殺人嗜好者の夜
夜も3時を回り、騒がしかった繁華街は落ち着きを取り戻しつつあった。
まばらに行き交う酔客は、他人には目もくれずに家路を辿り、あるいは次の店へと消えてゆく。彼らはこの街における「賢い生き方」を心得ていた。他人に関わらないこと。面倒ごとの気配を感じたら、すぐに身を引くこと。それがトラブルに巻き込まれない秘訣なのだ。
今夜もそうだった。路地裏の奥で言い争う声が聞こえても、肉と肉がぶつかりあう湿った音が聞こえても、誰も気にも留めない。
そこでどんな惨劇が起こっているのか、関心すら持たない。
「離してくれ!痛い!」
眼鏡をかけた男は地面に倒れこんだ。彼は殴られた頬を抑えながらも、鋭く相手を睨みつけている。
「兄ちゃん、俺らもこんなことしたくないんですわ」
角刈りの巨漢が男の髪を掴むと、無理矢理立ち上がらせた。
「けどね、兄ちゃんがウチの店の料金踏み倒して逃げたんでしょう。ちゃんと落とし前付けて貰わんと、こっちもお仕事やから」
「ふざけるな! あの店はぼったくりだ! 払う義務はないっ!」
「おお怖いわぁ、そんな怒らんでよ」
角刈りは笑い、
「お店入る前に、ちゃぁんと確認されたやろ? お席代がかかりますよ~言うて。なあ、ヒロキ」
「はい」角刈りの後ろに立った金髪の男が声を上げた。
「しっかり伝えとります」
「ほらァ、兄ちゃんが忘れとるだけやが。店でエラい楽しんでくれたみたいやないか。8万、払ってもらうかいね」
「兄貴」ヒロキが声をかけた。
「こいつ沈めちまうなら早くしねぇと。日が昇ったら人目も増えるんで」
「おお、そうだな」
角刈りの視線が危険な色を帯びた。暴力を生業としている者に特有の、落ち着きと険呑さを均等に帯びた色だ。眼鏡の男は内心に沸き起こった闘志が、みるみるうちに萎えていくのを感じた。
「悪ぃけどさ、俺らもこういう稼業やから、舐められるわけにはいかんのや」
「わ、分かった。すまなかった……ちゃんと払いますから」
「すまなかった? 申し訳ございませんやろうが」
「も、申し訳ございません」
「頭の位置も、そこでええと思っとるんか」
眼鏡の男は言われるままに膝を落とし、額を地面にこすりつけた。
「申し訳……ございませんでした……」
「よし」と、角刈りは満足そうに言った。
「それでええんや。お兄さんが賢い人でよかったわ。おいヒロキ!」
返事がない。角刈りは振り返り、怒声をあげた。
「ヒロキ!どこおるんや!」
いつもならすぐに返事をくれる弟分が、どれほど呼んでも現れない。
「クソが。なんなんやあいつは……うおっ」
角刈りは声を上げた。不意に目に激痛が走ったのだ。ぬめり気のある冷たいものが顔面にへばりつき、視界を塞いでいる。
「な、なんやこれは! 誰や!」
混乱した思考の中、角刈りは足音を聞いた。眼鏡の男が逃げようとしているのかと思ったが、違う。足音は近づいてきている。
「くそっ、そこに誰かおるんか!?」
精一杯の虚勢を張り声を上げる。
それが彼の最後の言葉だった。眼前にまで迫った足音が僅かに乱れる。喉元に灼熱が走った。
眼鏡の男の前で角刈りは崩れ落ちた。首元に開いた傷口から2度3度、噴水のように血が噴き出した。
「ひぃぃぃ‥‥ひっ‥‥」
眼鏡の男は声を漏らした。
人が死ぬのを見るのは初めてだった。腰が抜けて立てない。悲鳴をあげようにも肺がキュッと縮こまってしまい、ヒューヒューと呼吸音を鳴らすのがやっとだった。
そんな彼を見下ろす人影があった。その人物は小柄な体躯を黒いレインコートと、同色のレインブーツで覆っている。ゴム質の黒い手袋をした右手には、たった今ひとりの命を奪った凶器が握られていた。刃渡り20センチはあろうかという刺身包丁が、血潮を浴びてぬらりと光った。
「こんばんは」
幼さを残す女性の声。目深に下ろしたフードの下から笑みを覗かせ、彼女は問うた。
「おひとりですか?」
「え……あ……?」
男は必死に口を動かした。何か言わなければ。それは現実逃避に等しい感情だった。目の前に立つ少女の小さな身体、幼い声、優しげな微笑。そして全てを覆すかのような殺意が、男に向けられている。
頼むから見逃してくれと、俺という存在から目を逸らしてくれと祈りながら、凝りかたまった舌を無理に動かし、言葉を作った。
「こ、殺した……?」
「殺しましたよ」少女は答えた。
「この人は強そうに見えたけど、見掛け倒しだったな」
「な、なんでそんなことを……」
「なんでかなぁ」少女は悪戯っぽく言いながら男に近づいた。腰を抜かしたままの男の前に屈み込む。その左手が、男のおとがいをそっと持ち上げた。少女は耳元で囁いた。
「あなたが困っているみたいだったから、助けたの。嫌だった?」
男であれば誰しも籠絡されてしまうような、蠱惑的な響き。男はほんの一瞬恐怖を忘れた。
少女にはその一瞬で十分だった。霞むほどの速さで包丁が突き出される。狙いは喉仏。顎を掴まれた男にそれを防御する術はない。腰のひねりを利用した一撃で刃を深々と埋め込むと、そのまま男を仰向けに押し倒した。男の背を地面に押し付けるように包丁に体重を乗せる。硬い何かを貫いた感覚とともに男の後頭部から切っ先が突き出した。
脳髄を穿たれた男が絶命するまで、数秒とかからなかった。
少女は立ち上がると、眼鏡の男の首元から生えた包丁の柄を眺め、呟いた。
「やっちゃったかな?」
包丁の柄を掴み、体重をかけて引っ張る。血と油でべっとり汚れた柄は木製にも関わらずぬるぬると滑り、手袋をしたままの手では引き抜くことは叶わない。
少女はしばらく悪戦苦闘していたが、やがて呟いた。
「これは抜けないや……あなたにあげるね。手向けよ」
彼女はフードを被りなおすと静かにその場を立ち去った。
乾きつつある男の両目が、冬の夜空を虚ろに見つめていた。
初めて投稿します。
これからよろしくお願いします。