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海の娘の耳飾り

作者: 小狐紺




今宵も海と新月がめぐり逢います。


そこから無数の『海の娘』が生まれました。

いつものようにうまれてはすぐ、海のなかへと溶けてゆきます。


月の魔術を命と共に海に溶かす。

それが海の娘の役目でした。





そのなかに奇跡的に残った娘がいました。

彼女は海に溶けることなく、朝日をむかえました。


朝を見つけた月夜海の娘は、みな何千年もの時を生きるようになります。



この時の永く生きる海の娘は、およそ数千年ぶりの誕生でした。




「――うわぁぁぁああん!!」


差し込んだ朝光が昇ってしばらくすると、その海域は大混乱に陥っていました。

幼い娘の泣き声に海じゅうが響き渡ります。


その衝撃は、まるで吹き荒れる嵐のようでした。

急に速度を上げた海流は無闇矢鱈とうねり、運悪く巻き込まれた魚群がばらばらに引き裂かれます。



海中に舞った銀鱗は朝日にきらめきながら、流れに乗って刃の軌跡のように散っていきます。

急に捩れたうねりは周囲を乱しながら、はるか遠くへと駆けていきました。


そのおそろしい勢いに、貝や小魚たちは飛ばされないよう岩陰に隠れます。蛸や蟹は巻き込まれないよう海底に潜り込み、やり過ごすことしかできませんでした。


激しい海流に巻き込まれ、一匹のメンダコが飛ばされていきます。


「ひえぇ……」


その小さな腕を珊瑚礁に避難していたイカが引き寄せます。

「おい、大丈夫か」

「し、死ぬかと思った……」


珊瑚礁の横の岩場から、長老カメの声が響きました。

「海の娘の泣き声は、ただの悲鳴ではないからな」

「そうなのか?」

「ああ。王の子の強い感情は、魔術を強制的に増幅する」


「なるほど。増えすぎた魔術のせいで、あの子の声が、こんな遠くまで響いてるのか」

「……まったく、かわいそうだが、迷惑な話だ」


「じゃがそのおかげで、こんな珍しいものも流されてきた」

「わ、大王鯨の肝酒じゃないか」

「滅多に出回らない珍品だ……」

「ほれ、少し分けてやるから、海が鎮まるまで少し付き合え」


ことの発端は、生まれたばかりの海の娘が小さな貝にひっかかり、硬い岩にヒレをぶつけてしまったことでした。

鋭い痛みに、血がゆらりとにじみ広がります。


びっくりした海の娘は、立ち止まってヒレを見ました。

じわじわと痛み出し、それを見ていた娘の胸の奥底からあついかたまりが、咽喉へとぐわんと押しあがりました。鼻の奥がつん、と痛苦しくなったら、もう耐えられません。



娘の頬を伝った大粒の雫は、水に溶けずに泡になり、ゆらゆらと光を反射させながら、ゆっくりのぼります。

青い光が差し込み、微かな潮の流れが泡を揺らして増幅し――気づけば泣き声と共に暴れまわる海流となっていました。




混乱する海の嵐のなか、水底から重い気配がうねり、せりあがるものがありました。

その気配は深海色の影になり、人型をとると背に透明な翅のようなヒレをひろげました。


それは、この辺りの海一帯を治める海の王でした。

