから」


 ラウルは諦めたように微苦笑してかぶりを振った。出会ってから数時間しか経っていないが、ラウルはどことなく陰のある表情をする。今はまさにそのときだった。おそらく、アリスブルーがわざと魔剣にふざけた名前をつけた意味を悟ったのだろう。……遺すものがこれくらい莫迦莫迦しい名前でないと、全部が全部、悲劇になってしまうから。


「……ところで」


 アリスブルーは湿っぽい空気を払拭しようと無理やり話を転じた。行儀悪く銀のナイフをくるくると器用に回して弄んでいる。


「どうした、アリスブルー嬢」


 ラウルは空になったコンフィの皿の上に落としていた視線を上げて、アリスブルーを見た。アリスブルーはナイフの切先をラウルにびしりと向ける。


「その、『アリスブルー嬢』という呼び方です」


「それがどうした。何か問題でもあると?」


 ラウルが秀麗な顔を怪訝な表情にさせた。アリスブルーはナイフを下ろしてから続ける。


「私のことは『アリス』と愛称で構いません。今日から一週間、れっきとした同居人なのですから。このまま他人行儀でいられるのは、正直重い」


「そうか。……アリス」


 ラウルがまた薔薇の蕾がほころぶように微笑んだ。低音の弦楽器のようなのびやかで凛々しい声色だ。その声で名前を一呼びされるだけで、なんだか胸の中に飴玉が転がったような思いがする。


「その……、破壊力が凄いですね、おじさんなのに」


「破壊力?」


 ラウルが筆で描いたような眉をやや跳ね上げた。


「いえ、なんでもありません。この天然人たらし」


 アリスブルーは表情を隠すように炭酸水のグラスを引っ掴んで一息に残りを飲み干した。するとラウルは何か確信したのか、にやりと笑う。


「……アリス」


 いい声だ。とてもいい声だ。喉奥で唸るような美低音だ。


「気安く呼ぶなっ」


 軽く叫びかけてから、アリスブルーは口角を思い切り下げて言う。


「亡び星が降るまであと一週間です。スイトールちゃんは庭の金木犀の木の下に埋めてあります。あなたにはそれを持ってあなたの故郷でもどこへでも逃げていただきます」


「……承知した」


 ラウルはふざけた表情を消すと、白ワインのグラスをゆるりと傾けながら真剣な思案顔になる。


「きみは、座標を変えようとは思わなかったのか」


「……座標?」


 アリスブルーはラウルが何を言いたいのか分からず、眉をひそめた。


「いや……、なんでもないさ」


 ラウルは目を閉じ、ワインを一口含んでから、何か気怠げな溜め息を漏らした。


 ♢

 

 やけになって飲みすぎた。アリスブルーは若干ふらついておぼつかない足取りで屋敷に戻った。ラウルの肩を借りてようやく辿り着いた、の間違いかもしれなかった。酒精(アルコール)でふやけた視界にラウルの困惑顔がぼんやり映る。


「アリス。……アリス!」


「ふぁい、なんれすかー?」


 肩を数度揺すられる。


「おいっ、しっかりしろ、アリス! 今晩のうちにスイトールちゃんを掘り出すと言ったのはきみだろう?」


 そこでアリスブルーは冷水を浴びせられたようにぴしゃりと正気に戻った。


「はっ! ……そうらった」


 ここです、とアリスブルーは庭園の芝生の中心に伸びているシンボルツリーを指さした。


「この金木犀の木の根元に埋めてあるのです、ふぁい」


 甘い匂いを放つ黄金の花をつける秋の季節もとうに終わり、今はもう大晦日を間近にしている。深緑の葉を残すだけになった常緑樹はそこにぽつんと聳えていた。


 スコップで掘り出すだけの単純な作業だったが、かなり深く埋めてあったので、掘りだすのは一苦労だ。それでも膂力と体力ともに勝るラウルが酔っ払って役に立たないアリスブルーの指示に従い三十分ほど掘り進めると、金属製の細長い箱が出てきた。流石に剣を一振り容れてあるからか、箱はずしりと重い手ごたえがある。拾い上げたラウルがつい蓋を開けようとすると。


