ボタンを押したら嫌いなあの子と五年閉じ込められた
私は今すごく後悔している。
真っ白な部屋で地面も壁も天井さえも白一色で包まれた謎の空間。そこに、私と、あいつがいる。
髪は明るめの茶髪で、ゆるく巻かれたロング。前髪は重めで、目元を隠すように垂れている。制服は着崩していて、ブレザーは袖をまくり、シャツのボタンは開けっぱなし。スカートは短く、ルーズソックスに厚底ローファー。爪は派手なネイルで彩られ、真っ暗な瞳が今も私をじっと捉えている。息が詰まりそう。
──夜野鏡花
私がこの世でもっとも嫌いな人間。
どうして、こんな人とこんな空間で一緒にいるのか。
私は数分前の自分の行動にひどい嫌悪感を覚えている。謎の喪服姿の人物が私に声をかけて言ったのだ。
『このボタンを押したら100万円あげよう。何もないところで5年間過ごす』
それを聞いて真っ先に何かのいたずらかと思った。知らない人に声をかけられて恐怖もあった。でもその人物はどこか目が離せない雰囲気があった。
「5億年、じゃなくて?」
5億年なにもないところで閉じ込められてそれに耐えたら100万円というのは聞いたことがある。孤独に耐えられずに苦しい思いをするが5億年後に記憶が消えるという。
『5年です。ただし、一部の記憶が残るかもしれません。また……』
最後まで聞かずに押したのが失敗だった。
お金に目が眩んだ気持ちは確かにある。でもそれ以上に5年間何もない所ですごせるのが魅力的に映ったのだ。だって今の私は現実に絶望していたから、考える時間が欲しかった。
なのに。
「はぁ。本当最悪なんだけど」
こいつが口にする。耳障りで人を不快にさせる声はあの頃から何も変わってない。
「まさかあんたもボタン押したわけ?」
その質問を無視した。こいつに答える義理はない。
そして私は後悔する。5年という時間を与えられてお金もくれるという美味しい話はなかった。あの人が最後に言おうとしたのは『私が嫌いな人物と一緒に過ごさなくてはならない』という条件があったのだ。こいつの今の発言からボタンを押してもすぐ飛ばされない可能性もあるかもしれないけれど。
ともかく、私は後悔している。こんな人と5年も?
ありえない。こんなの、何かの間違いだ。
「おまえと一緒になるんだったらボタンなんて押さなければよかった」
それはこっちの台詞。こんな奴と一緒になるならお金を払ってでもここから出て行きたい。
「てかさ。その態度、もしかしてまだ根に持ってるわけ?」
こいつは私を見てへらへら言う。その態度に殺意が湧きそうだった。
私は絶対に忘れない。小学生のころ、私は仲の良い女の子と友達と一緒に過ごすことが多かった。それでよく悪ふざけというかスキンシップというか、過度な接触行為をしていた。そんな私達を見て、こいつはこう言ったんだ。
『女同士でイチャイチャしてて気持ち悪い』
昔から声が大きくてクラスの中心にいるこいつの声は注目の的だった。今でもこいつの笑い声は忘れない。それから私の学校生活は狂った。
仲の良かった友達は私から離れて私は孤独の小学校生活を送ることになった。中学ではこいつと別れたけど、私は友達を作るのを恐れてどこか遠慮がちになってしまった。
そして高校。どういう因果か、こいつと同じ高校になってしまった。そしてなぜかこんな訳の分からない空間にまで閉じ込められる。私の人生はこいつのせいでめちゃくちゃだ。
「ねぇ。5年一緒に過ごすんだからさ、黙ってないでなんか喋ってくれない? 協力しようって気はないわけ?」
こいつの声を無視して壁に向いて座りなおした。後ろからぶつぶつと文句を言う声が聞こえたけど次第に何も言わなくなった。
どうでもいい。このままじっと我慢していればいいんだ。
どれくらい時間が進んだのだろう。時計もスマホもないから何も分からない。
半日くらいは進んで欲しいけど、どうなんだろう。
後ろにはあいつがいるから絶対に振り返りたくない。本当最悪。ここから逃避したい気持ちで目を瞑る。でも全然眠くならない。それどころか食欲すら湧かない。
私、もしかしてとんでもないボタンを押したのかな。最初はたかが5年って思ったけど、よく考えたら眠くならないなら実際の時間はもっと多い。そんな時間をこいつと一緒に?