急に騒がしくなった海を見に来たのです。


王様は娘に駆けよると、まだ泣きじゃくるその子を、腕にそっと抱き上げました。


「我が子よ、どうしたのかね」


「おとうさま……身体がやぶれてしまったの――ごめんなさい」


「おやおや、怪我をしてしまったのか。みせてごらん。

 ああ、大丈夫。これくらいならすぐ治る――ほら、もう痛くないだろう?」


父の水かきのついた指先から光がすべります。その指が触れた端から傷は消え、影も形も残りません。


海の娘はおそるおそる自分のヒレをのぞきこみます。


「まあ、きえてしまったわ……」


驚きのあまり、涙はひっこみました。

あまりにも呆然とした娘の声に、王はふわりと笑みを浮かべます。あたりの空気が、陽だまりのように緩みました。


でもそれも一瞬のこと。父王は顔を引き締め、娘に丁寧に語りかけました。


「いいかい、かわいい娘よ。生きとし生けるものはみな、こうして痛い思いをしながら覚えていくのだ。覚えなければ、それで終わりだ」


父の声は潮のように深く響きました。

海の娘は聴いているのか、いないのか、父親越しの彼方の光をゆらゆら追いかけています。


「お前は海を司る私の娘。海ではみな、お前を大事に扱うだろう。

 だが、陸や空ではそうもいかない。お前に従う海流も潮の歌も、お前には届かないのだ」


娘の頬を撫で、父は優しく言い聞かせます。


「海の外へは出てはいけないよ、いいね」


「はぁい、おとうさま。いたくないように、がんばるわ」


真剣にうなずく幼子に、父親はくすりとほほ笑みます。

それから、ひっかけた貝を拾いあげてやりました。


「だが、悪いことばかりでもない――ほら、見てごらん。

 お前がちょっと強い魔術を放ったから、真珠が育ちすぎてしまったようだ」


差し出された貝からは娘の親指より大きく立派な虹色の真珠が、はみ出るように収まっていました。

殻を閉じられず、ぱくぱくしている様子に、子は思わず笑い声をあげました。


笑い声は明るい泡となって、あたりをほのかに照らしながら、ふわりぷかりとのぼっていきます。


「娘を泣かせたこの貝は不愉快だが、お前を笑わせた褒美に許してやろう」


父王は笑いながら、閉じきれない貝から大きすぎる珠を取り出してやります。

やっとのことで自由になった貝は、口から泡を散らして逃げていきました。


「おとうさま、そのいし、とてもすてきね」

「これは真珠という。持ちやすいように仕立てようか。

 ……ああ、あれが丁度良さそうだ」


王は娘を抱えたまま、深い漂流海溝へ、とぷりと身を投じました。


深く、はるか海の奥底へ。ふたりの身体は沈んでいきます。


その深層の圧に軋む地層の崖から、虹色流木が脈を打つように光り、突き出ていました。

海の王は小枝を折り真珠と組み合わせると、潮の光で金の彫り込みを施します。

あっという間に、優美な耳飾りが出来上がりました。


父は愛しい子の耳にできたばかりの真珠の耳飾りをかけてやりました。幼子の耳には少し大きすぎるようです。身体が大きくなるまで、小さくなるなるよう調整すると、満足気に頷きました。