「箱はまだ、開けないでくださいねー」


 中身を取り出して確認したくなる衝動を抑え、ラウルは箱を地面にいったん下ろした。


──そのとき。


「なあ、アリス」


「なんですぅ?」


「庭を取り囲む十人の気配は、きみのお友達か?」


「……え?」


 突然ラウルが何を言い出すのか分からずアリスブルーはきょとんとした。すると、ラウルの言った通り十人の男たちが庭園にずかずかと足を踏み入れてくるではないか。アリスブルーはそこに既知の顔を認めた。


「あ、ニコラ師だ」


「誰だ、そいつは」


「ええと……」


 だが、アリスブルーが説明する前に本人が男たちを代表して一番前に進み出て自己紹介してくれた。


「元死刑囚。いや、ラウルとかいったな。ぼくはニコラ・シュヴァーン。シュヴァーン公爵家嫡男にして、王国魔法師の名誉に与る者」


 男たちのただならぬ剣呑な雰囲気にやや殺気立ったラウルが、すうっと目を細めた。


「その魔法師が、一体何の用だ」


 ラウルにすごまれただけで、蛇に睨まれた蛙のごとく男たちの何人かは怯えた顔で身じろぎした。だが、ニコラは動じた様子もなく、額に落ちてきた金の前髪を片手でなでつける仕草をした。


「そこのアリスブルー師に用がある」


 ラウルが物問いたげな表情を浮かべてアリスブルーを振り向いた。そこで、すっかり酔いが醒めてしまったアリスブルーはラウルの一歩前に歩み出た。


「なんでしょう、ニコラ師」


「端的に言おう──きみを捕らえに来た」


 ニコラの背後の男たちが魔力封じの枷を手にして、素早くアリスブルーの拘束にかかろうと身構えた。アリスブルーは特に抵抗はしなかった。こうなることを見越していたのだから。何しろ、今のアリスブルーの目的はもちろん、交渉するふりをして時間を稼ぐことだ。


