フェチなる悪女令嬢の愉快な婚約破棄
王都の夜会――華やかな音楽と様々な思惑が渦巻く場でアレクシスは緊張で額に玉のような汗を浮かべていた。
アレクシスは元来汗をかく方なのだが、とはいっても、普段からこんな滝のような汗をかいてるわけではない。
しかし今夜も、令嬢たちからがコソコソと噂話をしているのが聞きたくないのに、聞こえてしまうから。
「見苦しいこと」
「ここまで臭いそうだわ」
こんなところに来たくはなかった。しかし、王太子の成人を祝う今夜の宴。
伯爵以上の爵位を持つ家は、須く出席せよとのお達しがあった。
そんな夜会に我が辺境伯家が欠席とあれば、火のないところに煙をたてかねられない。
折悪く父が先日の討伐により負傷してしまったため、嫡男である自分が出るしかなかったのはわかっているのだが。
(汗~、止まれ~)
そう思えば思うほど、じんわりと汗が染み出してくるのがわかる。
アレクシスは、こういった場が死ぬほど苦手である。
普段以上に汗が吹き出してきて、滝汗を流すハメになるので極力参加は避けてきた。
夜会に参加するか古龍と一人で戦うかと言われれば、迷わず後者を迷わず選ぶほど、この場がイヤで仕方ない。
貴族が大量にいる場にいるとただでさえ緊張するし、領地で見ないような細い身体の令嬢は、今にも骨が折れてしまうのではないかと近くにいるだけでも怖い。
そんなことばかりに気取られているうちに心身ともに強ばり、夜会ではいつも以上に汗が止まらなくなるので、宮廷の貴族たちの間で嘲笑されているのも知っていた。
さらにアレクシスには、王都風の衣装も暑すぎる。
コート、ウエストコート、ブリーチズ、絹靴下、シャツ、クラヴァット…身につけるものが多すぎる。
濃い色の衣装を仕立てたが、それでもわかるほどのシミになるのではと
宴が始まる前から暗澹たる気持ちでいるとーーー。
「あなた!」
突然声をかけられ視線をあげると、目に飛び込んできたのは、
大きく海のように澄んだ青い目、桃のようにぷるりとした唇、豪華に波打つ金髪。
黒に近い真紅のドレスに身を包んだ、目を見張るような美少女がそこにいた。
「あなたの香り……なんて芳しいのかしら!」
アレクシスにさらに半歩近づくと、大きく息を吸い込んでうっとりとする。
この時、アレクシスには会場が凍りつく音が聞こえたと思う。
「は、はぁ!? ご令嬢、何を……」
「臭いなんてとんでもない! 貴方の香りは生命の匂いだわ!」
汗だくのアレクシスと、それを夢中で嗅ぎ回る令嬢の姿に会場は一気にざわめく。
「まあ!またあの方が騒ぎをおこしているわ…」
「ああ。あの…」
アレクシスはほとんど王都にこないため、この令嬢がどこの誰だかもわからず途方にくれるが
その騒ぎをかき消すように、鋭い声が会場に響き渡った。
「――セレーナ!」
振り返れば、礼装をまとった第一王子アードルフ殿下がこちらに近づいてくるのが見えた。
背後には、小柄で楚々とした雰囲気の令嬢が寄り添っている。
「殿下」
本日の主役が、挨拶に行く前に目の前にきてしまいアレクシスは急ぎ、臣下の礼をとる。
隣にいた令嬢も、スッと姿勢正して王太子に礼をとった。
(ん…?セレーナ…?)
王太子は、アレクシスの匂いを嗅いでいた美少女に向かって「セレーナ」と声をかけていた。
そして今夜成人するこの王太子の婚約者が確か、セレーナという名だった気がする。
(では、この方がガリューシュ侯爵家の賢姫か)
カリューシュ侯爵領は今や王都に勝るとも劣らない勢いがある。
それが、セレーナが発案した常識にとらわれない施策にあるという噂は
遠くアレクシスの領地にまで届いていた。
(そんな方が婚約者とは、羨ましい限りだ)
アレクシスの家が治める辺境は南の海に面する大領地だが
海の魔物や照りつける太陽と戦う厳しい領地で、のんびりとした民の気質ゆえ
なんとか経営をまわしているが、貧しくもなくとも蓄えが多少心許ない。
しかしアレクシスこそ実は、領民の気質を1番体現しているノンビリ屋であることに
本人は気がついていない。
その証拠にアレクシスは、王太子の宴に似合わない雰囲気を察するのが一歩遅かった。
「今この場をもって、私はお前との婚約を破棄する!」
突然の王太子の宣言に、アレクシスの全身から再び汗が飛び出す。
(成人を祝う宴で、こいつ…もとい王太子は何をとち狂ったことを?!)