「こんなものかな」


娘の深海そのもののような髪が揺らぎます。

その複雑な紺と碧の合間から、耳飾りが幾重もの違う白をはなち、きらりとかがやきました。


「――どうだい?」


海の娘はたまたまそばを通りかかった海溝クラゲの毒の触手を束ねて引き寄せます。

海月の揺れる銀化膜に顔を近づけると、耳飾りが光にきらりと反射し、微かにゆらめく姿が映りました。


その見事な耳飾りに、娘の小さな口から思わず「まあ……」と息が漏れました。


「とても、すてき……おとうさま、ありがとう!」


「気に入ったならなによりだ。

 私は海を守らねばならぬ。だが、いつだってお前をみているよ」


にっこりと笑う娘の笑みは、珊瑚礁に差し込む陽ざしのように、きらきらと輝いていました。


耳飾りはただの宝物ではなく、父と自分を結ぶしるし。

海の娘の心を温める大切な思い出になりました。


凪の日も、嵐の日も、大偏西流が海じゅうをかき回すときでさえ――娘の心をあたためる、かけがえのない宝ものです。




それから幾度、月と海が邂逅を果たしたでしょう。


とても気持ちのよい海風が吹く日でした。

娘は青鳩に誘われ、岸辺で日光浴をすることにしました。

柔らかな海藻のベッドが静かに波に揺られています。

海と陸のあいだで浅瀬の水はほんのりとあたためられ、心地良さそうでした。


肌身離さず持っていた宝物も、たまには休ませた方が長持ちするでしょう。

海の娘は耳飾りを外して手の真横に置くと、身を横たえて潮騒の子守唄にまぶたを下ろしました。



穏やかに波が寄せては返します。




波打ち際の泡の精が、空気の精と戯れていると、どこからともなくすすり泣く声が聴こえてきました。


泡の精が辺りを見まわすと、海の娘が大きな岩の端で、耳飾りを外してうたた寝をしていました。

不思議なことに、海の娘の隣から泣き声が聞こえてきます。


「しずかに泣いてるあなたはどなた?」

それは私、と耳飾りが答えました。


よくよく確かめると、それは真珠に添えられた、あの虹色流木の小枝でした。


『いちどでいい。森へ、帰りたい……』


潮の涙に嘆く虹色の小枝を見て、同情した泡の精と空気の精は、娘の横からそっと耳飾りを取り上げたのでした。


「いいわ、ほんの少しだけよ」

「私たちが連れて行ってあげましょう」


そうしてふたりは遠い森へと駆けていったのです。




驚いたのは、目を覚ました海の娘です。

ほんの少し、まぶたをとじているうちに、耳飾りが忽然と消えてしまったのです。

悲しむ海の娘に、たまたま漂っていたブルーボトルが、泡の精が川へ持ち去った、と教えました。


それを聞いた娘の脳裏に、父の言葉がうかびます。


『だが、陸や空ではそうもいかない。お前に従う海流も潮の歌も、お前には届かないのだ。

 だから――海の外へは出てはいけないよ』


ブルーボトルが指す川は、海の一部ではないのだと、娘はすぐに気づきました。

海の魔術は川の奥へ行くほど薄れ、届かなくなっています。


でも、あの真珠の耳飾りは貴重な父との大事な思い出です。


ほんの少し――すぐ取り返して戻るから。


大事なしるしを探そうと、海の娘はきらめく尾をくねらせ、流れを逆らって川へと泳ぎ込みました。



深い海にくらべると、浅い川は水があたたかく、まるで浅瀬のようです。

しばらく進むと、娘は鮭に出会いました。


「鮭さん、鮭さん、私の真珠の耳飾りを知らない?」


「綺麗な海の子さん、泥だらけじゃないか。早く帰った方がいいよ」


「お願いよ。大事なものなの。

 なにか変わったことはなかった?」


「さあ、ねぇ……。ああ、今朝すれ違った泡の精は、海の気配をまとって上流に向かっていたよ」


「鮭さん、ありがとう。泡の精に尋ねてみるわ」


そう言って海の娘はさらに上流を目指しました。

滝や浅瀬は娘を傷だらけにし、娘は鱗を虹色に散らしながら、必死に水流を遡ります。



しばらく行くと、沢蟹に出会って尋ねました。


「蟹さん、蟹さん、私の真珠の耳飾りを知らない?」


沢蟹は見たこともない美しい海の子に驚き、腰をぬかしながらも、傷だらけの様子を見て、真摯に語りかけました。


「あんたさん、こんなとこまで来ちゃ駄目だよ。

 傷だらけで、身体も溶けかかっているじゃないか」


「大事なものを追ってるの。海をまとった泡の精をみなかった?」

「泡の精なら……さっきすれ違ったよ。あの、泉の方だ。

 だけど、あんたは早くもとの場所に戻るべきだね」


「蟹さん、ありがとう。でも、あと、少しだけだから――」


そう言って海の娘は、蟹が指した泉を目指します。

上流へ進むほど水は浅くなり、娘は裂けた尾で川底を蹴って、必死に前に進みます。しまいには、浅い流れはもう娘の足元を濡らすだけ。重たい身体を引きずりながら、それでも娘は前に進みました。