「暴れないのだな」


 と、ニコラがアリスブルーの思考をなぞったように似たことを言った。


「今さら暴れたところで見苦しいでしょう。……はいはい、きちんと防御結界のありがたいお役目を果たして死にますよ」


 アリスブルーが自嘲交じりに呟けば。


「すまない、アリスブルー師」


 ニコラがうつむきがちに表情を翳らせた。


「ぼくは最後まできみと共に死ぬつもりでいた。が、国と家族に反対された。きみが(みなし)()であることをよしとして」


「なめるなよ」


 謝るニコラに対し、アリスブルーははっきりと怒気をあらわにした。はっ、とニコラが顔を上げた。


「私が死ぬのは孤児だからではありません。国を守るためです。断じて、私の持って生まれた境遇からではない」


 相手が世襲貴族の公爵令息だからとかは吹っ飛んで、アリスブルーは言いたいことを言った。どうせ一週間後には死ぬのだから、この際、言うべきことは言っておくべきだった。


「……そう、だな。失礼を言った。すまない」


 と、ニコラは困ったように微笑ともつかないわずかなものを唇に乗せた。


「分かっていただければいいのです」


 アリスブルーも微笑み返すと、ニコラは人が変わったように冷酷な表情になった。


「きみを捕縛するのはそれとは別件だ」


「え」


「あの遺物。きみが百年前の亡び星の欠片を盗み出したな」


「それは……」


 むろんニコラにその隕鉄から魔剣を作成したなど何も伝えていなかった。アリスブルーが返答に窮していると。


「遺物をどこにやった、アリスブルー師」


 背後のラウルが黙っていてくれたのが幸いした。……気づかれるな。今ここに魔剣があることを。


「知りません。たとえ、知っていたとしても死ぬまであなたに教えることはありません」


 毅然として答えるアリスブルーに、ニコラは前髪をくしゃりと片手で乱して溜め息をついた。


「はあ、そうだよな。教えるわけないよな。そして、窃盗容疑のあるきみを、たとえ一週間後に命を落とすとしても、野放しにしてはおけない」


「そうですか」


「……ちなみに、元死刑囚の足元にあるその箱は?」


 やはり気になったか。アリスブルーは背筋を凍らせた。


「ラウルさん」


 もうだめだ。アリスブルーは振り向かずにラウルに声をかけた。……が、返事の代わりにあったのはラウルの苛立ちをはらんだ声だった。


「おまえら、さっきから聞いていればなんだ。おまえらがのんきにおままごとしている間に、アリスが何をしてきたかも知らず。……バカか。いや、訂正しよう。バカどもが」


「国家魔法師をバカ呼ばわりだと!? ……というより、彼女を『アリス』と呼ぶな!!」


「あなたに『アリス』呼びを許していたのは、もう昔のことです。はっきり言います。あなたとの関係は、もう終わったことです」


 と、アリスブルーは冷静にニコラを突っ込んだ。次の瞬間、ぱっとニコラが顔を赤らめた。


「……もういい! おまえたち二人とも捕縛する!」


 ニコラが手を上げて、今度こそ男たちが一斉に拘束にかかった。


「ラウルさんっ!!」


 今度こそアリスブルーはラウルの方を振り返った。途端、アリスブルーの目に映ったのは、青い線で構成された見たこともない魔法陣。それがひとたび燐光すると、ラウルがいたはずの空間には、もう誰もいなかった。魔剣の箱も当然消え失せている。


「……消えた!? ここ一帯に魔法行使阻害をかけていたはずだぞ!! それを破るなんて……」


 ニコラが狼狽えているのもそうだが、アリスブルーも困惑していた。


「あの人、一番最初から阻害魔法の逆位相魔法を使っていたってこと……!?」


「どういうことだ。あの男には逃亡防止の阻害をかけていたが、それを最初から無効化していたと?」


「え、ええ……。原理としては、ある音に対して逆位相の音をぶつけて相殺するのと同じではあるけれど……」


 アリスブルーはニコラと顔を見合わせた。


「アリスブルー師」


「なんですか」


「今だから言う。今でもきみのことが好きだ」


「死ね」


 ♢

 

「……やめよう、こんな莫迦莫迦しいこと。最初から、きみを捕らえる気は欠片もなかったさ」


 ふいに、ニコラがぽつりとこぼして、男たちは最初から示し合わせていたようにアリスブルーから二歩、三歩、と離れていく。突然自由になったアリスブルーは、ぱちりとまばたきした。


「ぼくはついに完成させた。かわいい善玉酵母たちだ。ぼくの後世に残したい最高傑作。それが、完成したんだ。今になってようやく間に合った。だいぶ遅すぎたけどね。……まあいい。で、だから、きみの代わりに死んだっていい」


 ぽつり、ぽつり、と語るニコラ。もちろん彼の研究、自律攻撃を行う作物免疫システムだ。


「いや、酵母が悲しむでしょう」


「きみは悲しまないのかい!?」


 ニコラが焦った顔になり、アリスブルーは小さく笑声をあげた。


「ふふ、バカですね、あなた」


 ばつの悪そうに溜め息をついて、ニコラはまた額に落ちかかった前髪を軽く掻いた。


「きみが、亡び星の欠片──隕石を何のために盗んだかはおおよそ予想がついている。今回の災厄の対処法を研究するためだろう?」


「あら、分かっていらっしゃるではないですか」


「アリスブルー師。ここで、交渉だ」


 ニコラは改めて姿勢を正した。


「きみを逃がす代わりに、その隕石の使い道を教えてほしいんだ」


 数瞬アリスブルーは考えたあと、ニコラの言う通りにした。というのも、ここで魔剣の存在について言わなければニコラがアリスブルーの代わりに死んでしまうだけなのが明白だったからだ。


