魔狼襲撃
前話までのあらすじ:森を歩く里奈は、ドフと名乗る狩人に誰何される。問答の後、ドフは里奈を記憶喪失であると判断し、治療のために仲間の元へ連れて行くことを提案した。自分の置かれている状況を把握するため、里奈もその提案に乗る。
「この辺りか」
森を歩くことしばし、ドフは足を止めると、懐から細長い木片を取り出した。腰に下げた石で先端を擦ると、赤い煙が立ち上った。狼煙だ。
待つことしばし、里奈は近づいてくる足音を聞いた。藪をかき分けて、誰かが近づいてくる。
「リナは下がっていろ」
ドフが言った。そして足音の主に、
「リーヴス、儂だ。民間人を保護した」
木の陰から男が顔を出した。
(若いな)
里奈は自分のことを棚に上げてそう思った。男は20代くらいだろうか。黒髪をオールバックにして膠のようなもので固めている。リーヴスと呼ばれた彼は腰の剣に手を掛け、目に疑念の色を浮かべて言った。
「民間人だと?」
「ああ、記憶をなくしているようだ。魔女の眷属かも分からんが、とりあえず無害なようだ」
「ふむ、無害か……」
リーヴスは小首を傾げた。
「ドフ、あなたの判断を信じていいんだな」
「ああ、もしもの時は儂が責任を持って対処しよう」
「あ、あの……」
里奈はおずおずと言った。
「初めまして、里奈と言います」
「ああ、俺はリーヴス。王族近衛隊第一部隊の副隊長を務めている」
「ええと……」
里奈が言葉に詰まっているのを見て、ドフが言った。
「この子は国の名前も覚えていないらしい。出身もよく分からぬ」
「そうか……まぁ戦士の長だとでも思っておいてくれ」
リーヴスは背を向けた。
「詳しい話は向こうで。俺の仲間に会わせる。そこで、君の処遇も話し合おうか」
前にリーヴス、後ろにドフと、一列になって森を進む。里奈は考えた。
(二人とも強そう。ここはおとなしくついて行って、情報を集めることに専念するべきね)
リーヴスの無防備な背中を眺める。こちらを警戒していないのだろうか。
「迂闊なことはするなよ」
リーヴスが唐突に言った。
「俺は背後の気配も感じることができる。少しでも危険な動きをしたら、すぐに斬り捨てるからな」
「そ、そんなことしないです!」
「そうかな」
リーヴスは肩越しにニヤリと笑った。
「君が魔女の眷属なら、今がチャンスかもしれない」
「リーヴス、挑発するな」
ドフが後ろから言った。
「リナも乗るんじゃないぞ。彼は強い。何と言っても彼は」
ドフは言葉を切って立ち止まった。鼻をひくつかせる。
「ドフ、どうした?」
「魔狼だ」
ドフは腰から鉈を引き抜いた。
「1匹、後ろからついてきている」
「振り切れるか?」
「無理だな。向こうのほうが速い。迎え撃つしかない」
リーヴスは里奈をちらりと見た。
「わかった、俺が相手をする。ドフはリナを守れ」
「ダメだ、大きく強い個体だ。儂もやろう」
ドフはリーヴスと並び立った。鉈と長剣が陽光を浴びて輝いた。
次の瞬間、大地が小さく揺れた。ドッドッという低い音が聞こえる。
(足音……?)
