あの木の下で
春の訪れを感じるような軽やかな風が吹いた。
それに乗って鼻をかすめた匂いが去年の記憶を呼び戻した。
まだまだ冬の厳しい寒さが続く頃、桃子はふと背後に人の気配を感じた。
「今日は特に素晴らしい音色だったよ。」
相原家の大黒柱である相原勇が桃子に声をかける。
相原財閥として政界との強い繋がりを持ちその敏腕さから恐れられてもいる勇だが、家では子煩悩で優しいようだ。
「次は僕と一緒に弾いてください。」
そう話しかけるのは弟の正雄。
三歳差の正雄は幼いころから桃子に引っ付いて回り、相原家の跡取り教育を受けている今でも変わらずに姉弟仲が良い。
「おやつを食べてからにしなさいな。」
正雄を諫めるかのように白い皿を持った母が声をかける。
シンプルながらも外側に波打ったような模様が描かれている皿の上には大きなイチゴのショートケーキが乗せられている。
大人はコーヒーと共に食べるようだ。桃子はまだコーヒーの苦みの良さが分からなかった。
優しい両親とかわいい弟との家族団欒。
桃子が幼いころから何ら変わらないこの風景が桃子は大好きだ。
令和の世でも高級住宅街と言われている田園調布。
相原家はこの一等地に家を構えていた。母屋には祖父母が、桃子が産まれたことをきっかけに新しく建てた二階建ての洋館に勇らは居を構えていた。
休日になると母屋へ行き、縁側で緑茶を飲みながらくつろぐことが習慣になっていた。
この日もいつものように朝起きると家族で食卓を囲み、弟と家を出て途中まで一緒に歩き、学校へと向かった。
桃子が通うのはいわゆる「良妻賢母」を育てることを目的とする女学校だ。
しかしこの時代としては珍しく女性教育を重視しており、裁縫などの実科授業の他に文学や歴史の授業が行われているのだ。
勇は女性の社会進出が必要との認識を持っており、桃子はここに通うことになったのだ。
「~であるからして紫式部は中宮彰子に仕えており~」
窓から太陽の光が差し込み人々の眠気を誘う陽気、今日は平安文学の授業が行われている。
読書が好きな桃子にとってこのような時間は楽しいものであった。
授業が終わると友達の雪子と珠代と橋の手前まで一緒に下校する。
雪子は背の高いおとなしい性格で、珠代は気さくでなんでも面白おかしく話してくれる。三人とも性格はバラバラだったが滅多に喧嘩することはなく、したとしても次の日には何事も無かったかのようにけろっとしてまた集まっておしゃべりをしていた。
学校ではいつも一緒に過ごし、休日でもたまにみんなでお茶屋さんに行ったり落語を見に行ったりすることもあった。
橋の手前で雪子と珠代は角を右に曲がり、桃子はそのまま橋を渡る。
家の方向が違うという理由と桃子がお気に入りのお団子屋さんに行くためであった。
一週間頑張ったご褒美として、毎週金曜日にこのお団子屋さんに寄ってお団子を食べるのを桃子は楽しみにしていた。
「餅丸堂」というこの店は厳密に言うと団子屋ではない。元々は餅屋なのだ。
近所の人々は「おもちさん」と親しみを込めて呼び、餅屋の片手間に売り始めた団子が今や看板商品となっているのだ。
桃子のお気に入りはみたらし団子。
その名の通り餅はもちもちしていながらもつきたてのつるっとしたのど越しが感じられ、継ぎ足されてきた醤油と砂糖の甘じょっぱいタレの魅力に取りつかれている。
「こんにちは、今日もみたらし団子1本ください」
「はいよー今週もお疲れ様ね、桃子ちゃん。いつもありがとうね」
相原家では代々餅丸堂でお正月の飾り餅を購入している。桃子を母のお腹の中にいる頃から知っている餅丸堂のおばあちゃんは実の孫であるかのように接してくれる。
父親の権力に取り入るために桃子にも媚びを売る人間と日々接している桃子にとって餅丸堂のおばあちゃんは態度を変えずに話してくれる貴重な存在だった。
「今日は席がもう空いてないのよ。ごめんね」
店の一角に茶屋に置かれているような椅子がある。そこで購入した商品を食べられるようになっているため、そこに座り団子を食べるのが桃子の毎週金曜日の流れなのだが、今日は珍しく埋まってしまっているようだ。
「大丈夫ですよ、河川敷に座って食べますから気になさらないでください」
「悪いねえ、おまけにもう一本つけようかねえ」
おばあちゃんは陳列棚からみたらしとあんこの二本を取ると「はいよ」と桃子に手渡した。