驚きながら、このような場で突然の災難に遭った隣にいる令嬢・セレーナを見ると
ーーうっとりと目を瞑りながら、深呼吸している。
事前の奇行を見ていない人には、セレーナが王太子の言葉にショックを受けて呼吸を整えているように見えたかもしれない。
しかし、アレクシスにはわかってしまった。
(俺の汗がまた出たから、匂いを大いに嗅がれている…!?)
セレーナは何度か大きく鼻から息を吸うと、気が済んだのかニコリと美しく笑って見せた。
「承りましたわ! ではわたくしの責ではなく、殿下の有責ですので慰謝料のお話は父にしてくださいませ」
話は終わったとばかりに「ごきげんよう」と手を振るセレーナに、アードルフ殿下の顔が真っ赤に染まる。
「な、何を言う! お前がここにいるミアをいじめたことが原因の婚約破棄だ!
ミアの大切にしていた花壇を枯らしたり迫害したりと、悪辣非道な行為の数々。
奇行も多く王太子妃の素質がないと皆が――!」
「まぁ!」
王太子の言葉を遮って、セレーナは大げさに口元を押さえた。
「そのことをいじめと仰ってるの? ミア嬢の花壇には、この国では禁制の植物がコラーレルに偽装されて育成されておりましたのよ?
そっくりなので間違われても不思議はございませんが、花の香りが全く違いますの。
花粉を飛ばしてしまう直前でしたので、急ぎ花壇ごと焼却したのですわ」
似た植物とは、おそらくニセコラーレルだろう。その名の通り確かに二つはそっくりなのだが、
ニセコラーレルは別名「天使の中抜き」と呼ばれ、コラーレル種の麦そっくりに育つが
穂の中身が実らないのだ。
「あの種がひろまれば、我が国カンタレラの主食である麦の収穫量が格段に落ちてしまいます。
見過ごすわけにはまいりません」
その後に、セレーナは少しだけバツが悪そうな顔をする。
「まあ、花壇を全部燃やしてしまって、証拠となる植物も燃やしてしまったのは、わたくしの落ち度でしたが」
「植物を愛する心優しいミアが、そんな危険な植物を育てるわけがないだろう!
ありもしない言いがかりをつけるだけでは飽き足らず貴様は、ミアにこの国を出ていくようにと迫ったというではないか。嫉妬に狂い、立場の弱い令嬢を追い詰めたるような〝悪女〟であるその方に
責があるのは自明である!」
震えながら寄り添う令嬢に、王太子は大いに庇護欲を掻き立てられているようだ。
その時、ミアと王太子が揃いの紫の衣装を着ているのに、アレクシスはようやく気づいた。
一方、アレクシスの隣で1人立つセレーナのドレスは、王子の色をいっさい纏わない真紅のドレス。
(正式に婚約が破棄された後ならともかく、これはなんとも…)
あからさまなミアと王太子の見せつけに、アレクシスの中に嫌悪の気持ちが沸くが、
横を見れば、王太子に婚約破棄を告げらた当の本人が、大変楽しそうにしているのでなんとも煮え切らない。
(それに紅いドレス、セレーナ嬢にとてもよく似合ってるしな)
王太子は周りに控えていた側近を見渡し「お前たちも、言ってやれ」と証言を促した。
「ニア嬢に会うとセレーナ様が度々小声で、殿下と離れるようにと脅しをかけていたのを私もたびたび目撃いたしました。この国の未来をみて、高めあう2人の仲を邪推する嫉妬深さにいつも呆れておりました」
宰相家の息子はやれやれという顔する。
その横にいた騎士団長の息子も、怒りに顔を歪めている。
「ミアの作った手作りのお菓子を踏みつけて、食べられなくしたことも忘れないぞ」
「二人とも…いいの。私が殿下のお側にいすぎたせいだから…」
健気な様子のミアに、王太子は満足そうに頷いた。
「二人の証言にもある通り、セレーナの素行は見るに余る。
婚約破棄は当然、貴様の有責で進めるものとする。
ただ、貴様がどうしてもというならば、側妃とし」
「もう仰りたいことはございません?」
「……は?」
王太子の言葉を遮って、セレーナが喋り出す。
「お待ちしても、益体もない証言しか出てこないようなのですもの。
こちらのお話を進めてもよろしいかしら?」
「はぁ!?」
「せっかくですから…今日も嗅がせていただきますね?」
セレーナは踊るように軽やかに歩き出すと、ミアにずいっと顔を近づけ――盛大に吸い込んだ。
「すぅぅぅ~~……ぷはぁっ!」
「ちょっ……セレーナ様!?」
「やっぱり!」
セレーナは指を鳴らした。
「な、なんですか!?」
ミアが一歩下がる。
「殿下、ご存じかしら? この方からは時々、この王都には存在しない“ヴァルグ産の香水”の香りが漂っておりますの。やっぱり今日も、その香りがいたしました。
入手には“隣国の宮廷”と深いコネが必要と言われているのに、手に入れられるなんて羨ましいですわ!」
ざわめく会場。殿下の眉がひそめられる。
「そ、それは偶然、どなたかから匂いが移ってしまっただけで――」
「偶然でしたの? それにしては、学園でもよくその香りをまとっていらっしゃったけど。
では、どなたからの移り香か分かりましたら教えてくださらない?