里奈がそう考えたとき、眼前の灌木が揺れた。真っ白い巨体が迫る。
「え、」
里奈が反応する前に、ドフが動いた。
「どりゃぁぁ」
喚声と共に鉈を突き出す。切っ先が白い影に突き立った。
「グギャァッ」
一瞬の硬直ののち、それは雄叫びを上げ、身を翻した。ドフの眼前数メートルの所に降り立ち低い唸りを上げる。その左目は固く閉じられ、瞼の間から血が滴っている。ドフの一撃で負傷したのだ。
(これが魔狼……)
里奈は唖然としてその巨体を見つめた。
なるほど、狼と言われれば、確かにそう見える。長い鼻やピンと立った耳、すらりと地面に向かって伸びる四つ足は紛れもなく、里奈が知っている狼のものだ。
しかし、サイズがおかしい。体高は3メートルはあるだろうか。頭部だけでも里奈の身長くらいはある。口は後頭部までパックリと裂け、そこから乱雑に並んだ長大な犬歯が覗いていた。
「グルルルルルル」
魔狼は唸りながら僅かに姿勢を下げた。飛びかかろうとする態勢。
魔狼が動くよりも早くリーヴスの長剣が閃いた。袈裟斬りに振り下ろす。刃が魔狼の顔面に打ち込まれた。
「ガッ!」
魔狼はわずかに顔を背けたが、傷をつけるには至っていない。斬撃は魔狼の体毛で受け流されていた。
しかし、それで十分だった。流れるように身を翻したリーヴスの背後からドフが飛び出した。下から斬り上げるように鉈を振るう。狙いは魔狼のマズル。毛に覆われていない鼻先だ。
「キャンッ」
リーヴスに気を取られていた魔狼は反応が遅れた。神経の集まる鼻先を傷つけられ、魔狼は怯んだ。飛ぶように後ろに下がるとドフを睨みつけた。警戒している。
ドフは魔狼から見て左側に回り込むように動いた。今、魔狼は左目を潰され、視界が狭くなっている。ドフに合わせるように、魔狼の体も反時計回りに回転する。
「はあっ!」
ドフが裂帛の声を上げ、力強く踏み込んだ。これを陽動として同時にリーヴスが動く。今度は斬りつけるのではなく、まっすぐに剣を突き出した。無防備な魔狼の首元に切っ先が吸い込まれていく。
攻撃は成功したかに見えた。
魔狼は強靭な体毛を持ち、面を斬りつける斬撃は受け流されてしまう。しかし、点で貫くような刺突であれば、切っ先は表皮まで届くのだ。リーヴスは剣を通して確かに魔狼の鼓動を感じた。
しかし次の瞬間、彼は吹き飛ばされていた。魔狼は攻撃を受けながらも舞うように身を翻し、リーヴスに強烈な後ろ蹴りを放っていた。
「ぐぅっ」
「リーヴス!」
リーヴスは地面に叩きつけられながらも受け身を取り、立ち上がろうとした。その表情が激痛に歪む。魔狼の一撃で負傷したのだ。
魔狼は首に長剣が刺さったままで、猛然とリーヴスに迫った。自らに傷を負わせた相手を仕留めようと、その顎がいっぱいに開かれる。
「伏せていろ!」
ドフは鉈を捨てると、弓を手に取った。瞬きの間に矢をつがえ、引き絞って撃ち放つ。恐るべき早業だ。だが魔狼は、それすらも見切っていた。奴は僅かに足を止めると、後ろ足で立ち上がった。眼球に向けて放たれた矢をギリギリのところで躱す。リーヴスまで残り5メートルほど。
里奈はとっさに飛び出した。リーヴスの危機を案じて……ではない。彼らの仲間として信頼を勝ち取るための手段だ。勝算もある。
魔狼の前に走り出ると、その腹下に滑り込んだ。それを追って魔狼の頭が下がる。鼻先に向かって里奈は両手を伸ばした。魔狼の鼻先に手をかける。そこにはドフの攻撃によって縦に一文字の切り傷が付けられていた。里奈は出来立ての傷口をさらに広げるように、左右に引き裂いた。
メリメリと肉を裂く感覚。顔面に血が吹き付けられ、視界が狭まる。
魔狼が絶叫した。森の木々を揺らすほどの声量だ。
急所を引き裂かれてさしもの魔狼も応えたのだろう。もんどりうつように里奈に背を向けると、よたよたと逃げ出した。
里奈は追わなかった。魔狼の血がついた両手をハーフパンツで拭う。顔を上げるとドフが唖然とした表情で里奈を見つめていた。
「リナ……」
背後から声が聞こえた。リーヴスが腹を押さえたままゆっくりと立ち上がった。
「君はやはり只者ではないようだ。……戦いの経験があるのか」
「何を仰っているんですか」
里奈はべっとりと血のついた顔で微笑んだ。
「私は何も覚えていないんです」