終末兵器により土砂、のち恋模様
「ヨシノ。ボクたちは一体いつまでこうしておけばいいんだい」
アルストリアは穴の中を自由落下しながら、かたわらの青年に語りかけた。
ヨシノと呼ばれた青年は、アルストリアと同じく自由落下の最中にありながらも、顎に手を当て、なにやら考え込んでいる。
年齢は十代後半ほど。どこか気だるげで、全ての色を煮詰めたような黒髪が印象的だ。
ヨシノは声をかけられ、はっとしたように顔を上げる。息の詰まる灰暗い空間の中、ヨシノの目に写ったのは、細工物のような精緻で美しい少女だった。原色の赤を重力に逆らわせ、つまらなさそうにこちらを覗き込むアルストリアに苦笑を返す。
「ああ、ごめん。もう少し待ってくれ。あとちょっとで終わるんだ」
アルストリアは、ヨシノのその返事にぷくーと頬を膨らませ、ため息をついた。
「まあ、しょうがないね。でも、考えてみれば穴から落ちるなんて経験、そうないと思うんだ。前にキミが話してくれた吊り橋効果というあれ。この状況は正にそれに当たるんじゃないだろうか。確かにボクは今とてもドキドキしているよ。この胸の高鳴りは、一体なんなのだろうね!?」
「動悸じゃないか」
ヨシノはさらりと返事をして、考え事に戻る。
「ちょっと! ボクが動悸なんて起こさないことくらい知ってるだろう! 誰が一般人であるキミを、自由落下しながらでも思考できるほどに重力調整していると思っているんだい?」
アルストリアが構って欲しそうな声色で言う。その声には得意気な物も混ざっていた。
その言葉の真意を察知して、ヨシノは気だるげに顔を上げた。
アルストリアは少したじろぎ、虚勢を張るようにふくよかとはいえない胸をはる。
「お、おお。な、なんだい。感謝の言葉でもくれるのかい。それはそうだよ。一体ボクがどれほどキミのことを思って、こんな苦労を……」
「本当に助かるよ。君のおかげで俺は生きることが出来ているようなものだ。ありがとう」
「くっ!」
アルストリアは耐え難いヨシノに対する愛情を受け止めきれずに、胸をおさえる。
ヨシノはストレートに表現する方だ、とは知っていたものの、ここまで素直に言ってくれるのはさすがにダメージが大きい。
いや、そこがいいんだけど、とアルストリアは思いながらも口にしない。
意地悪に言ってくれたとしても、それはそれでなんだか嬉しいという乙女心は自重しておく。
「一応聞いておくけど、これのことは知ってるか?」
若干顔を赤らめたアルストリアに、ヨシノは問う。
半分の期待と半分の諦め。知っていたらいいな。と、その程度の質問だ。
ヨシノが言う『これ』が何を指すのかを、アルストリアは理解している。だからこそ、期待に答えられない悔しさに歯噛みするのと、役に立たない自分への苛立ちが出るのは同じだった。
「いいや、知らない。すまないね。ボクは他のIPのことはてんで詳しくないんだ。ボクがずっと協会にいたことくらい、知ってるだろう?」
これでは八つ当たりと同じだ。ヨシノもずっと協会に閉じ込められていたことを、アルストリアは知っているのに。
ヨシノは少し笑ってごめん、と呟いた。
「知ってる。君のおかげで俺は生き残ることが出来たわけだから。俺と君の専門は違うからな。しっかりと自分で思い出すよ」
「ボクのおかげじゃないさ。キミの力だ。ボクにとって、生きるという選択肢が出たことはキミのおかげでもあるんだよ」
ヨシノの返事に食いぎみで返す言葉。これは、アルストリアの本心だった。自らの呵責の念は消え、代わりに感謝の念が湧き上がる。
大改竄が起きた時、アルストリアを救ったのはヨシノだ。かごに囚われた獣を、何の臆面もなしに解放したのは。
思えば、その時から、だったのかもしれない。生に絶望していた自分を思い返して、アルストリアは自嘲気味に笑う。
ふと、アルストリアはヨシノが言っていたことを思い出した。
大改竄によって書き換えられたこの世界は、ボールを二つ重ねたような状態にあるという。息を吹き掛けるどころか、周りの歩く振動で崩れてしまうほどに、危うい。不安定で、不確実な世界なんだと。
それを聞いたアルストリアは、最高だ、と口にしたのだ。
――大改竄によって生物はほとんどが死滅してしまったけど、ボク達は生きている。この広い世界に、たった二人。なんてロマンチックなんだ。
そんな、無垢な少女のようなことを呟いて、幸せそうにアルストリアは笑ったのだ。
そんなことまでも思い出してしまって、アルストリアは羞恥で顔が微かに熱を持ったことに気づく。