隣国と我が国は前の戦争以来、国交がないのですもの。
どんなルートでご購入されたのか紹介して頂きたいわ。 こちらも、同じ方かもしれませんし」
セレーナはミアの袖をぱっと掴み、鼻先を近づける。
「うん、この樹脂の香り……! これは隣国ヴァルグ産の蜜蝋で封をした手紙にしか付かない匂いですわ。
ミア嬢は王国の書簡だけではなく、隣国からの手紙も扱われることがございますのねぇ!」
ミアはセレーナの手を振り解き、王太子の背後に身を隠した。
「…個人の交流は自由であれ、そんな方が王太子の近くに侍ることは良いことと思えません。
なので大変面倒ではございましたが、その香りがする度に
殿下から離れるようにと忠告申し上げていたのですわ」
ショボンとした顔のセレーナは、少し寂しそうに続ける。
「あなた方は、聞く耳を持ってくださらなかったですが」
「ミア様のお菓子もそう。 彼女の手作りというお菓子からはいつも、
わたくしの口から言うのが憚れるような〝夜の〟お薬の匂いがしましたので
殿下がお食べになるのは阻止いたしました」
そこで言葉を切ったセレーナは、側近ふたりの方をちらっと見る。
「そちらのお二人に関しては、わたくしの知るところではございませんでしたので…。
お菓子のおかげで、ずいぶんとお愉しみだったのだなと、推察された日がございましたが」
二人の顔をみて、セレーナは意味深にクスリと笑う。
心当たりがあるのか、二人は揃って真っ赤な顔になった。
「そ、そんな……!そんな嘘を仰るなんてヒドイ…」
ミアと呼ばれた少女は、ショックからかよろめいたところを王太子が抱き寄せる。
その芝居がかった様子に呆れながら、アレクシスはクラバットについたピンを外した。
王太子とミアに注がれていたセレーナの視線が、チラリとこちらを向く。
(俺が動くと、臭いでもするのか…?)
慌てつつも、自分のするべきことをするためにアレクシスは準備を始める。
「臭いがするなどと嘘をついて、ミアの評判を落とそうとするのは
今日も変わらずか。いくら私からの寵愛を欲してるとはいえ、あまりにも見苦しい」
王太子はセレーネを嘲笑う。
「証拠もなくミアを陥れようとする貴様は、やはり悪女であり未来の王妃としては不適格である!」
セレーナは満足そうに宣言する王太子を見て、大きく頷いた。
「わたくしが王妃に向かないというというご意見には、大いに賛同いたしますわ!
