②
男が隠れ家を後にしてから数刻が経ち、私は間を空ける形で隠れ家を出た。それは男と私の接点を減らすためであり、また盗みに入った時に使った服や道具を処理するためでもあった。
外に出ると少し暑かったが、我慢できないほどではない。この時期でもあり得る格好だ、不審がられることもないだろう。
これから向かう先は追手のかからない北の地の果て。最終の寝台列車に乗り込んで二十時間ほど移動をした後、乗合のバスを乗り継いで一日以上かかる辺境だ。
一年を通して寒冷なそこでは農作物が育ちにくいため狩猟を生業とする者が多く、北からやってきた者には優秀な狩人が多いという。
そこで私は細々と暮らし、お金が足りなくなれば盗んだ宝飾品を売ってお金にするのだ。もちろん、足がつくような馬鹿な真似はしない。とある筋の知り合いにごく少量を売り、必要最低限のお金が得られれば良い。
「問題ない」
もう何度目になるか分からない計画の確認を行い、私はメインストリートへ足を向ける。不安がないと言えば嘘になるが、私の計画に大きな問題はなかった。あるとすればそれは私ではなく男の計画で「こんな夜更けにそんな大荷物で、どちらへ向かわれるんですか?」背にかかった声に、私は皮膚をゆっくりと刃先でなぞられるような、そんな感覚を覚えた。
「これから仕事でして」
顔を見られないよう背を向けたまま答える。その声は高く透き通っており、おそらくは女のものだ。
「この祝祭日にお仕事ですか、大変ですね」
そう言って女はカラカラと笑う。女が私の言葉を信じている様子はなく、その顔を見ることができれば目だけ笑っていないだろう。
「そちらもこんな夜更けにお仕事ですか?」
私は背に冷や汗が伝うのを感じつつ、女の素性を探る。女は相変わらず笑っていたが、私の質問に答えた。
「ええ、お仕事です。この祝祭は内容が内容ですから、それを良く思わない方というのもいまして。そういう方の悪巧みを未然に防ぐためです」
「では、警察の方で?」
「いえ、軍の犬です」
女はまた笑い始める。しかし、それは先ほどまでのカラカラとした笑いではなく、どこか陰湿なものだった。
女の態度を見るに軍人とは到底信じられなかったが、嘘にしてももっとましなものがあるだろう。とりあえず警察でなければ、私や男の計画を知り、捕まえに来たわけでもなさそうだ。
これ以上顔を見られないようにするのは不自然と考え、私は女に振り返った。
「それは失礼」
しました、という言葉は続かなかった。いや、続けられなかった。
そこには想像通りの笑みを浮かべる女がいた。
女は言った通り軍服に身を包んだ軍人だった。夜風に靡く純白の髪、透き通るような純白の肌。そしてそれとは対照的な真紅の瞳が私を見つめていた。
アルビノ、というやつだろう。動物には時折このようなメラニンの欠乏した個体が生まれる。それは人間も例外ではない。
しかし、私が言葉を失ったのはその特異な容姿に目を奪われた訳ではなかった。
「そ、それは?」
私は動揺した様子でそれを指差す。女は一層笑みを深め、それを私に見えやすいよう持ち上げた。
「これですか? 少しお話を伺おうとしただけだったのですが、なぜか抵抗されましたので」
そこで女は一拍おき、淡々と言った。
「殺しました」
そして女は口端が裂けそうなほど笑う。その手には首があらぬ方向にねじ曲がった男の姿があった。
「殺したって、そんな」
私は無残な姿となった男から目を逸らし、膝をつく。女から見えないよう指を喉奥に入れ、胃液を吐き出した。
「あら、大丈夫ですか?」
私の様子に女はけらけらと笑う。それはこれまでで最も感情を伴ったものだった。
私はえずきながら冷静に状況を把握する。女が手に持っている男は私の見間違いでなければつい先ほどまで一緒にいた男で、その表情はまるで何が起こったのか分からないというような虚ろなものだった。
男は私と同じ盗み屋であり、多少の荒ごとには慣れていたはずだ。女に不覚を取ったとしてもあのような表情で最期を迎えるとは思えない。女は男に抵抗されたと言ったが、実際は抵抗する間も与えず殺したのだろう。
それに加え、あのおかしな方向にねじ曲がった男の首だ。この女のどこにそのような力があるのか私には皆目検討がつかなったが、声をかけられた瞬間に感じた得体の知れない何かが全てを納得させた。
「そろそろ状況が理解できましたか?」
私の心を見透かしたようなタイミングの声に思わず目を見開く。しかしそれもほんの一瞬で、私は何も知らない一般人を装い続けた。