このあんこ団子はほくほくした小豆が残りながらもとろっとしていて舌ざわりが良く、くどくない甘さが特徴的だ。
このあんこ団子も桃子のお気に入りの一つだ。
あんこ団子とみたらし団子二本を手に持ち、桃子は河川敷へと向かう。河川敷は風が通り抜ける気持ちの良い場所で、ぼうっと時間を過ごすのにはもってこいの場所だ。
桃子は大きな木の近くに座ることにした。ほどよく木陰になっていて直接日光を浴びる心配が無かった。
「とんびに取られないように気を付けましょう」
そう独り言を呟きながら、座れるように手拭いを広げる。
がさがさ、桃子の近くで草が揺れる音がした。
「んん…」
うめき声がする。その声で初めて河川敷に人が横たわっていたことに気づいた。
「大丈夫ですか?ご気分でも悪いのですか?」桃子は声をかける。
「ん、すみません、いつの間にか寝てしまっていたみたいで」
眠っていた青年がそっと目を開けた。吸い込まれるように澄んだ瞳がこちらを見た。
「いえ、ご無事なら何よりです」
「心配してくださりありがとうございます」青年はがばっと起き上がると桃子に礼を言った。
ぐぅ、その時お腹の鳴る音がした。
青年は自分のお腹を見て恥ずかしそうに笑った。
「昼ごはんも食べずに作業に熱中してしまっていて」
「まあ、そうでしたの」
そこで桃子は自分の手にある団子二本の存在を思い出した。
「あの、お腹の足しにはならないかもしれませんがよろしければこちらどうぞ」
「いえいえお気になさらず」
青年は慌てたように顔の前で交差するように両手を振る。
「一本はおまけして頂いたものですの。お夕飯の時間ももう近いですし、実は二本も食べて良いものか悩んでいましたの。私を助けるつもりと思って食べていただけませんか?」
本当は二本とも食べる気でいたのだが、放っておいたらこの青年は倒れてしまうかもしれないと心配した。
「本当によろしいのですか?」
「はいもちろんです」
桃子は自分が好きなみたらし団子を差し出した。
「僕みたらし団子が一番好きなんです。嬉しいですありがとうございます」
青年は好きなものを目の前にしたからなのだろうか、少し早口であった。
自分があんこではなく一番好きなみたらしを差し出した理由が桃子には分からなかった。
「本当ですか?良かったです」
桃子はふわりと笑ってあんこ団子を一口食べた。
「このみたらし団子すごくおいしいですね」
青年は団子を食べると瞳をきらきらさせながら言った。
「今までで一番おいしいです」続けて青年はそう言うともう一口食べた。
「それは大げさじゃないですか?」
桃子の言葉にふふっと笑い「本当なんだけどなあ」と青年は唇をとんがらせながら答えた。
顔を見合わせ、次は二人で声を出して笑った。
二人はお互いのことについて話した。青年は瀬川宗武と名乗った。今はまだ卵だが小説家を夢見ていると言う。
「まあ、小説家を目指していらっしゃるのですか?」
「はい、とは言ってもまだまだですが」
そう答えると瀬川は煙管に火をつけた。
出版社に送る小説を書くのに煮詰まり河川敷に来てそのまま寝てしまっていたのだと言う。
読書が好きな桃子の目に瀬川は好ましく映った。
煙管を吸う人は苦手であったが今日は気にならなかった。
二人はその後も何度も会った。示し合わせずとも。
迷惑かもしれないと考えながらも桃子の足は河川敷へと向かい、瀬川もいつも同じように河川敷で桃子を迎えた。
取り留めもしない会話を楽しんだ。両親のこと、学校のこと、小説のこと。
父親の仕事の話をしても瀬川の態度は変わらなかった。
「どうして瀬川さんは何も変わらないのですか」
桃子はその態度に驚き尋ねた。
「どうしてって言われても」
瀬川は困惑したような表情を浮かべ頭をかいた。
「桃子さんと話したいから会っているだけあって…」
瀬川は桃子の家が財閥だとしても自分には関係ないのだと言い切った。
桃子はその新鮮な反応が嬉しかった。
「桃子さん、今度は別の場所で会いませんか?例えば、ほら、喫茶店とか、」
恥ずかしいのか耳を赤くしたまま語尾はしぼむように、目線を外して言った。
「良いですね、私スパゲッティーを食べてみたいです」
「本当ですか、断られるかと思いました。いくらでもスパゲッティー食べましょう」
「瀬川さんのお誘いを断るなんてしませんよ」
そう言った後で桃子も恥ずかしくなって顔を赤くした。
野菜の甘さとケチャップの酸味が抜群に調和したスパゲッティーは早々に食べ終えると二人は話に花を咲かせた。