――機械仕掛けのリンゴに、そんな感情を持つことを許されてはいないのに。
「――できた」
ヨシノがふう、と息を吐くように言葉を溢す。
先ほどの感情を払拭し、アルストリアは晴れやかな顔で笑った。
ようやく自分の番だ。が、しかし。その前にしてもらうことがある。
アルストリアはちらちらとヨシノへ視線を送ろうとして、その前にヨシノがこちらを見ていることに気が付いた。
歓喜の悲鳴をあげたくなる衝動をこらえ、アルストリアは平然とした態度を心がけてヨシノへと声をかける。
「ヨシノ。それじゃあボクの名前を呼んでくれ」
ヨシノはそんなアルストリアを見て、いつか文献で見た犬のようだ、と感じた。自分の名前を早く呼んでほしくてたまらない。そんな顔をしている。
ヨシノはもはや見ることが叶わない犬という存在を夢想して、苦笑した。
アルストリアが名前を呼ばれるのを待っている。ヨシノの言葉を期待している。なら、ヨシノはそれに答えてやらなければいけない。アルストリアは、拗ねるとめんどくさいのだ。
ヨシノは深く息を吸い込んで、名を呼んだ。その顔には、慈しむような柔和な表情が浮かんでいた。
「アルストリア。君の助けが、必要だ」
「オーケー、ヨシノ! 出来れば君に名前を呼ばれたというこの余韻に浸って、甘美の海で溺れたいところではあるんだけど、キミを助けないわけにはいかないからね!」
アルストリアは、感動に胸を踊らせながらヨシノへと手を差し伸べる。
その顔には得意の色と誇らしさが混ざっていた。
激しく鋭い風が、切るように二人を叩き上げる。触れるだけで削れてしまいそうな岩壁で覆われ、見上げれば、落ちてきた穴から射し込む光が見える。生への渇望をより強くさせる光は、運命を決定付けるようにどんどん小さくなっていく。
そんな状況にあってなお、焦らない。
ヨシノは差し伸べられた手を握り返して言う。
「俺達は、このくらいの急降下で落ちたのか」
底は見えない。暗闇だ。それでいい。ヨシノは自分の考えが合っていることに確信を持つ。
対して、アルストリアはヨシノの言葉の意味を逡巡。合点がいったのか、嬉しくてたまらないというように破顔する。
「この程度の訳がない! ボクたちは、この世界のどれよりも早く、一瞬で! 恋に落ちたのさ!」
アルストリアの言葉をきっかけに、静止。まるでそこだけ時間が止まったかのように空間は固定された。
自由落下の衝撃は、アルストリアが吸収する。
ん、という小さな喘ぎ声が漏れ、ヨシノをわずかばかりに赤面させる。
二つの重なった手は、離れることがないようにとしっかり繋がれていた。
と、同時に岩壁が異変に気付く。自らの弛緩した筋肉をほぐすように鳴動して、オ、オ、オ、という唸るような声が穴の中に響いた。現実離れした不気味さが、周囲を覆う。
そんな空気に蝕まれることなく、ヨシノはふ、と吐息を漏らす。それは、この崖・の正体を理解したという事実に他ならない。
アルストリアの情熱的な叫びに返すべく、また、ヨシノも叫ぶ。
ヨシノが協会に保護されていた時に得た、IPに対する知識。それらの特徴や性格の相似点を見いだし、この事象に合致する条件を見つけ出す。そして、答えは出た。
「その通りだ! この程度で俺達が落ちると思ってもらってはかなわない! 『嘆き嗤う意思ある断崖』リスク三。協会指定IP-582と照合完了。断定。性格は概念。すなわち、俺達の意思によって結末が変わるIPだ。落ちると思えば地面に激突するし、落ちないと思えばいつまでも落下し続ける」
地面に埋まった崖は震え、波打つ。まるで生き物の消化の過程のようだ。やけに人間くさい執念で、体内の獲物を逃すまいと躍起になっている。
大改竄によって書き換えられたこの世界で、協会が保護していたIPは逃げ出してしまった。
日常の裏にある非日常。ただ存在するだけでなんらかの影響を与える異常。場合によっては、人類滅亡の可能性をも持つ特異な性質。それが、IP
ヨシノとアルストリアに課せられたのはそれらの捕縛、または破壊。世界に影響を及ぼしかねない彼らを探しだす旅は、まだ途中だ。
ゆえに、ヨシノはその名を叫ぶ。彼女もまた、IP。『少女的終末兵器』
「アルストリア!」
名を呼ばれた終末兵器は、意地悪そうにニヤリと口許を歪めた。
「ああ、いいね。信頼関係というものは。――だから、どけよ。IP-582。ボクとヨシノの邪魔をするなんて、どういう意味か分かっているのかい?」
終末兵器の恫喝にも恐れず、崖は体内を収縮させて、二人を飲みくだそうと低い雄叫びをあげた。