「わ、私は何も関係ない!」
口端の胃液を拭うことも忘れ、恐怖に目を涙で一杯にし、死体となった男から目を逸らす。そんな一般人がするであろう反応をする。それは言うまでもなく、私と男の関係を悟らせないためだった。
男が私との関係を話した可能性も考えられたが、男も馬鹿ではない。話したところで捕まらない訳も、命が助かる訳もないことは分かっていたはずだ。
この時ばかりは男のことを信じ、女の反応を待った。
「私、とても鼻が利きまして」
しかし、身構えていた私にかけられた言葉はあまりに突拍子がなく、呆気に取られる。女は私のそんな様子を楽しむようにゆっくりと続けた。
「あなたからはこれと同じ香りがしますねぇ」
私は一般人のフリを続けていたが、そうでなくとも怪訝な表情になってしまう。女は男を持ち上げ、犬が匂いを嗅ぐように鼻をくんくんとさせる。
「ええ、やっぱり同じ。この香りはそう、嘘の香りです」
その瞬間、女から笑みが消える。これまでの戯けた態度は息を潜め、強烈な重圧が私を襲う。その真紅の瞳は私の何もかもを看破するようにすら思えた。
額に汗が滲む。
「汗をかいてますね。何か心当たりが?」
女は男を引きずり、ゆっくりとこちらに近付く。歩く姿は紛うことなき軍人のそれだ。
鉄板が入っているのであろうブーツが地面を叩き、コツコツと音を立てる。その音が大きくなるにつれ、私は酷い焦りを感じた。
「わ、わたし、は」
その男と盗みを働き、そして。そう口に出そうとした瞬間、猛烈な痛みが頭に走った。
頭が割れるような痛みとはこういうことを言うのだろう。私の意識は女から外れ、痛みに集約する。意識を失いかけるほどのそれは数瞬続き、徐々に引いていった。
朦朧とする意識の中で、私は必死に女の姿を探す。すると、女は歩みを止め、驚いた表情で固まっていた。
「あなた、“咎人”ですか」
“咎人”。女の口にしたその単語で、朦朧としていた意識がはっきりとする。そして、私は私で女について分かったことが一つあった。
「そういうお前は“魔人”か」
そうと分かれば女に演技を続けても無駄だ。私は口端の胃液を拭い、口調をいつものものに戻す。そんな私を女はいっそ清々しいと、これまでになく無邪気に笑った。
「そうですか。あなた“咎人”ですか。どおりで私の“魔法”が効かないわけです」
“魔法”。
それは人と魔の間に生まれた者、“魔人”だけが行使できる力だ。
脳に直接作用するそれの存在を知る者は少ない。感情や意識に加え、記憶すら操作できるのだ、知られる由もなかった。
「あなたからはこの男よりも強い嘘の香りがしましたが、納得ですね」
では、なぜ私はその“魔法“について知っているのか。
それは、私が“咎人”と呼ばれる異端者だからだ。
「あなたは何の“咎人”なんですかね?」
「教えたら見逃してくれるのか?」
女は悩む素振りを見せたが、すぐに首を横に振る。
「私の正体を知られた以上、見逃すことはできませんね」
そう言うと、女は男を地面に捨て、ゆっくりとこちらに近付いてきた。
私は息絶えた男をちらりと見る。あらぬ方向に曲がった首は女の異常な腕力を証明しており、捕まったら最後、私も男と同じ道を辿ることは容易に想像できた。
立ち向かおうなどという馬鹿な考えは毛頭なく、逃げの一択だった。宝飾品の詰まった旅行かばんを捨てることになるが、命に勝るものはない。早々と見切りをつけ、逃げるタイミングを
「あら、外しました」
受け身を取る余裕もなく地面に飛び込む。辛うじて前転することで頭を守り、足を地面につけた。
振り返れば、首を傾げた女が先ほどまで私の頭があった場所に手を伸ばしている。
「注意を逸らした気はないんだが」
私はからからに乾いた喉を唾で潤し、なんとか声を発した。女との距離は十分にあったはずだ。それが、いつの間にか背後を取られていた。
「人の注意なんてあってないようなものですから」
女は私を捕らえられなかったのが不満なのか、空を握る。“魔法”を受けた際にある、あの猛烈な痛みはなかった。つまり、女は“魔法“を使わず私の背後を取ったのだ。
そして、“咎人”の私はその技術を知っていた。
「ミスディレクション」
ミスディレクション。主にマジックで使われるそれは、意図的に注意を逸らす技術だ。色や匂い、動きなど様々な方法で五感を刺激し、人を操る高等技術。女は“魔法”など使わずとも人を操ることができたのだ。