森の奥深く、隠れるような小さな泉に、泡の精と空気の精は虹色小枝を連れてきました。

何万年もの歳月が過ぎ、様子はすっかり変わっていましたが、懐かしい面影は残っていました。小枝がほう、と息を吐きます。


そのとき、深い泉から妖精が立ち上がりました。

「私の泉を騒がすのは誰かな?……おや、きみは」


まさにその瞬間でした。


「私の宝物! それを返して!」


海の娘は泉に着くや否や、宝物を見つけました。

そして、泡の精が掲げる真珠の耳飾りに飛びつきます。



そこから先は、とても不幸な事故でした。


慣れぬ大地につまずいた海の娘は、そのまま勢い余って泡と空気を巻き込み、泉の妖精を押し倒しました。



泡の精と空気の精が触媒となり、海と泉の魔術が交わります。

本来相容れないはずの魔術が混ざりあい、劇的な反応を示しました。


ぶわわわっ――


泉が爆発するように、水は膨れ上がり、岸辺を飲み込みます。

娘の海の魔術がすべてを巻き込み、ぎゅっとひとつにしてしまったのです。


海を抱いた泉の魔術は、水を無限に湧かせました。泡の魔術は水をふくらませ、その泡の魔術を空気の魔術が支え、延々と膨らませ続けるのです。


どうにか海の娘が泉から身をはなす頃には、海水があたり一帯を覆ってしまいました。


それはもはや泉ではありません。

ほんのり潮の香る、栄養豊富な大きな湖でした。



泡の精と空気の精は我にかえると、変わり果てた周囲の様子に驚いて、耳飾りを湖に落としたまま、どこか遠くへ逃げ出しました。



海の娘は顔を真っ赤にすると、一瞬、目を泡の精たちが去っていった方へ向けました。


ですが、目をつぶってひとつ深呼吸すると、泉の妖精をしっかり見すえ、真摯に謝りました。


「突然の無作法をお許しください。泡の精と空気の精が持ち出した、私の宝物の真珠の耳飾りを取り返しにやってきただけなのです」


あまりの状況の変化に追いつかなかった泉の妖精はつい棘ある言葉で返しました。

「へえ、理由さえあれば、大地のものなど好きにしていいと思ってるのか?」

「そ、そんなつもりじゃ――」

「泉の陰で希少な空魚の稚魚が隠れていたんだ。これじゃあ隠れる場所がない。すぐ捕食されて、どこにもいなくなってしまうだろう」

「ごめんなさい……」


相手の言葉に、娘は胸をぎゅっと掴みます。

泉はさらに深く息を吐いて、ぽつりとこぼしました。


「間口が小さい割に深いから、幾つかの門の役目も兼ねていたんだ。これじゃあ、役目も果たせない」


続く言葉に海の娘はふっと顔をあげました。


「……まぁ。移動させればいいの?

 それなら分かったわ、任せて。

 この湖は私の海水を帯びてるから、動かすことは簡単ないの」


「まさか。海流を司るという海の娘でもあるまいし、そんなこと――」

「あら、おあいにくさま。私がその海の娘よ。

 ほら、今、あなたの上から退けるわね――よっ、と!」


娘が潮の魔術を湖にこめると、水面がざぶざぶと波立ちました。

波は喜ぶように舞いあがり、寄せてはかえす波が湖全体をすうっと滑らせていきます。

まるで月に導かれる潮のごとく、湖は森を静かに切り拓き、気づけば泉の横に寄り添っていました。


「は、はは……」


あまりに急なことに、泉の精は動きをとめて、湖と泉を交互に見くらべ続けました。


その横で、手をひとつぱちんとならした海の娘は、胸を張って泉の妖精にいいました。


「さ、これでどう?