本当に信じられない。白い壁を触ってみる。なんの変哲もないただの壁だった。
時間は進んでるのかな。さすがに1日くらいは進んだよね? そうでないと本当に苦しいんだけど。ていうかこれでまだ1日くらい? これをあと1800回以上も繰り返すの?
死について考えたことのない私でもいよいよ頭によぎる。でもここではきっとそれすらも許されない。
少しだけ後ろに振り返ってみる。そこにはあいつが腕を組んで壁にもたれて座っていた。瞑想するみたいに俯いてたけど気配を察してか顔をあげた。
「なに?」
威圧感のある声に一瞬震える。壁に向き直った。話す必要なんてない。これはただの利害の一致。
それから沈黙した日々が続いた。日々、って思ったけどどれくらい時間が過ぎたか分からない。1週間くらいな気もするけど、まだ3日くらいな気もする。何も分からない。
「ああもう! なんで私がこんな目に遭わなくちゃいけないんだよ!」
ついに限界が来たみたいで取り乱して叫んでた。振り返ったら髪をぐしゃぐしゃにかき乱していつもの余裕のある顔が台無しになってる。
自然と口元が緩む。少しだけざまーみろと思ってる自分がいる。
「うるさいから黙って」
「は? 何様のつもり? 大体お前がボタンを押すから悪いんだろ!」
責任転嫁するみたいに叫んでる。そうやって自分の非を認められないのは昔のまま。
「ボタンを押したのはそっち。どうせお金に目が眩んだんでしょ」
「はっ。嫌味のつもりか? お前も押したから金を欲しかったんだろ? お前のことだから女でも買うつもりだったんじゃないのか?」
口を開けばこちらを不快にさせるのはある種の才能がある。
「一応言うけど私に襲いかかってきたら問答無用でぶん殴るから」
誰がお前なんかに興味があるものか。
それから私達は文句をぶつけあってその日を終えた。
「おい。今で何日くらいなんだよ」
「そんなの知るわけない。自分で考えたら?」
大分時間が過ぎたような気もする。でもそれでも1ヵ月過ぎたか、そうでないか。どちらにせよ、私達はまだこの試練の入り口にすら立ってない。
こいつは大袈裟に舌打ちをして、それがまた不快。
「ねぇ、1つ提案がある。ルールを決めない?」
「ルールだと?」
「このまま文句を言い合ってもお互い得をしない。5年乗り越えるにはこの場にルールが必要だと思う」
「こんな場所にルールも何もないだろ」
「あの喪服の人は言ってた。ここを出たら一部の記憶が残る可能性があるって。このままお互い罵倒を続けて、それで現実に戻ったとしたらそれこそ最悪の結果になる可能性がある」
今でこれなら数年後には取っ組み合いになって毎日罵りあってるに違いない。そうなれば現実に戻った時、互いに殺意を持っててもおかしくない。そうなったら何も意味がなくなる。
「私達の目的はお金を手にすること。だったら最低限のルールだけは決めておくべき」
「……分かった」
……?
珍しく素直に従った。こいつのことなら私に指図されるのを嫌って反対すると思ったけど。
「まず相手を誹謗中傷しない。それを破ったら何らかのペナルティが必要」
「そうは言うがここには私とお前しかいない。そんな口約束に意味あるか?」
「ある。最初にルールを決めておけば、そのルールが破られたとしても、その人の中に罪悪感は残ると思う」
ルールがない状態なら罪に問われないからお互い言いたい放題できる。でもここに罵倒禁止のルールがあるだけで、お互い一線を超えるのを躊躇う抑止力にはなる。
「じゃあ私からも1つ。万が一そのルールを破ったら、そいつは自分の過去を1つ語る。これでどうだ?」
「異論はないよ」
私はルールを破らない。だから何も問題はない。
そして、ルールを細かく決めた。こいつとこんなに語ったのも初めてだった。
時間は緩やかに進んでいる。あれから、私達の共同生活は平和なものになった。ルールを決めたことでお互い気を遣うようにはなった。こいつがすぐにルールを破ると思ったけど案外そんなこともなく、普通に守ってる。少し意外だった。
とはいえ、結局沈黙が続くだけの日々。心の中で時間を数えていると1分すら異様に長い。まだ1年も経ってないと思うとゾッとする。
「なぁ。新しいルールを作らないか?」
「あの時話し合ったし、これ以上ルールは追加しないって約束だったと思うけど」
「このままだったら1日が長くて仕方ないだろ。せっかく2人いるんだから話でもした方が気もまぎれる。だからお互い交互に話題を出し合うんだ」
その提案は理にかなっている。というか5年耐えるという制約上、それがもっとも効率的な手段だ。けどこいつは何も分かっていない。どうして嫌いな相手に話題を提供できる? 嫌いな相手と話すだけで苦痛なのが考えて分からない?