時間はあっという間に過ぎ、ふと窓を見ると太陽が傾いていた。
いつの間にか家族や友達には抱かない感情を持っていた。ときめきと安心感のどちらも持ち合わせた瀬川と過ごす時間は「幸せ」と言う外になかった。
ある日雪子と珠代と遊んだ帰り、玄関に入ると父が桃子の帰りを待っていた。
「おかえりなさい」
「お父様ただいま帰りました」
「大事な話があるのだが」
勇は改まって言い、桃子に座るように勧めた。
「三安商事の事は知っているか?」
「三安家がされている事業のことでしょうか?」
「そうだ」
三安家とは相原家に並ぶ日本屈指の財閥の一つである。
「その三安家がどうかされたのですか」
「三安の長男と桃子との縁談を持ってきたのだよ」
「まあ縁談ですか、?」
桃子は驚いた。
三安家と相原家の縁談、つまり政略結婚を表していた。
この二つが協力すると日本で一番の財閥になり強大な影響力を持つことができる。両者ともに有益であることは容易に想像がついた。
「早速今週の日曜日二人で軽く食事でもしてきなさい」
両家の親も交えてのお見合いではないことに桃子は安堵を覚える。
いつかは誰かと縁談することになると想像はしていたがこんなにも早いとは考えていなかったのだ。ましてや瀬川という人物に自分は今好意を寄せているのに。
空気がしんと冷たい日曜日の朝を迎えた。
この日を迎えるまで約一週間、桃子は河川敷を訪れることができなかった。
瀬川が待っていてくれると分かっていたが、会ってしまうと自分は縁談に行かないかもしれないと考えたからだ。
三安家の長男、三安林太郎とは演劇を見た後に食事をした。
「このスパゲッティーおいしいですわね」
瀬川と行った喫茶店とは比べ物にならないくらい高いお店だった。しかし無意識に瀬川と食べたスパゲッティーを注文していた。
「喜んで頂けて良かったです」
林太郎は高身長で柔和な顔立ちの人間だった。特に癖は無く話していて不快感を覚えることは無かった。
だが成長してきた環境が似ているせいだろうか、新鮮味は無く会話もすぐに途切れてしまう。
こんな時瀬川さんだったらなんて言うのかしら、林太郎と喋っていても桃子はいつの間にか瀬川の事を考えてしまっていた。
家に帰ると勇が玄関で待っていた。
「おかえりなさい、林太郎君はどうだったかね」
「ただいま帰りました。三安さんはとてもお優しい方だと思いました」
桃子は言葉を選びながら言った。
「そうか、それなら良かった」
勇は居間に入ろうとした途中で振り返り桃子に話しかけた。
「そういえば、瀬川という男を知っているか」
「瀬川、ですか?」
桃子は激しく動揺した。勇に瀬川のことを話していないはずなのだが。
「ああ、瀬川宗武とか言っていたな。」
宗武は珍しい名前だ。桃子の知っている瀬川で間違いないと直感的に気づいた。
「知らないならそれで良いのだ。ただそいつは桃子との将来を考えているとほざいたものでな。少々気になったのだ」
桃子は一瞬真実を伝えるべきか迷った。しかしこちらを見つめる父の目に隠し事はできないと思った。
「お父様、実は私最近瀬川さんと仲良くさせていただいています」
「そうか、それではもう会うのをやめなさい」
「それはあまりにも、」
「なんだ、もしや付き合っているのか」
桃子は一瞬言葉に詰まった。
これといった明確な告白はされていなかった。自分たちは果たしてお付き合いをしていると言えるのか、本当は桃子だけ想っているのではないか、不安な気持ちがぐるぐると頭を駆け巡った。
「いえ…」
「それならば何も気にすることは無いな。第一身分が釣り合わん。それに三安家に知られればなんと言われるか分からん」
父は怒ることもなく淡々とそう言った。
「そんな…」
「最悪この話は破談だ。そうなれば会社にも影響が及ぶ、そんなことは桃子だって分かっているだろう」
「はい、分かりました…」
桃子は床を見つめそう言った。
了承する外に残された道はなかった。桃子は何もできない自分の無力さを悟った。
気づけば桃子は家を出、足はいつもの河川敷に向かっていた。最後に一目だけでも会いたかったのだ。
瀬川はいつもと同じように煙管を咥えて寝そべっていた。傍らには紙と鉛筆がある。今しがた小説を書いていたのであろう。
「瀬川さん、」
そう呼びかけると瀬川は初めて出会ったときと同じようにがばっと起きた。
「桃子さん!」