 不都合があれば移動できるよう、水の流れはあなたと繋げてあるわ。

 これが気に入らないなら、かえるから遠慮なく言ってね」


泉は一度眼を瞑ると、なんとか状況のみこんだような顔をして、海の娘に視線を向けました。

そこではじめて、娘のその傷だらけな姿に気づいた泉の妖精は、静かに問いかけました。


「いや。ところでそう言う君は、随分ぼろぼろのようだ。

 大丈夫なのかい? 僕の泉は癒やしでもある。……まだ君の耳飾りは、見つかっていないようだ。僕の中にはないから、湖の中にあるのだろう。……よければ少し、休んでいかないか?」


「ありがとう。さっきから、湖のなかを海流を使って探しているの。でも海水だけではないからから、とても探しづらくって。それに少し疲れてしまったわ。場所を借りてもいいかしら」


「もちろんさ。君は僕を助けてくれたし、とても疲れているようだ。ゆっくり休むといい」


海の娘は泉と湖の間に身を横たえると、身体を回復させるべく、静かに深い眠りにつきました。


泉の妖精は日に月に眠る海の娘に癒やしをかけ、生まれたばかりの湖の世話をします。


目覚めた海の娘が淋しくないよう、時折あたりに花を植えながら。時に水の澱を取り除き、綺麗な清流と清らかな風が彼女の隅々に行き渡るように世話をして。


眠りにつく海の娘の胸の上下に、微かに湖水の波紋が揺れ、潮の香りがそっと鼻腔をくすぐり、森の静けさと混ざり合います。


豊かな海の娘の魔術に、様々なものが引き寄せられますが、泉はしっかりと彼女を守り続けました。

そして、海の娘も眠りの縁から海の魔術を静かに贈り、泉と湖を優しく豊かに満たしていました。


いつしか泉と湖と海の娘は、互いに支え合う、かけがえのない存在となっていきました。


湖は泉から湖水に生きるものたちが豊かになるよう整え、森との折り合い方を学び、すくすくと妖精として成長していきました。

成長した湖の妖精は、海の娘の耳飾りが湖底の流木に引っかかっているのを見つけました。

しかしそれを渡したら、海の娘は海に帰ってしまいます。

あと少し、お母さまが目覚めるまで。

海の娘を母と慕ってから離れがたかった湖の妖精は、そっと湖底の奥深くに大事にしまいこみました。



一方、海では消えてしまった娘を探す王の姿がありました。


海の娘が海にいれば、姿が溶けて消えても、海にかえるため、王には容易に所在がわかります。


しかし、あの娘だけは――海のどこからも気配がしないのです。

それでいてなお、まだかすかに海の王とつながっています。

かろうじて、どこかに存在していることだけは、分かるのです。


海の王の胸は締めつけられるように重く、波間に揺れる自らの影を見つめながら、辺りに何度も呼びかけます。


――娘よ。

我が、愛娘よ――。


――どこにおるのだ。


海の娘は海流でできています。だから海から出ては長く生きられないのです。父王は娘を最後に見かけた海の外を少しずつ探していきました。




ある日、いつものように泉の妖精が海の娘と湖の世話をしていると、派手な男が姿を現しました。

黒と赤の裾を風になびかせ、外套からは物騒な甲冑がのぞいていて、熱のこもった視線で湖をねっとりと眺めました。


「ふむ、中々いい塩梅の湖じゃないか」


湖を不躾に見回した男はにやにやと笑っていいました。

「気に入った。俺の嫁にしてやろう」


その声と同時に、大地が震えました。