「……分かった。……実はね、魔剣に使ったのです。四次元結界剣スイトールちゃん」


 またニコラの苦笑っぽい溜め息が聞こえてきた。


「まったくきみは。そんなことだろうと思っていたさ。やはりきみは天才だ」


「名前の通り、隕石を吸い込んでしまえる剣なのです。これを使えば、百年後の人が助かる。一度きりしか使えないものだから、私はこれを使えないというわけで。だから、百年後の人に託して、私は死ぬ」


「それであの男に……」


 と、ニコラが独りごちた。明らかに不満そうである。一つ、かぶりを振ってから、ニコラは話を続けた。


「つまりだ、きみは矛盾したことを言っているな」


 アリスブルーはニコラの緑の瞳を見た。ニコラもアリスブルーの視線に焦点を結んだ。


「その魔剣で回収した隕鉄を使って同じものを作れる可能性があるわけだ。すなわち、魔剣を使って生き残り、かつ百年後に魔剣を託せる道だ。だがきみは、そうはしないで、ただ死のうとしている。……それはなぜか。きみと付き合いの長いぼくだ、当然分かる」


「その付き合い長いアピールやめてくれませんかね。……それで?」


「きみは、王家の手に魔剣が渡ることを恐れているんだ」


「……ちっ。正解です」


 苦虫を噛み潰したような顔をアリスブルーは隠しもしなかった。


「今、舌打ちしたよね!?」


 と、ニコラの弱い悲鳴が聞こえた。


「……。きみが魔剣を使って生き残ってしまえば、同じもう一振りを作るまで、きみは王家に監禁されるだろう。必ず王家の手に魔剣が渡ってしまうわけだ。そうなれば、王家による暗黒時代の始まりと同義だ。どんな横暴だって許されるだろう」


 現状でアリスブルーしか製作方法を知らない魔剣。そんなものを王家がみすみす他に渡すわけがない。ニコラはそう言っているのだ。


「ええ、そうです」


 アリスブルーがうなずくと、ニコラは腕を組んで視線を逸らし、またもや何かを思案し始めた。


「ところで……、あの男はなんだ。この亡び星が降ってくるという重要な時期に異大陸からやってきたんだ。あいつは何かを知っていると考えるのが正しい。この亡び星について、必ず何かを知っている……」


「それは、私もうすうす気づいてはいたけれど」


 アリスブルーもそこに関してはニコラに同意できた。


「ぼくはね、あの男に賭けてみようと思うんだ」


「というと?」


「わざわざあの男はこの国で死にに来たわけではないだろう」


「そうですね」


「最悪はきみの魔剣がある。でも、ぼくは、あの男が亡び星をなんとかしてしまうところが見てみたいんだ。純粋な興味でね」


 ぼくは何を言っているんだろう、とニコラはまた苦笑している。


「そもそもがおかしいさ。百年前のときも、その前回の二百年前のときも。星は決まって同じ地点に落ちてきた。だから我々は今年もあの呪いの地に落ちてくると分かっているわけだ」


「確かに、その通り」


「考えてもみてほしい。この惑星が広ければ、宇宙も等しく広い。星がまったく同じ場所に落ちる確率なんてありえるわけがないだろう。前回も、前々回も、同じ呪いの地に落ちた。だからこそ、王都は呪いの地から離した場所に遷都してあるのだ」


「つまり?」


「これは誰かが仕組んだ意図的なものなんじゃないか? 自然現象ではありえることではない」


 ニコラが話をそう総括すると、ニコラの隣の空間がまた青に燐光した。


「……何っ!?」


 飛び上がりかけたニコラをよそに、現れた男はアリスブルーに甘く微笑みかける。


「そうだ。その通りだ。よく気づいたな、アリス」


 むろん、今まで様子をどこからか窺っていたラウルだ。


「いや、ぼくの手柄だろ──」


 ニコラがまたしても情けない悲鳴をあげた。


 ♢

 