私は絶対にこんな人と会話がしたくない。
「その顔、私と話すのは嫌って顔してるな」
よほど酷い顔をしてたみたい。
「じゃあいいさ。ルールは追加しない。だから私の独り言に付き合ってくれよ。黙ってるのは、性に合わないんだ」
それから私の返答も待たずにぽつぽつと勝手に喋り出した。自分の好きな物とか今ハマってるのとか。適当に相槌だけ打っておいた。明らかに興味ない返事なのに、こいつ……いや、夜野さんはずっと喋ってた。おかげで1日が少しだけ短く感じられた。
時間は進み続けた。夜野さんは私の意思を無視してよく喋ってる。壁に向かって会話してるようなものなのに、よく飽きないなって思う。
「おまえはここを出て金をもらったらどうするつもりなんだ?」
「どうって?」
「あんな偏屈なボタンを押すくらいなんだから、何か理由があったんじゃないのか?」
夜野さんの質問に少し驚く。だって前はその金で女を買うとか言ってたくせに、今はそんな質問を投げかけてくるのだから。
「別になんでもいいでしょ。学生だったらあんな大金聞いたら誰だって欲しがると思う」
お金の用途なんて何も考えてない。でも100万って大金は普通に学生生活を満喫してる中では手に入れるのは難しい。
「ま。そんなもんだよな」
「そういうそっちはどうなの?」
「私か? まー、そうだな。全部生活費に消えるだろうな」
少しだけ空気が変わった。夜野さんはいつものお調子者な声じゃなくて神妙な声に変わってた。
「うちさ、1人親でさ、父親がいないんだ。父親が手を汚して捕まってさ。それで世間からもパッシングされて、母さんも病んでさ。しかも、妹までいるってのに、それはもう最悪だったよ」
それが本当か分からない。嘘を言ってる可能性は否定できない。でも夜野さんの暗い瞳を見てると、どうにも嘘には思えなかった。
「おかげで家はどんどん貧しくなって、おまけに妹もメンヘラみたいになってさ。いつも私や母さんに文句言うんだ。親ガチャ大外れだのなんだの言ってさ。母さんどんどん病んで。だから私がなんとかお金稼ごうって思って、それでこんな美味しい話が来たわけ」
それは私が住む世界とは全く異なっていた。これは本当に真実? だってあの夜野さんがこんな生活してるなんて。
「小学生の時、あんた……月森にひどいこと言ったの、悪かった。まるで妹と仲良くしてるみたいでついカッとなってしまったんだ。許してくれ、なんて言わない。でも謝らせてくれ。本当にごめんな」
夜野さんは座ったまま頭を下げていた。ふと、彼女のスカートに小さな雫が落ちてる気がした。けれど、そんな感情を前にしても私の心は動かない。
「あなたのせいで、私は小学校、中学ってひどい学校生活を送ったの。そんな昔話聞いたからって、あの頃の時間は戻らない」
どんなに劣悪な環境だったからって、それで他人の人生を奪っていい道理があるのだろうか。夜野さんは反論できないみたいで俯いたままだった。
「現実に戻ったらここでの報酬は月森に渡す。それで許されるとは思わないけど……」
「やめてよ。私はお金が欲しくて責めてるんじゃない」
「ごめん……」
これじゃあ私が悪者みたいだ。どうしてこんな。
その日、私も感情がぐちゃぐちゃになって何を考えてたか覚えていない。
時間は容赦なく過ぎていく。半年が過ぎたのか1年が過ぎたのか、或いは数年か。もう何も分からない。ただまだこの白い空間でいないとダメという現実だけが残る。
「ていうか、そんなに貧乏ならそのネイルや毛染めはどうやったの?」
お金がないならそもそもコスメを買うお金すら惜しいと思うけれど。
「もし、私がそっち系で稼いでる知ったら軽蔑するか?」
「別に。夜野さんの人生なんだから好きにすればいいと思う」
「……月森って案外許容範囲広いんだな。前に友達にそれとなく聞いたらすごい非難されてさ。だからこのことは誰も知らないんだ」