「あなたからは生への執着を感じましたので、あれを利用させていただきました」
女から目を離すわけにもいかず見れないが、女が指差すのは、恐らく私の後ろにある男の死体だ。
私の目が地面に捨てた男に向かったその一瞬。意識を逸らしたその一瞬を見逃さず、距離を詰めたのだろう。
そして、その技術はもちろんのこと、足音なく距離を詰めた体術もまた人智を超えていた。
「これをミスディレクションと呼ぶのはあなたで二人目ですね」
「二人目?」
女が自分の手で口を塞ぐ。どうやら話していいことではなかったらしい。こほんと咳払いし、何事もなかったかのように振る舞った。
その間に私は男の死体がある場所まで後ずさる。今度は背後を取られないよう注意して見れば、男の腰には銀のナイフが刺さったままだった。
「その銀のナイフが気になって話しかけたんですよね」
女の声にはっとするが、見れば女は近づいていなかった。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、それを見ていたと気づかれたことに驚く。
「使いますよね、そのナイフ」
女はさも当然のように武器の使用を促す。普通ならあり得ない話だが、ここまでの立ち合いで私に負けることは有り得ず、それは武器をもってしても変わらないと確信しているのだろう。
「生への執着が強いあなたは、そのナイフを使わなければこの状況を脱することは不可能だと分かっているはずですよねぇ」
さあ、さあ。女は無防備に両手を広げ、武器の使用を煽る。さもそれを使えばこの状況を脱せるかのように。
だから、あえて私は間を置き、女に言ってやった。
「だが断る」
女は私の返答に目を伏せる。大きくため息をつき、興が冷めたとばかりに言い放った。
「そうですか、じゃあ死んで下さい」
女が私との間合いを詰める。先ほどまでのゆっくりとした動きではない。蹴った地面が割れるほどの加速。私はそれに合わせるようにナイフを投げた。
女が目を伏せた瞬間を見逃さず、男の腰から抜き取り隠し持っていたのだ。生を諦め、死を受け入れたと思わせてからの一撃。それは女にとって完全な不意打ちのはずで「残念でしたねぇ」女は易々とナイフを指先で挟み取ると、そのままの速度で間合いを詰めた。
女は陰湿な笑みを浮かべ、挟み取ったナイフを指先で回す。私はなすすべもなく、無言でそれを見つめた。
「最後まであなたからは生への執着を感じましたので、きっと何かするだろうと警戒していました」
茫然とする私に女は懇々と語りかける。
「あなたの敗因は、一つに私の身体能力を見縊ったこと、一つに演技が下手だったこと、そして最後に」
ナイフの扱いが下手だったことです。
そう言って、女はナイフを逆手に持つ。私の身体を押し倒すと、その上に馬乗りになった。
「ナイフの軌道は外れていました。回避の動作を見るに武術の心得があるようですが、武器の扱いは素人でしたね」
女の言葉は私の耳に届かない。私はナイフをじっと見つめ、自問自答していた。
性別を理由に見下していたのではないか。
容姿を理由に甘く見ていたのではないか。
態度を理由に舐めていたのではないか。
この自問自答こそ女を見縊っていた事実であり、女がナイフという“凶器”を持って初めてそれを認識した。
「私はこんなナイフを使わずともあなたを殺すことができますが、あなたはこれにご執心の様子ですので、特別にこれで殺してあげましょう」
そして女がナイフを私の胸に突き刺そうとしたその瞬間。
『対象、リザを“凶器”として認定します』
私の脳内に無機質な声が響いた。
女、リザのナイフがすんでのところで止まる。それがリザの意思によるものではないことは、リザの表情を見れば明らかだった。
驚きから始まり、疑いに続き、焦りを表す。リザがどれだけ力を込めようと、ナイフが私の胸を突き刺すことはなかった。
そこからのリザの判断は早い。ナイフを迷わず捨てると、馬乗りのまま私に殴りかかる。
顔を中心に、胸や腹を殴られる。その衝撃は凄まじく、地面に身体が沈むのを感じた。
しかし、痛みは一切なく、骨が折れることや内臓が破裂することはもちろん、血すら出なかった。
「これはどういう冗談でしょうか?」
顔にうっすらと汗を浮かべ、リザは引き攣った笑みを浮かべる。私は黙っていることもできたが、馬乗りにされていては逃げることもできまい。早々に観念して答えた。
「私は”武器の咎人“。私は全ての武器に触れることができないんだ」