 十五年物だという王宮秘蔵のワインを最後の一滴まで堪能してから、アリスブルーは幸福の嘆息をついた。目の前の白大理石造りの食卓に並べられているのは、至高の贅を凝らした珍味佳肴ばかり。ありとあらゆる山海の幸が博覧会を催している。


「なぜ城までついてきたのですか、ラウルさん」


「付き添いだ、最後まで」


 しれっと宴の席についてきたラウルである。アリスブルーの隣の席に腰かけた彼は運ばれてくる皿を次から次へと行儀よく平らげていく。アリスブルーは呆れ顔で首を横に振った。


「あなたには逃げてもらうはずだったのに。場合によってはあなたまで死ぬのですよ。全っ然だめじゃないですか」


「そうなったらそのときだ」


 なんて迫りくる災厄をどこ吹く風のラウルだ。


「意味なっ。それもそうですが、てっきり屋敷で同居生活だと思っていたのに、舞台がお城になるとは流石に予想していませんでしたよ」


「おれもだ」


 同意するラウルにアリスブルーは、ところで、と行儀悪くフォークで料理の大皿をさした。


「この大海老、めちゃくちゃ美味しくないですか。ぷりぷりですよね」


「うまいな」


「この山鳥のグリエなんとかソースがけもジューシーで美味しいですよ。噛めば噛むほどに肉汁があふれてくる」


「うまいな」


「この柘榴(ザクロ)巴旦杏(アーモンド)の糖蜜シャーベットも。ひんやりシャリシャリしてて」


「うまいな」


 すると、様子を見ていたニコラが額を手で押さえて肩をがくりと落とした。


「この()に及んでも食い意地を張るのか、きみたちは」


「今張らずしていつ張るんですか! 最後の晩餐ですよ!」


 アリスブルーが文句たっぷりに反論すると、ラウルも同意してうなずいた。


「まあ、そういうことになっているな。せっかくのタダ飯だ。あずかっておかねば損というもの」


「はあ、好きにしろ……」


 と、言い残してニコラは出ていった。


 王宮の迎賓館の湯殿は天国と表現する他なく、笑えない冗談ではあるが、本当に天に昇ってしまいそうな心地になった。近くの山で湧く温泉を引き入れているとかで、肌がすべすべになる効果があるそうだ。


「本当に人生最後のお風呂だ」


 外湯場があり、露天風呂がある。アリスブルーは外湯場にも出てみた。冬の冷たい風がすうっと肌を撫でて身震いしたが、ひとたび湯につかれば全身に湯の熱さが沁み入るようだった。


「星がないね。人生であと一回しか夜を見られないというのに」


──今日が終わって明日が終われば、その夜明けには亡び星が降ってくる。


 寝室に戻ってまた酒をひっかけていると、三度ほど扉がノックされた。出てみると、ラウルが扉の前に立っていた。


「飲みに来た。……きみもか」


「ええ。飲まないとやってられないので」


 豪奢な彫刻があちらこちらに施されたバルコニーに出てみると、夜風が火照った頬に涼しかった。


「今日はあいにくの曇天ですね、ラウルさん。……残念ですよ」


 酒のグラスをぼんやり傾けながら、先ほど思ったことを話題に出してみると、ラウルは(にび)(いろ)の空を仰ぎながら、ぽつりとこぼした。


「いや、何回でも見られるだろう」


 ついアリスブルーはラウルに顔を向けたが、やはりグラスを手にしたラウルは天に視線を投げかけたまま、だがアリスブルーの方は見なかった。


「半信半疑ですよ、私。ラウルさんは本当に亡び星をどうにかできるのですか」


「そうだな……。きみはただ、見ているだけでいい」


 翌朝、それも早朝に、ラウルはまたアリスブルーの寝室を訪ねてきた。寝ぼけ眼をこすりながらアリスブルーが応対すると、部屋に入ってきたラウルはすぐさま扉を自分で閉めてしまった。そして、一言。