「私に話してよかったの? 現実に戻ったらクラスに暴露するかもしれないよ」
「私は月森にひどいこと言ったんだから、そのくらいじゃないとフェアじゃないだろ」
フェア、か。私があの日のことに囚われていたように、夜野さんもまた囚われていたのだろうか。
「ところで今って何日くらい経過したんだ?」
「さぁ? 半年くらいは過ぎたんじゃない?」
「まだ半年かぁ。はは、なんかこれ効率悪いな」
自嘲気味に夜野さんが笑った。この空間に飛ばされて初めて笑った気がする。
思ったより、可愛い顔をしてるんだなって思った。
「じっと私の顔を見てなんだ?」
「どうでも。私は疲れたから寝る」
「え? ここって寝れるの? やり方教えてくれない?」
「冗談だけど」
そしたらまた笑ってた。
「冗談かよ。月森も冗談言うんだな」
「そりゃあ冗談みたいな人生の人と一緒に過ごしてたら冗談も出る」
「言えてるな、それ」
夜野さんが白い歯をみせてはにかむから、その顔がまた脳裏に焼き付く。
私は一体何を意識してるのだろうか?
それから時間の流れが早くなった気がする。本当、『気』だけど。でも最初のころに比べて苦痛はなくなってた。夜野さんはよく笑うようになったし、私も自分の話をいつの間にかするようになってた。お互いの悩みとか、些細なことも話すようになってた。理由はまだ、分からない。
「夜野さんは……」
「あー。鏡花でいいよ? ずっと苗字でよそよそしいしさ。私も静恵って呼んでいい?」
「う、うん。いいけど」
急に距離を詰めるように言って来る。この胸の高鳴りはなんだろうか。
「それで、鏡花は……」
ダメだ。変に意識してしまう。そういえば人の名前を呼ぶなんて随分久しぶりだ。
どこか懐かしく、それでいて心地いいような、ああダメだ。頭の中がモヤモヤする。
「大丈夫か、静恵?」
「大丈夫じゃない」
鏡花はいつものようにフランクな様子だった。色んな人と関わってるから名前呼びなんて彼女からすれば些細なスキンシップなのだろう。
「それは悪かった。いやなら苗字でいいけど」
「その言い方はずるい」
「なんだよ、それ」
自分でもよく分からない。嫌いなのに、嫌いだったはずなのに。今ではあの苦痛が薄くなってる。これもこの空間のせいなのだろうか。
「なぁ、静恵。もしここを出たら連絡先交換してくれない? なんかさ、もう静恵がいないとダメな気がするんだ。こんなに自分の弱みを受け入れてくれた人、初めてだったからさ。これからも話を聞いて欲しい」
鏡花が真っすぐな目で私を見据える。獲物を捉えた豹のように。
私は逃げられない。物理的にも、精神的にも。
だってもう、ずっと意識してる。この意識は何に対してか、それだけは分からない。
「いいよ……でも、条件がある」
「なに?」
「そっちの仕事をやめてくれなきゃ断る」
「そうきたか」
断られると思った。けれど鏡花はすごく迷ってた。
どうしてそんなに迷うのだろう? 家族のためならこんな条件も提案も却下するんじゃない?
「でも、お金がないと本当困るんだよ」
「じゃあ現実に戻ったら私の報酬もあげる。それで足しにして」
「なんで、そこまで……」
自分でも分からない。なにが私をそうさせているのか。でも鏡花が知らない人と会ってるのは苦しいって、そう思う。
ああ、そっか。きっとこれは……。
「教えてあげる。私は鏡花が────」
その瞬間、目の前の白い空間が一瞬にして現実の色を取り戻していた。がやがやと喧騒な声がする。私は街中で1人ポツンと立ち尽くしていた。
終わっ、た?
もう5年が経っていたの? ふいに制服のポケットに厚みを感じた。見たら封筒が入ってて中には大量の万札。そういえばあの喪服の人はどこに?
どうでもいいか。学校の鐘が遠くで鳴っていた。自然と足が早くなる。
早く教室に行きたいって気持ちがはやる。誰に会いたいかなんてそんなの決まってる。
私の学生生活はこれから始まるんだろうか──