だってわたくし、殿下のようなラフレシアの匂いがしそうな殿方は好みません。
そんな方の妃になって一生を終えるなんて、まっぴらですもの」
王太子は、意味がわからなかったのだろう、ポカンとした顔で、セレーナを見た。
アレクシスも思わずつぶやく。
「…ラフレシアとは、どんな匂いなんだ?」
気になりすぎて声に出してしまったアレクシスに、セレーネはニコッと笑いかけた。
「外見だけ立派で、中からは腐った匂いがします」
あまりの腐臭にハエがたくさん寄ってきますのよ、と追加で説明をしてくれた。
「なっ!」
言い分を聞いて、はじめて侮辱されたということを理解して王太子は声を荒げた。
「ですので、婚約破棄は承りましたと申し上げましたでしょう。
今は慰謝料のお話をしている最中ですわ、殿下」
出来の悪い生徒を嗜める教師のように、セレーナはため息をつく。
「わたくしは学園では婚約者として、また臣民として、殿下の隣にスパイが立つのを止めようと
距離をとるようにとご忠告差し上げただけなのですから。
それを理由に婚約破棄と仰るなら、殿下の有責でしかあり得ませんわ」
「わたしがスパイだなんて嘘をつくほど、セレーナ様は殿下のことを愛してらしたのね…」
ミアは真っ青になり、足が震えている。
「セレーナ様を差し置いて、殿下のお心を頂戴してしまったことは謝ります…。
でも、そんな言いがかり、ひどすぎますっ!」
セレーナはキョトンとする。
「殿下のお心は、わたくしには不要なものですのでどうでも良いのです」
「しかし、この国の平和はわたくしにも大切なものですから。
あなたが私の忠告を聞いて、殿下の命をとるだけで満足してこの国を出て行ってくれれば、
こんな面倒なことはしなかったのに」
わたくしもそれで婚約がなかったことにできましたから、と残念そうにセレーナがつぶやく。
「あまりのショックに、気でも違ったか?
匂いなどという根も葉もない妄言でミアを追い詰めて…
そこまでいうなら証拠を見せてみよ、セレーナ!」
そんなもの無いだろうと、勝ち誇ったように笑う王太子に、セレーナは悲しげな顔を向けた。
「そうですわね。わたくし…… “王国を滅ぼす匂い”は、流石に放っておけませんわ」
ミアを見つめながらセレーナがいう。
「あなたが今、胸元に仕込んでいらっしゃるスターシャの毒。
殿下に使わないということは、それはこの後、陛下にお使いになるの?」
一瞬、張り詰める沈黙。
ミアはカッと目を開くと、自らの胸元に手を入れて液体が入った瓶を取り出した。
「くそっ! このバカ王子を堕として、あと少しだったのに…!」
ミアは胸元から出した小瓶からグッと液体を煽ろうとするが、それは叶わなかった。
急にミアの腕から力が抜け、ダラリと下がった手から瓶が転がり落ちたのだ。
ミアは何が起こったがわからず見ると、肘のつけ根にピンが刺さっている。
「なに、これ…?」
ミアがこの夜発したのは、この言葉が最後だった。
いつの間にか背後に回ったアレクシスがミアの首の後ろを叩き、ミアは意識を失った。
それで全てが終わりだった。
「関節のそこに鍼が刺さると、手の筋肉が麻痺するのは人間も魔物も変わらんのよ」
ミアの腕からクラヴァットピンを抜き、ついでとばかりにアレクシスはぐしゃぐしゃに丸めたチーフをミアの口の中に押し込む。
「騎士団! 隣国のスパイだ。 自害させぬよう注意せよ」
凍りついた会場に、遅ればせながらの悲鳴が響く。
大混乱の会場を縫うように慌てて駆け寄ってきた兵士にアレクシスは、
ミアの身柄とミアの落とした小瓶を渡す。
これが真実スターシャの毒なら、この量を飲めば確実に死を呼ぶ代物だ。
(王太子が勝手に招いた令嬢だから、セキュリティを抜けてしまったのか)
あと少しで、王の命に手が届いていたかもしれない。
引きずられながら連れ出されるミアを眺めていると、トンっと胸元に何かが当たる感触があった。
セレーナがアレクシスの胸に飛び込んできたのだ。
「あゝ、わたくしこわかったー」
恐ろしい棒読み加減。そしてシャツ越しにもわかる、鼻息が荒い。
おそらく、匂いを嗅がれている。
「だ、大丈夫ですか?」
「途中から、貴方様がミア嬢を警戒してくださっていたので
安心して追求できましたわ」
セレーナが、隣国の関係を追及しだしたあたりで、
ミアの腕が胸元を確認するように動いたのをアレクシスは見ていた。
その後も、そこに何かがあるのを何度も無意識に確かめている仕草をみて
アレクシスは、ミア嬢に不審な動きがあればすぐに対応できるよう
クラヴァットピンを外し、立ち位置も少しずつ変えていたのだ。
「わたくし、鼻はいいんですが、物理で来られるとからっきしですの。
昔から、いろんな方の秘密を嗅ぎ当ててしまうので、怒られることが多くて…」
そういってセレーナは、落ち込んだ顔をした。
アレクシスはようやく、宴の始まりにきいた「あの方がまた騒ぎを…」と貴族たちが噂していた意味を理解する。
きっとこれまでもこんな調子で、嗅ぎつけた真実をポロッと喋って騒ぎを起こしてきたのだろう。
まあ、今夜の騒ぎは特大の大きさだったと思われるが。
「だから、さきほどは頼もしかったですわ!」と、胸元から見上げてくる美少女の笑顔に
アレクシスは体温がさらに上がるのを自覚した。
(どうでもいいから、匂いを嗅ぐのをやめてくれ!!!!)