「最近全然来なくてごめんなさい」
「いえいえ、僕の方こそ急にお家に押しかけてすみませんでした。体調を崩されているのではないかと心配になってしまいまして」
「いえ、体調は良いのですが、」
「そうでしたか。それなら良かったです」
瀬川はそう言って笑みを浮かべた。
「瀬川さん、あの」
「どうしましたか?やっぱりどうかされましたか?なんだか顔色も良くないような」
「大丈夫です。あの実は父が縁談を持ってまいりましたの」
「へぇっ縁談ですか?」
瀬川は素っ頓狂な声を出した。
「なんともそれは急な話ですね」
「はい」
「お相手を聞いても?」
「三安財閥のご長男です」
「三安財閥、それはなんとも良いお相手じゃないですか」
そう言いながらも瀬川は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そうなのですけれど」
「それで、どうするんですか?」
瀬川はくるっと桃子に背を向けそう言った。
「どうと言われましても」
桃子が家のためにどういう行動を取らなければいけないのかなんて、とうに分かっているだろうに。
瀬川はくるっと向き直り
「桃子さん僕と駆け落ちしませんか」
桃子の目をまっすぐに見つめてそう言った。
「駆け落ちですか?」
瀬川が突拍子もないことを言い出したと思った。
「はい、僕は桃子さんと一緒になりたいと思っています。
だけど身分が釣り合わないと仰るご家族のお考えも分かります。そうなると残された道は駆け落ちするしかないと思うんです」
瀬川の分かりやすい説明はその方法しか二人が幸せになる道は残されていないように感じさせた。
「桃子さんが僕と一緒になりたいと思っていたら、二週間後ここに来てください」
「本気ですか?」
「本気です」
即答した瀬川の目に確かに嘘は無いと思った。
「考えても良いですか」
「もちろんです」
そうして二人は別れた。
二週間後、桃子は河川敷に行かなかった。連絡もしなかった、できなかった。
瀬川が待っていると分かっていた。だが行かなかった。
桃子は相原家を捨てられなかったのだ。
悩みに悩んだ末、桃子は瀬川ではなく相原財閥を選んだ。
瀬川には好意を寄せていた。
だが幼い頃から刻まれた長女としての役目を果たさなければいけないと思った。
林太郎との縁談は着々と滞りなく進み、来年の春には結婚する手筈だ。
何事も順調に進んでいた。
ある日の晴れた昼下がり、桃子は自室で探し物をしていた。
「あら、こんなところにあったの」
すると懐かしいものが出てきた。
それは母方の祖母からもらった刺繍入りのハンカチだった。母方の祖母は刺繍が得意だった。
滅多に会うことは無かったが針と糸で魔法のように縫っていく姿が好きでよくねだって刺繍をしてもらっていた。
祖母が亡くなってからは悲しさを思い出したくなくてしまい込んでいたのだ。
ハンカチの刺繍をなぞりながらそんな祖母との思い出に浸っていた桃子の目は本棚の上にそっと置かれた本を見つけた。
瀬川からもらった本だった。
文学好きな桃子のためにおすすめの本をくれたのだ。
好きな作家や今書いている小説のことを話すときの瀬川の目は輝いていた。
そして桃子を見つめる目はいつも優しい笑みを浮かべていた。
その時桃子の目から涙が溢れ出した。ぽとぽととハンカチに落ちる。
どんどん大粒になるその涙は蓋をしていた瀬川への忘れられない気持ちを思い出させた。
瀬川に会いたいという気持ちと勝手なことをしたのだから会うことはできないという思いが交錯していた。
瀬川とのたくさんのきらきらとした思い出が走馬灯のように巡る。桃子は泣いていることが両親に見つからないように口を押さえて泣いた。
人生でこれほどないくらいに嗚咽した日だった。
その日桃子は涙が枯れるほど泣き、夕ご飯の時間だと呼ばれたことにも気づかずいつの間にか眠ってしまった。
桃子は次の日から刺繍を始めた。毎日自室で少しずつ作業を進めた。
学校の授業の裁縫の授業だけではなく祖母の影響もあるため、桃子は刺繍を他の人よりも得意としていた。
刺繍をしている間は瀬川のことも相原財閥のことも林太郎の事も何も考えずに無心でいられた。
春の陽気が感じられるようになった頃、縁側で日向ぼっこをしながらぱらぱらっと雑誌をめくる。
すると桃子は思い立ったかのようにある場所へと足早に向かった。
「瀬川さん!」
そこには久しぶりに見る瀬川の姿があった。