「逃げるぞ」


「……ええっ!」


 すると、ラウルが人差し指を薄い唇の前に立てて低声で囁きかけてきた。


「しっ。……声が大きい」


「……すみません」


「すでにニコラには魔剣を渡してある。万が一、いや、億が一があったときのためだ」


 慌ててアリスブルーはラウルの耳元へと囁き返した。


「どういうことですかっ。逃げたら王都に被害が──」


 だが、ラウルはそれを遮ってバルコニーを指さす。


「いや、その話はあとだ。まずは飛ぶ」


 飛ぶってどうやって──と聞く暇もなく、ラウルはさっさと窓を開けてバルコニーに出てしまった。そして、そのあとを追ってバルコニーに出たアリスブルーは絶句することになった。


──(ドラゴン)だ。


 それは、一頭の美しい竜だ。虹の燐光をまとった漆黒の鱗と、ラピスラズリを嵌め込んだような裂けた瞳孔の瑠璃の瞳。巨大な翼膜。鋭い鉤爪と牙。二本の角。太い尻尾。


「あなた、ドラゴンだったのですか」


 空中でバルコニーの床と平行に静止している竜に、アリスブルーは怖々問いかけてみた。


「そうだ。ほら、早く乗れ」


 返ってきた声は、やはりラウルの朗々たる美声だった。


「え、どこに──わっ!」


 ちょうど階下の近衛兵が事態に気づいてクロスボウの矢を射かけてきた。それを、ラウルは翼を一閃しただけで叩き落してしまった。


「背中に乗れ、早く!」


「は、はいっ!」


 背にしがみつくようにして跨ったアリスブルーが驚く間もなく、ぐわん、と身体が宙に持ち上がった感覚があった。思わず目をつぶったアリスブルーだったが、そっと瞼を開けてみた。


「すご……」


 ラウルは眼下にある王宮の建物をみるみると小さな点にしてしまう。手を伸ばせば雲まで届きそうな高さまで上昇したとき、行く手には、ついこの前に見たばかりの青い魔法陣が現れた。


「我が国ではまだ実現不可能な転移門ですって──!?」


 アリスブルーが突っ込んだのもすぐに、ラウルはそのまま一つ羽ばたきして加速するや、転移門の中へと勢いよく突入した。


「──さ、寒っ!」


 次の刹那、アリスブルーの全身を叩いたのは切り裂くように冷たい強烈な風。


「ここ、どこですかっ」


 アリスブルーが尋ねると、腹側から低い声がずしりと響いてきた。


「王都からずっと北にある、名もなき氷の島だ」


「は、はああああ!?」


「星はな、今回はこの座標に落とすぞ」


「なぜ分かって──え、落ちるではなく、()()()?」


 竜のラウルが下に首を傾けた。うなずいたのだと分かった。


「ああ。なぜなら、星はおれが落としていたのだから……」


 ♢


 アリスブルーを乗せたラウルはゆっくり滑るように氷の大地へと下降していく。冷たい風の刃がアリスブルーのむき出しの頬を掠めていったが、それもラウルが周囲に遮温結界を張ってしまうと治まった。着陸すると、ずずん、という震動と共に浮遊感が消えて、重力をまともに感じるようになった。そろそろとラウルの背中から降りて、足を大地につける。しゃり、と霜柱を踏んだ感覚。


「あたたかい紅茶やらパンやらを調理場からくすねてきた。朝飯にしよう」


 人生で初めてドラゴンの背に乗ったのだから当然といえば当然なのだが、アリスブルーが、さてはこれが白昼夢かと目を白黒させていると、人間体に早変わりしたラウルがどこからか熱々のティーポットやカップ、食べ物を取り出して、大きな絨毯の上に広げていった。