血液が沸騰するのではないかと、いよいよ心配になったところで
「セレーナ!此度は、よくやった!
我が婚約者として、これからも励むように」
王太子が、満面の笑顔でセレーナに近寄ってくる。
(すげえ、メンタル回復させてきたぞ、このお坊ちゃん)
あまりの変わり身の速さと面の皮の厚さに呆気にとられるアレクシスとは違い、
セレーナは涼しい顔でアードルフ殿下に一礼する。
「殿下、婚約破棄はもう済んでおります。
王族が、これだけの臣下の前で宣じた言葉を覆すことなどあり得ません。
それに、すでに父の手の者が教会へと破棄の書面を提出していると存じます。
責はもちろん、そちら。 慰謝料の算段は、父にどうぞ」
では、改めましてごきげんようと、にっこりと笑うセレーナがアレクシスに手を差し出した。
エスコートせよとの意味に気づくのに1秒。 やはりアレクシスは、ノンビリ屋なのだ。
慌てて出した腕に重ねられた華奢な指の感触に、アレクシスは全意識を集中させる。
(転んだら折れる。揺れても折れる。)
アレクシスは、サルガルネル峠の怪鳥の卵を盗んだ時よりも慎重な足捌きで広間を後にした。
馬車だまりまでくると、セレーナが大きくノビをする。
「長かったですわぁ~!
あのバカ王子と無理矢理婚約させられてから、破棄まで本当に長い戦いでしたわ」
顔中に「せいせいした」と書いてあるセレーナを見て、アレクシスは思わず笑ってしまった。
貴族は顔の裏にも、言葉の裏にも意味を持たせる生き物で、その意味を取り違えないようにと
王宮では緊張を強いられてきたアレクシスにとって、裏表のないセレーナのその顔が
とても素敵なものに思えた。
「ということで、わたくし。フリーになりましたの!」
クリクリとした青い目が、アレクシスを見上げてくる。
「芳しきあなた、お名前を教えてくださる?」
*************************
<事件のあとに>
「僕は、汗っかきだし。その…あなたのような美しい人に、そんなに近づかれると緊張するというか」
「まあ! 恥ずかしがることなんてありませんわ!」
セレーナは満面の笑みを浮かべ、鼻を近づける。
「貴方の汗の匂い、わたくしにとっては宝物ですの!」
「……っ!」
真っ直ぐな賛辞に、アレクシスは頬を赤らめる。
「訓練を怠らないのでしょう。代謝のよい、綺麗な汗の香り。
それに、ミント、ラベンダー…あと知らないハーブの香りが複数合わさっている…」
「あ、それ。俺が領地で研究してるハーブの匂いだな、きっと」
「ご領地で、ハーブの研究をなさってるの!?」
「汗の匂いが防げればと思って始めたんだが、
うちの領地にしかない植物もあって面白くなってしまって」
目を見張るような美少女は、その言葉に今日1番の笑顔を見せた。
「あなたのご領地に、私を連れていってくださらない?」
それが、貴族の言葉では実質プロポーズになることを知らないはずはないだろうに。
(この方は、男心の機微を理解しないのか!?)
彼女が悪女と呼ばれるのは、きっとこんな風に興味のままの彼女の言動に、
勝手に喜んだり落胆した者たちがつけたからに違いない。
しかし、王都の誰にも否定され続けてきた自分を、初めて肯定してくれた存在。
その瞬間から、アレクシスの胸に「悪女」と呼ばれる彼女への想いが芽生え始めていた。
いい匂いだと思う相手は、遺伝子的に相性がよい相手だという話を聞いて書きました。 感想、評価をポチなどして頂けると、飛び上がって匂いを嗅ぎに伺います。