狩人
前話までのあらすじ:殺されたはずの里奈が目を覚ましたのは、森の中の草原だった。そこは里奈の記憶している世界とは、気候も生物も異なる場所。
何者かに拉致された可能性を危惧した里奈は、情報を求めて移動を開始する。
だが、そんな彼女を狙う男がいた。
「ゆっくりこちらを向け。魔女の眷属め」
その声が聞こえたとき、里奈は内心で安堵した。日本語だ。意思疎通ができる人間が近くにいる。
両手を肩の高さまで上げつつ、そろそろと振り返る。
「…………」
「……あなたは?」
少し離れた木の陰に半ば隠れるように、小柄な人影が立っていた。
身の丈は里奈と同じくらい。日本人の平均から考えるとかなり小さいが、がっしりとしてよく鍛えられている。動物の毛皮をそのまま剥いだかのような粗野な衣服を纏い、そこから飛び出した手足は日焼けして節くれ立っていた。
彼の手には弓が握られていた。太い枝に糸を張っただけのシンプルなものだが、使い込まれている。男の愛用品なのだろう。今この瞬間も弓はギリギリと引き絞られ、石製の鏃が里奈の胸元に狙いを定めている。
「貴様、その構えはなんだ」
ホールドアップをしている里奈を見て男は言った。
「魔術を使おうものなら容赦はせぬ。手を下ろせ」
「え、あの」
里奈は困惑した。手のひらを向けて両手を挙げる。これは万国共通で降伏のサインだ。日本語を話すこの男がそれを知らないはずはないのだが……。
言われた通りにゆっくりと手を下ろしてみせると、男は頷いた。
「それでいい。貴様、この森に丸腰で居るなど……魔女の眷属に相違あるまい。殺されたくなければ、主人の場所を言え」
「け、眷属?主人?」
里奈の頭が猛スピードで回転した。
(眷属というのはしもべとか家来とか、そういう意味よね。魔女っていうのが、よくわからないんだけど)
大方、何かの隠語だろう。そしてその「魔女」は、目の前の男にとって良からぬ存在であるようだ。少なくとも、弓を引く程度には。
自分の置かれている状況もわからないのに、さらに敵を増やしては堪らない。里奈は慌ててかぶりを振った。
「違います!私も何が何だか」
「では、なぜ一人でここでウロウロとしておるのだ? ここはイルス国王の命により、許可を得ない立ち入りが禁じられておる。それを知らぬとは言わせんぞ」
「イルス……人の名前ですか?」
弓の男は目を見開いた。
「小賢しい。演技でこの儂を騙せると思うな」
「本当に知らないんです……ここは日本ですか?あなたは日本人?」
「ニホンジンとは何だ。儂は百獣狩りのドフ。南の森の狩人だ」
狩人!里奈は驚きつつも、内心で頷いた。粗野な格好も手にした弓も、狩猟を生業にしていると考えればしっくりくる。小柄な体格は鬱蒼とした森の中で活動するには都合がいいのだろう。
「私は深見里奈と言います。あの、ここはどこなんですか?」
ドフの目元が和らいだ。里奈の戸惑いが本心と知って、少しは警戒を解いてくれたようだ。
「ここは禁じられた森……正式な名はない。立ち入りを許されぬ森だ」
「禁足地ということですか?どこの国なんでしょう」
「国?エラミス王国領だが……そんなことも知らぬのか」
(聞いたこともない国だ)里奈はげんなりした。
「スマホが使えるところに行きたくて」里奈は懐に手を伸ばそうとした。
「あ、動いても大丈夫ですか?」
「許可する」
懐からスマートフォンを取り出すと、ドフに差し出した。
「ここ電波がないみたいで……」話しながら画面を点灯させる。
その瞬間、ドフが怒声を上げた。
「魔道具か!やはりお前は魔女の……!」
飛び退くと同時に改めて里奈に狙いをつける。危険な気配を感じて里奈はスマートフォンを投げ捨てた。
手放すのがあと一瞬遅れていれば射抜かれていたかもしれない。
「ち、違います!……スマホ、ご存知じゃないんですか?」
「自ら発光する石版など、魔女の被造物でしかありえぬ」
