揺り籠の眠り
紫苑がとても難しい手術を受けることになったのは、彼が中学校最期の夏だった。お父さんもお母さんも、とてもピリピリしていて不安そうだった。だから、僕はそれがとても危険な手術なのだとわかった。紫苑は一見何でもないように過ごしていた。ただ、時折考え込むように何処でも無い場所に視線を向けていた。
「白雨」
手術のために入院する日、紫苑は玄関の前で僕を呼んだ。
いつもと違って僕を白雨と呼んだ彼に、僕は彼が今とても真剣なのだとわかった。
彼はとても綺麗にわらった。
「元気になって帰って来るから、待っていて」
いつもの穏やかで優しい声だった。
僕はただ差し出された手に鼻先を近づけて、頭をすりよせた。待っているよ。だから帰って来てねとそういう願いを込めて。
今までより更に遠い場所にある病院だった。だからいつもみたいに彼の下に通うことは出来ないと彼に前夜僕は教えられていた。多分いつものように僕が近くの病院に行かないよう彼は言い聞かせたのだろう。
僕は彼の側にいつものように居られない。
僕は紫苑の両親が彼に付き添う間、彼の親戚の家に預けられた。
僕はただ、彼が帰って来るのを待っていた。
運命とは時に皮肉だと思う。
彼の手術が無事に成功し、後は回復を待つばかりだという連絡を貰ったのは僕が紫苑の従兄の家に預けられて1ヶ月程経った夜のことだ。
「良かったな」と頭を撫でたのは高校生だという彼の従弟で、声が彼と良く似ていた。僕は安堵で胸が一杯で、その日久しぶりによく眠れた。
彼の従兄の名前を春也と言った。春也の両親は共働きで、とても忙しいらしかった。だから僕の世話は彼がほとんど全て見てくれたと言って良い。
彼は紫苑と良く似た声を持つ、温かな日向のような人だった。紫苑も穏やかで優しいけれど、それとは少し違うどこか儚い温かさだった。
僕は紫苑とは違った意味で彼のことが好きだった。優しすぎて自身を守れない所が二人はよく似ていた。
紫苑の両親から連絡があって更に2か月。その日、紫苑が帰って来ると知っていた僕は朝から落ち着かなかった。
大好きな人が戻って来るのだ。
春也はそんな僕をわらって、散歩に連れ出してくれた。
「あと、2時間もすれば帰って来るよ」
優しく言って、春也は僕の頭を撫でた。
3か月近く通った散歩道。僕と春也はいつものようにゆっくりと歩いていた。
「春也」
誰かの声が春也を呼びとめた。足を止めた春也は少し身体を緊張させていた。だから僕はそれがあまり良くない相手だとわかった。
二人は暫く話をしていた。一方的に声をかけて来た男のほうが怒っているようだった。春也は懸命に男に何かをわからせようとしていた。
けれど、いくら春也が話して聞かせても男は耳をかさず声を荒げていった。
どうしてだろう。今でも良く分からないけれど春也の誠意は相手に通じず、男はポケットから何かを取り出して、春也に向かって来た。
春也が必死に避ける。男は何か言っているけれど、よくわからない。ただ、男の手の中の狂気だけが脳に映し出される。
避け続ける春也にほんの一瞬だけ隙が出来た。男と揉み合いになった春也が倒れる。
守らなければ、ただそれだけを思って僕は春也の前に飛び出した。
錆臭い、独特の臭いがした。
春也の呼ぶ声がした。
男が取り押さえられるのが遠くに見えて、緊張がきえる。
春也が泣き出しそうな顔で僕を抱いていた。
やはりその顔が紫苑に似ているなと思った。大丈夫だよ、そう伝えたくて彼の手をなめた。
春也の目から涙が落ちるのが見えた。
声が聞こえた。一番大好きで、誰より大切な人の声だ。
瞼を必死に開けると、探していた人の姿が見えて尻尾を振った。でも、何だか力が出なくて直ぐに少しだけ上げた頭も振った尻尾も落ちてしまう。
どうしてだろう。
でも、今は漸く会えた人の顔が見たくて落ちそうな瞼を開き続ける。
紫苑。元気になったんだね。
うれしくて目を細める。
「白雨、はくっ…」
紫苑の目から涙が溢れて落ちてくる。
今まで見た中で一番哀しい、痛そうな、切ない顔だった。
「白雨。死なないで。やっと会えたのにっ……」
声が震えている。延ばされた手もだ。
死なないよ。だって紫苑に漸く会えたんだもの。
「はく、う……」
あぁ。でも、紫苑の後ろに見えた春也の存在で自分に起こった全て思い出した。
あの時は痛くて、でも今は何も感じない。だから代わりに、こんなに眠くなっちゃうのかな。
やっと、会えたのにさよならは嫌だな。
でも、紫苑が元気で帰って来てくれたから一番の願いは叶ったんだ。それに、僕は君と違っていて、どこか似ている春也が傷つくのはやっぱり見たくないんだ。
少し遠くに居る春也に視線を送る。お父さんもお母さんも居たんだね。
お父さんが泣くのをはじめて見た。お母さんが青白い顔をしている。
あのね、紫苑。
しっかりと大好きな琥珀色の目を見つめる。
僕は、紫苑が一番に大好きだよ。あの時君と出会って、僕は温かいってどういうことか知ったんだ。家族になって幸せってどういうことか分かったんだ。
だからね、君と会えて良かった。
君の温かい手に頭をすりよせる。
君の手が好き。君のまとう匂いも、温かい体温も大好き。
「はく……、はくう」
また、会おうね。紫苑。
僕の世界はそして、白い闇に覆われた。
これが僕の物語。大切な記憶。
泣いてくれてうれしかった。呼んでくれて幸せだった。最後まで抱きしめてくれていたの、僕わかっていたよ。
やっぱり、君と会えて良かった。そう思うんだ。
だから。また、会えるよね。紫苑。
これにて、全3部で完結です。
もの哀しいラストになってしまいましたが、白と紫苑の話は書き始めた時から終わりを決めていました。紫苑の今後や、二人がまた出会えるシーンなども考えていたのですが、ともかくこれで『僕の世界』は完結とします。
読んで下さった方がいれば、うれしいなと思います。