遠くの山が唸り声をあげ、裂け目から赤々とした溶岩があふれ出します。

熱風が溶岩に先じて森を焼き、黒い煙が空を勝ち誇ったようにのぼります。



泉は慌てて水を立ち上げ、海の娘と湖を覆うように守ります。

湖も大きく波立ち、炎の奔流に抗うように渦を巻きました。


しかし、炎と溶岩の勢いは止まりません。


その振動に湖は怯えるように身じろぎしました。あの溶岩が来れば、耳飾りはもう返せなくなってしまいます。

湖の妖精は覚悟を決めました。

湖底からひときわ強い光が浮かび上がります。


光はちゃぷり、とぷりと波にのり、泉の精と海の娘の前に現れました。

その光が落ち着くと、そこにはあの真珠の耳飾りが。


泉の精は真珠の耳飾りを湖から受け取ると、そっと海の娘に持たせてやりました。



耳飾りを手にした海の娘は、波が弾けるように目覚めます。

それから、溶岩流を見据え、持てる限りの魔術を込めて海呼び――父を呼びました。


「 お と う さ ま ――――――!」


それは禁忌の技でした。


大海そのものを呼べば、陸の上は一掃され、大惨事となります。

実際、下流の集落や森は一瞬にして波に破壊され、呑みこまれ、消えてしまいました。

後に海の王と娘には、陸に住むものたちの口からの数えきれぬ怨嗟が、とり巻くことでしょう。


でも泉と湖を守るため、海の娘に他のすべはありませんでした。

このままでは近接する森も焼けてなくなってしまいます。


声に応じるように川の先の大海は、一度静かに深く息を吸い込みます。潮は遥か沖まで引き去りました。


そして次の瞬間――破滅を告げる王の海馬が、大地を踏み鳴らしました。

轟きは波濤となり、押し寄せる水音とともに陸を震わせます。

その勢いのまま、父王はすべてを飲み込む貪欲な海を引き連れて、娘のもとへ駆けつけました。


途中、あの溶岩流が湖ににじり寄っていましたが、海の王の率いる勢いにかなうはずもありません。

溶岩流は海の威にふれた途端、じゅっと音をたてて黒く脆い岩へと姿を変えました。



すべてを呑み込んだ波濤が静まり返った時――ただ、親子の姿と湖と泉だけが残っていました。

王は娘を見つけると、その勢いのままぎゅっと抱きしめます。


「我が娘――やっと、見つけた」

「お父様……お約束を破ってしまい、申し訳ありませんでした」


きつい抱擁に、海の娘は目頭が熱くなりました。

それから父王はそっと身を離すと、娘の身体をさらりと確認し、嘆息しました。


「お前の身は潮で編まれている。流れを失えば、濁りも澱みも避けられん。

 それでも、誰かを嫉み恨むことなく、耐えたのか……。

 ……よく頑張ったな」


父王は澱を優しく流し、娘に綺麗な海流をそそいでやりました。

その瞬間、娘の頬には久しぶりに透明な笑みが浮かびます。

父は深く安堵の息をつきました。


「これで大丈夫だ……。もう心配はいらぬ。

 さあ、共に海へ帰ろう」


そう言って踵を返す父の袖を、当の娘が慌ててつかみました。

「お父様! 待ってください。

 ここには私の大事なものたちがいるのです」


「泉の伴侶に、湖の妖精?

 ……なんと」


王の声は驚きと誇らしさに震えていたが、すぐに深い影を落とした。


「しかし、娘よ。お前は海流なのだ。海を離れれば離れるほど、その身は澱み、やがて力を失う。それに陸の者にとってその潮の濃さは毒となる。森も、泉も、湖さえも。お前を愛するものたちを傷つけかねぬ。