(この国にはスマホはないのか)里奈の背を汗が伝った。
(だとすると本格的にまずい。今のドフの反応を見るに文化の発展具合は知れているし、彼に警戒心を抱かせてしまった)
何とか場を繋いで、ドフから情報を引き出さなければならない。里奈は慎重に口を開いた。
「魔女っていうのは、人ですか?魔法を使うんですか?」
「白々しいな」
「おとぎ話のやつじゃないんですか?」
「この森の主、真に邪悪なものよ。まさか知らぬわけもないが……」
そう言って、ドフは首を傾げた。
「貴様、頭を打ったか?」
「へ?」
「頭を打ったかと聞いておる」
ドフは弓を下ろした。
「前に我が狩猟団の若者が、お前と同じようなことを言っておった。ここはどこだ、お前は誰だって具合に……。医者の言うには、頭を強く打って記憶が飛んでしまったらしい。お前も、そうなのではないか?」
(そういうことにしておこう)
里奈は考えた。どのみち手詰まりだ。なるようになれ。
「そう……かもしれません……。自分ではよくわかりませんが……そういえば頭が痛い気がします」
「ふむ、困ったものだな」
ドフはひとつ頷いて、
「儂と一緒に来い。仲間に会わせる。仲間には魔術師がおるから、治癒もできよう」
「え、いいんですか?」
「無論魔女の眷属と分かれば容赦はせぬが、記憶のない小娘を置いていくこともできぬ。今はお前を信じてやる」
「あ、ありがとうございます!」
里奈はグッと拳を握りしめた。おそらくは悪人ではないドフに対して嘘を付いているという罪悪感はあるが、それでも一歩前進だ。奇怪な生物に聞きなれない地名、そして魔女。分からないことだらけだが、彼の仲間に会えば何か明らかになるかもしれない。
「ついて来い。それと、もう一度名を言え」
「里奈です」
森を歩き出したドフの後を追いながら、草の上に転がっていたスマホを拾い上げた。
「リナ、と言ったな」
道無き道を進むことしばし。ドフが足を止めた。
「その靴、歩きにくくないか?」
彼の視線は里奈のローファーに向けられていた。草原と森を歩き回り、草と土でぐちゃぐちゃになっている。
「確かに歩きにくいです」
「石畳を歩くための靴のようだな。リナは大きな街の生まれなのかもしれぬ」
そういうドフの足は革製のブーツとゲートルで覆われている。山歩きには慣れているようだ。
一方の里奈は太ももから足首にかけて切り傷だらけになっていた。スカートの下に履いていたハーフパンツは通気性に長けており不快感はない。それだけが唯一の救いだ。
「傷はうちの魔術師に治して貰えば良い。この森には血の匂いに寄ってくる野生動物もいるから、早く治した方がいい」
「野生動物……」
「ああ、恐ろしいのは魔狼だ。この森は魔力が充満しているから、そこの食物連鎖の頂点にいる狼は強力な魔力を持ってる。魔力を溜め込んで身体が変質した狼を、魔狼という」
さすがは狩人。動物に詳しい。
「魔狼は群れで生活しているが、基本的に昼間は動かない。夜になってから熊なんかを仕留めて食らうんだ。だから明るいうちに移動する必要がある」
それと、とドフは手を伸ばした。
「こいつを知っているか? この森に群生している」
「それは!」
ドフが手にしている小枝には里奈も見覚えがあった。赤く肉厚の葉を付けた、あの灌木だ。
「儂らはニククサと呼んでおる。この葉を潰すと、魔狼が好む悪臭を放つ。葉を傷つけた外敵を排する為に魔狼を利用する植物だ」
(あの臭いにはそういう意味が)
里奈は赤い葉を潰したときの、腐った魚の臭いを思い出した。
「リナも潰さないように気をつけろよ。魔狼は遠くてもこの葉の匂いを嗅ぎつける。昼でも寄ってくるぞ」
「はい、気をつけます」
聞き分けよく返事した里奈に頷くと、ドフは再び歩き出した。
里奈は彼が放り出した灌木の小枝を何気なく拾い上げた。小さいが確かに真紅の葉を有するそれを、そっと懐に滑り込ませた。