「あ、ありがとうございます。窃盗罪がまた増えましたね。水で練って焼いた小麦粉の」


「ああ。これできちんときみの仲間だ。どこかの隕石泥棒娘のな」


 皮肉に皮肉で返しておいて、ラウルは敷物に座るよう言った。言われたとおりにアリスブルーは腰かけた。絨毯は遮温魔法が付与されているのもそうだが、毛織物で、もこもことしている。


 アリスブルーがまだ夢見心地でまずは紅茶を一口飲むと、喉を通り抜けて、胸に熱いものが落ちていった。


「ミルクティーなら最高でした」


「ふっ。帰ったら飲めばいいさ」


 と、ラウルも笑って、無造作にパンに(かぶ)りついた。しばらく咀嚼し、飲み込むだけの作業が二人の間で続けられた。腹ぺこの胃にすっかり食料が納まってしまうと、アリスブルーはようやく緊張がほぐれてきたのか、昨晩は酒の勢いで浅い眠りだったのもあって、目を閉じて絨毯の上に膝を抱えるようにしてうずくまり、重たい瞼を開くことができなくなった。


「──はっ」


 目が覚めると、もう夜だった。天を見上げれば、王都では見られないほど星の輝きがはっきりとしている。天に誰かが宝石箱をひっくり返してしまったような満天の星を、アリスブルーは息を呑んでしばらく見つめていた。ふいに、視界の隅で黒々とした人影が動いた。……ラウルだ。


「起きたか、アリス。……ニコラにもらった眠り薬はよく効いたらしいな」


 アリスブルーは思いきりラウルを睨みつけた。


「私を眠らせたんですか」


「今まで寝不足だったろう。しっかり寝てもらわなければ困る」


「あなたが私を心配する筋合いはないでしょう。今まで星を落としていた、と、この耳でしかと聞きましたよ」


「いや、きみが助けることにした同居人だろう」


 そう言われてしまえば、自分の行動に責任を取って黙らざるを得なくなるアリスブルーだった。


「……それでも、私はあなたを許せませんが」


 今までの亡び星の災厄は、すべてラウルが引き起こしていたのか。アリスブルーは、この男のために死ななくてはならないのか。疑問がしとどに募るが、まずは相手が説明してくるまで待つことにした。


「そうだな」


 言い訳といってはなんだが……、とラウルはアリスブルーの隣に腰かけた。あたたかいスープの鍋を取り出すと木の椀によそってアリスブルーに差し出してくる。


「ミネストローネだ」


「うん、いい匂い。窃盗罪がまた増えましたね」


 匙で掬って口に運べば、トマトのまろやかな酸味がやさしい。とろとろに煮込まれたセロリやニンジン、ベーコンがぎっしりと入っている。野菜の旨味もそうだが歯ごたえも楽しめる、栄養満点の一品だった。


「言い訳、してくださいよ」


 アリスブルーはふいに呟いた。ラウルにはっきり聞かせようとした言葉ではないのだが、ラウルにはしっかり聞こえていたようだ。


「言い訳だ。聞いてくれ──」


 ♢


 きみたちの王国のある大陸を、我々──竜族は〈裁きの地〉と呼んでいる。


 おれは、きみたちシュテルネル王国人に、その「裁定」を与える竜として五千年かそこらを生きてきたというわけだ。


 そう、きみたちは竜大陸から追放された人族の子孫だ。


 大昔に、竜族と人族との間で戦争が起こった。熾烈な争いは、やはり竜族が勝利した。敗れた人族のうち、戦争を積極的に唱えていた者たちは、魔法が使えない呪いの海、〈死の海〉を越えて、〈裁きの地〉へ流刑となった。


 竜は飛んで〈死の海〉を越えられるが、むろん魔法が使えない状態で、翼なき人間は船で渡るしかない。恐ろしい海魔が棲まい荒れ狂う海を、だがしかし、きみたちの先祖は見事渡ってみせた。