 私は……お前を二度とは失いたくはない」


海の娘は唇を噛み、胸に手を当てた。


「でしたら……私は海に戻りましょう。けれど、時折で構いません。どうか、新しい家族に逢える機会をお与えください」


「海の王よ。どうか、お願いします」

「ふむ。どうしたものか……」


泉の精は父王の躊躇を見てとると、即座に海の娘に向き直り、こっそりといつかの為に計画したことを実行しました。


「――優しく豊かな海の娘よ。あなたは私の大事な想い人。

 どうか、この流れを絶たないでください。

 あなたが来てから、森の緑は濃く、泉の水は澄み渡りました。

 私はその清流でひとつの珠を育ててきました。

 どうか受け取ってください。これは私の想いそのものです」


泉の精は言葉と共に、密かに身のうちで育てていた淡水真珠を海の娘に贈りました。


「ならぬ! 許せるものか……!」

「お父様?!」


荒ぶり割り込んだ父王はその勢いのまま、淡水真珠を掴むと遥か遠くに放り投げました。

ありえない行為に、娘は父に非難の目を向けます。

その視線の強さに、悲しげに眉をひそめた海の王はひとつ咳払いをしました。


「……泉よ。もしどうしても、娘を伴侶に迎えるというならば。私が隠した真珠を見つけてくるがいい。真珠は海と泉の間の地中奥深くにある。

 その時には、私はお前を娘の伴侶と認めよう」


父の言葉に娘は泉に語りかけます。


「いいえ、泉さん。私はあなたの気持ちを受け取ったわ。伴侶になるかどうかは、当人同士の問題だもの。父など放っておいて、私と一緒になって」


「……あなたがそう言ってくれるのは、なにより嬉しいよ。

 だけど、どうせ伴侶になるのなら、君の家族にも認められたいんだ。

 なにより、あの想いの結晶をあなたに持っていてほしい」


そう言って、泉の精は、泉の底の更に先掘り返しました。

深く深く掘り進むうちに、海水が混じりはじめます。

泉と反する性質に、妖精の身体はあちこちに亀裂が入りました。


それでも構わずさらに先に進むと、虹色に結晶化した大木が燦然と輝いていました。


「これは、見事だ……」


泉の精は大木を海水から守るように淡水で包み込みます。

その水の中で、大木は安堵の息をするように枝を結晶流木として落としました。



泉の精は枝を耳飾りに合わせて慎重に切り出し、最後に万年氷で銀細工の装飾を施しました。


「……できた」


出来上がった耳飾りは、海の娘の耳飾りの金をそっと銀に変えたかのように、まるで鏡写しのように美しく輝いていました。



気づけば、妖精は泉から随分と離れたところまで、来てしまいました。ここから泉に戻るのは容易ではありません。

よく見ると、泉へ続く水の流れは、潮流によって断絶されています。


このまま潮流に乗ってしまえば、泉に戻ることはできず、泉から離れすぎた妖精は消えてしまうでしょう。

そんなことをしている暇はありません。


上では、海の娘と湖が、静かに、しかし確かに待っているのです。


泉の精は、潮流をひとつひとつ越えながら、泉へ続く水流を探し、魔術を編み込むように進みました。


「なんてことだ……」


複雑に絡み合う海流を巧みに躱し、解きながら、あともう少しで泉――というところまで辿り着くと、目の前には冷えて固まった硬い岩が道を塞いでいました。

分厚い岩盤は泉の魔術を吸い込むばかりで一向に傷ひとつつきません。


「こんなところで、諦める訳には、いかないんだ!」


妖精は最後の力を振り絞り、水流を絞り込んで素早く渦を巻かせ、岩に穴を穿ちます。


「……っ!!」


突如、岩が轟音とともに裂け、その合間から真っ赤に溶けた溶岩が流れ出しました。

先ほどの溶岩流は、表面は冷えても、まだ内に熱を蓄えていたのです。


妖精は一瞬身を引き、炎の奔流を受け止めるために魔術を広げます。


炎と溶岩の奔流は泉を押し返します。泉の魔術の生成が追いつきません。

熱の波が皮膚を焦がし、水も魔術も蒸発し、霧のように薄れていきます。