「桃子さん、」
息が漏れるように瀬川が名前を呼んだ。
「ごめんなさい、私、やっぱり…」
「無理に話さなくて良いですよ」
瀬川は桃子の背を撫で落ち着かせる。
「私最後にやっぱり会っておいた方が良いと思って」
「うん」
瀬川は最後という言葉が気になったがそれには触れずに話を促した。
「『文芸月草』を読んでいたら新人賞を取ったって、瀬川さんの名前を見て、」
「読んでくれたんですか」
「はい、とても面白かったです。新鮮味のある展開で瀬川さんらしいと思いました」
「ありがとうございます。あぁ嬉しいな、桃子さんに読んでもらえてまた会えたなんて」
瀬川は感動して空を見上げた。そうしていないと目に溜まったものが零れてしまいそうだった。
そんな姿を見て桃子は瀬川と会ったことを少し後悔した。
いつまでもこの人の隣に居たかった、
瀬川はこんなにも私の事を受け入れてくれているのに私はそれに応えることができないと心の中で呟いた。
「桃子さん、これからもたまにはこうして会いませんか、もちろん、その、お友達として」
桃子には瀬川の気遣いに心を痛めた。
友達として、などと言いながらも自分の気持ちを隠しているのが丸わかりだったからだ。
「瀬川さん、」
桃子は意を決して呼びかけた。
「私、来月結婚するんです。あちらのお家に引っ越すんです。だからもう会えないです。ごめんなさい」
「結婚ですか?あの、三安家の坊ちゃんとですか?」
「はい、そうです」
「そんな…あまりにも早くないですか?やはり僕と一緒にどこか行きましょうよ」
これまでとは違い少し強引に伝えた。
瀬川はそこまで言うと桃子が困った顔でこちらを見ているのに気づいた。
「すみません、それは言ったらいけませんね」
いつものように笑顔でそう否定した。
「本当にごめんなさい。私はどうしても家を捨てることができなくて」
桃子の目にどんどん涙が溜まっていくのが見てとれた。
「泣かないでください。良いんです。桃子さんが元気でいてくれさえすれば」
「ごめんなさい、本当に。私自分勝手で」
「桃子さんが謝ることは何もありませんよ」
「ありがとうございます」
桃子は瀬川の器の大きさに感謝した。
「あの、これ」
そう言うと桃子はあるものを取り出した。
「これは?」
瀬川が問いかける。
「私が刺繍したんです」
桃子はそっと瀬川にハンカチを渡した。
「桃子さんが僕に」
祖母からもらった刺繍ハンカチを見つけて、自分も何か瀬川に残せないかと思ったのだ。
渡された方はずっと思い続け、辛い気持ちにさせることが分かっていながらも渡さずにはいられなかった。
「この刺繍は桃ですか?」
桃子が祖母からもらったハンカチでそうしたように、瀬川も桃子からもらったハンカチの刺繍をなぞりながらそう言った。
「はい桃の花びらです」
「じゃあこれを見る度に桃子さんを思い出しますね、絶対に忘れないですよ」
語尾に力を込めて言った。
「私も忘れないです瀬川さんのこと。瀬川さんの執筆もずっと応援しています」
「ありがとうございます」
そう言っていつものように微笑んだ瀬川の目は潤っていた。
「じゃあ、私はこれで…」
「さようならとか言っちゃだめですよ?」
瀬川がおどけたように桃子の顔を覗き込みながら言った。
「そんなこと言ってしまったらまるで一生会えないみたいですよ。いつの日か会えますよ、きっと」
瀬川は右手で冷たく震える桃子の手をそっと取り、左手で肩を抱きしめた。
二人が触れ合ったのはこれが初めてだった。
「そうですね、それでは瀬川さん、また。お身体にお気をつけて」
桃子はぎゅっと控えめに抱きしめ返した。瀬川の腕から抜けると涙を手で拭って告げた。
「はい桃子さんお元気で」
未練が募るばかりでもこれ以上お互いを苦しめないようにと静かに、そして穏やかに返した。
またね、と二人は別れ、桃子は瀬川に背を向けた。
瀬川は桃子の姿が見えなくなるまで見つめていた。
一度も振り返らないその姿は細かく震えて見え、振り返ることを我慢しているようでもあった。
桃子が帰路につくことを確かめると瀬川はゆっくり一歩を踏み出す。
冬の凍えるような風とは違うやわらかな風がすうっと吹き、瀬川の肩に桃の花びらがそっと乗った。
三月二十七日の事であった。
読んでくださりありがとうございます!
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