 竜族は、それでも人族を許さなかった。


 竜たちを殺すため、人族の中でも魔法に長けた者が作り上げた兵器があった。我々竜族はこれに着目した。


──亡び星だ。


 あれは、人族が作った魔法兵器なのだ。宇宙のどこからか手頃な天体をこの惑星に喚び出し、竜大陸に降らせた。もちろん、製作者たちは皆死んだよ。きみたちが星の災厄を逃れられなかったのは、彼らがすでに死んでいたからだな。まあ、とにかく、彼ら人族の罪の裁定として、竜たちは〈裁きの地〉に星を落とすことにした。


 本来であれば、星の落ちる座標は竜大陸であるが、おれは他の竜より転移魔法に少なからず長けていて、転移魔法で星の軌道を逸らし、きみたちの王国へ落とすことに成功した。


 こちらからすれば、持ち主に持ち物をきちんと返しているだけなのだがな。


 どうやって、竜大陸から、こちらの〈裁きの地〉に来たかって?


 もちろん、飛んできたさ。持って生まれた翼でな。


 ほら、見てごらん。


──星が、降ってくる。


 ♢


 さみしい氷の孤島に、その青い星はついに降ってきた。


 雷霆の轟きがして、視界は真っ白に染まる。


 一瞬にして弾け飛んだ氷の粒が、星屑の名残のように天から降り注いでくる。


 きらきら、きらきら。


 星の蒸気が弔いの白煙のように、暁の空へ細く長く、立ち昇っている。


「──最初から、この島に落とす手筈だった」


 全てを見届けたあと、ぽつりと、またラウルは語り始めた。


「今回は竜大陸を裏切ってでも、星を止めることにした。〈裁きの地〉に来る前に、もうすでにこの島に座標を変えていたんだ」


「そう……だったのですね」


 アリスブルーは瞼を閉じた。先ほどの白の情景が瞼の裏に焼きついている。おそらく一生涯、忘れられないだろう。


「王国にはなるべく干渉したくなかった。ただ、今まで自分が起こしてきたことの結果を、全ての事象を、知りたかった……」


 ふとラウルが、あの星の尻尾のような瑠璃色の目元を和らげた。


「おれの尻尾を食べないか」


「……尻尾?」


「従魔契約というものがある。おれの身体の一部……血を取り入れれば契約は成立する」


「それって……、寿命共有、ということですか。五千と四十歳のおじさんと?」


「その通りだ。この()()()と、だ」


「いいですよ。私、従魔になります」


 アリスブルーが一つうなずいてみせると、ラウルは青い目をこれでもかと見開いた。


「本当か」


「はい。恒久的休暇が欲しかったもので」


「きみは……あまりにも、こう、あっさりとしていないか!? ほら、そうなったら、人間の時間軸では生きていけないのだぞ!? もうちょっと考えるとか……」


「いえ、食べます。尻尾」


「……そうか」


「あの、血を飲むなら、別に尻尾でなくてもいいのでは?」


「いや、その、尻尾は……」


「なんです?」


「切ったらまた生えてくるんだが、いや、そういうことではなく……」


「伴侶に渡す、とか?」


「…………」


 黙りこくってしまったラウルに、ふ、とアリスブルーは唇の端っこを持ち上げた。


「おじさんの尻尾のおいしい食べ方を考えねば」


「……言い方」


 急に、アリスブルーをどろりとした眠気が襲ってきた。


「ふぁ……、まだ私、寝不足なんです。徹夜でしたもんね。いったん、寝てもいい、です……?」


 そう言って、またアリスブルーは絨毯の上に寝転がってしまった。すやすや、という規則正しいアリスブルーの寝息を聞いて、ラウルは困った微笑を浮かべる。


「おやすみアリス、よい夢を……」


 東の空から、新しい一日の陽の光が燦々と降り注いでくる。アリスブルーを起こさないよう、ラウルは彼女を背中にそっと乗せると、王都へ向けて、羽ばたいた。


──完──

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