背後には戻れぬ断絶した潮流、前には破れぬ岩壁――逃げ場はどこにもありません。


そうして追い詰められた泉の腹を溶岩流がかすめました。


蒸発していく泉の精の中で、最後の水滴と魔術の残りが小さく震えます。

姿を保つことすら困難になってきました。


それでも、上で待つ海の娘と湖の存在が、かすかな光となって泉の精を支えていました。


しかし、その光も、もう限界です。


「…………ここまで、か……」


ごぉん――


突然、溶岩とは違う方向から地響きが響き、冷たく澄んだ水が泉の精に降り注ぎました。

大量の水に、小さくなった溶岩はあっという間に流されました。


「湖……?」


湖は泉の精の帰りが遅いことを案じ、海の娘が父王の気をひいている内に、密かに泉の精を探してくれたのでした。


溶岩を排除した澄んだ湖の水流は、泉の精を抱きかかると、優しく、しかし力強く妖精を水上へと押し上げます。


「泉さん!」


湖に持ち上げられた泉の精は、歓喜の声をあげる海の娘に、淡水の耳飾りを差し出しました。


「お願いだ。どうか、私の伴侶に」


海の娘が駆け寄ると、泉の精は真珠の耳飾りとは反対の耳に、そっとかけてあげました。


「――もちろんよ」


ころりと真珠のような涙をこぼし、海の娘は頷きました。



「婚姻は成された――」


厳かな海の妖精王の声とともに、荒れ狂っていた海は静かに退きはじめます。

海の娘の耳飾りがふたつ、ふわりと妖精王の手に渡りました。


海の王は、ふたつの真珠の耳飾りの魔術と縁をしっかり結び合わせると、海の耳飾りを泉の精に、泉の耳飾りを娘に授けました。


それは契約の証。

この時より、泉の精と海の娘は夫婦となったのでした。




夏至の日、泉と湖は賑やかです。

太陽はまだ高く、長い光が水面を照らし、湖も泉も燦然と輝きます。


特に泉の精の耳飾りは、海の気配に喜ぶように、何度もきらきらと煌めきをこぼしました。


今日は年に一度、海の娘が泉の精の作った水の流れを辿り、二人の元へ帰ってくる日。


水の上には小さな光の粒が舞い、風に揺れる草や樹々も、まるでこの日を祝うかのようにそよいでいました。


「やあ。相変わらず君は美しい」


海の娘が水面に姿を現すと、泉の精は思わず息をのみました。

水面に映る彼女の複雑な青の長髪は光を受けて波のように揺れ、その隙間から、淡水の耳飾りはさりげなく輝いていました。


「そう言うからには、今日こそキス以上のことをしてくださるのよね?」


軽やかな声に、泉の精の胸は跳ねました。

水滴が小さな虹を描き、湖面に二人の影を揺らめかせます。


「……だから、それは、少しずつすすめないかい…?」


二人の間の空気は、夏至の光よりも熱く、湖の波紋すら微かに弾んでいるようでした。泉の精は手を水面にかざし、ひんやりした水の感触に緊張を落ち着けながらも、視線は離せません。


「まったく! いったいいつまで待てばいいのかしらね?」

海の娘は泉に手をかざし、波紋を揺らしながら笑います。


「……あら、湖ったら、また一段と澄んで美しくなったわね。

 可愛かったあの頃が懐かしいくらいだわ」


目を細め、まぶしそうに光を受ける湖面を見つめます。湖はちゃぷり、と娘の手の甲を撫で、何かを言いたげに揺れました。


「――え? 泉の虫除けの為に、清らかさを磨いているの?」


湖の声なき言葉に目を丸くした海の娘――湖の母は、首を少しかしげると、軽く声をたてて笑いました。


「……なるほど、大丈夫よ。母に任せなさい。

 横恋慕なんか、束ねてまとめて海に押し流すから、不安なんて放り投げてしまいなさい」


真珠を揺らしながら楽しげに話す声に合わせ、湖面も小さく弾み、光がきらめきます。


「――さて、あなた? 今夜を楽しみましょうね?」

「あ……ああ、お手柔らかに頼むよ――」


満月よりも輝く海の娘の笑顔に、今日も泉の精は覚悟を決めたのでした。


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