代筆メイドは、お嬢様の婚約者に恋をする
お嬢様の婚約者から送られてきた手紙の代筆を頼まれたのは、本当に偶然だった。
だってこのお屋敷の使用人は、かなりの頻度で変わってしまう。それは主人側の気分であったり、わたしたちのちょっとした粗相から起きるのだ。わたしはそんな使用人たちの中でも長く、二年ほど勤めている。もちろん、主人たちが顔を覚えているわけもないのだけど。
だからわたしがこれを頼まれたのは、「ちょうど良いところに通りかかったから」でしかない。
今日も華美な格好をしているお嬢様は、こうべを垂れるわたしに手紙を押し付けてきた。
「これ、書いておいて。これからくるわたくしの婚約者からの手紙のすべてを、お前が代筆なさい」
「かしこまりました」
この屋敷において、屋敷の主人たちの存在は絶対だ。貴族の言うことはなんでも聞かなければならない。だからわたしは特に考えることもせず、そう頭を下げた。
「まったく、婚約者だからって手紙のやり取りをしなきゃならないなんて……面倒臭いわ。どうせ政略結婚なのだから、そんなやり取りいらないでしょうに」
お嬢様はぶつくさと文句を言いながら、ヒールの高い靴を鳴らしわたしの前を横切る。お嬢様がつけている薔薇香水が肺にたまり、一瞬むせそうになった。
それをぐっとこらえ、わたしはとにかく腰を低くしてお嬢様の逆鱗に触れないよう静かにしていた。
お嬢様が廊下を立ち去り、角を曲がったのを見届けてから姿勢を正す。そして手元の手紙を眺めた。瞬間、胸がひときわ高鳴る。
「……綺麗な字」
一目見ただけで、ここまで素敵だと思う字があるとは思わなかった。
水が流れるように流麗なのに、細すぎるというわけでもない。読みやすく、美しい字だ。さすが、侯爵令息の字だ。
名前はなんだろうかと気になり、気付を見る。
『マティアス・フローリー』
名前の響きも綺麗だ。
わたしはその名前をなぞり、呟く。
「マティアス様……」
その日から、一介のメイドであるわたし、オリヴィエ・リシェットとマティアス様との手紙のやり取りが始まった。
*
マティアス様の手紙は、大体一週間に一度のペースで送られてきた。
どうやらマティアス様は、お嬢様のことが知りたいらしい。わたしは必死になって、お嬢様のいいところを手紙に綴った。
だって、ここのお給料は結構いい。身寄りがいないので自分一人の力で生きていくしかないわたしには、破格の金額だ。お金が貯まるまでは辞めるわけにはいかない。
でもそれ以上に、わたしはこの非日常を楽しんでいた。お屋敷での生活は息がつまるからだ。
できる限り機嫌を損ねないように息をひそめ、過ごす日々。
そんなわたしの日常においてマティアス様の手紙は、密かな息抜きだった。
『暑くなってきましたね。お体があまり強くないと伺いましたので、気をつけてください』
『我が家の庭ではようやく、薔薇の花が咲きました。薔薇が好きだとお伺いしましたので、我が家の庭の薔薇を一緒に贈ります』
『つい先日避暑地に行ってきました。王都はやはり暑いですね。そちらはどちらに向かうつもりですか?』
マティアス様が綴る言葉はいつだってキラキラしていて、わたしには眩しすぎる。代筆する人が多いとはいえ、お嬢様自身の気持ちを聞くことなく手紙を書いていることへの後ろめたさもあった。
でもそれと同じくらい、胸がときめいてしまうのだ。小さかった自分の視界が、パッと開けるような気がした。
どんな人なのでしょう。
きっと、素敵な人なのでしょうね。
貴族社会の噂話はわたしの耳にも届くけど、マティアス様はとても綺麗な人なんだそうだ。今年で二十一歳だけれど、出世株なんだとか。
だからお嬢様としても、今回の婚約は解消したくないらしい。わたしの責任は重大だ。
伯爵家令息で美形ともなれば、高慢なお嬢様としても嬉しいのだろう。外聞をとても気にする方だから。
そんなやり取りを続けて二ヶ月が経ち、お屋敷にマティアス様がやってくることになった。
お嬢様は慌てて、わたしが書いた手紙を読み込む。
わたしのことを綴ったわけではないのに、なぜだかとても恥ずかしかった。どうしてだろうか。
でもわたしたちとしても、悠長にしていられない。お屋敷の床を磨き、部屋の調度品を入れ替え、窓をピカピカにする。主人たちの顔に泥を塗るわけにはいかないからだ。
マティアス様がくる時間になれば、玄関に並び頭を下げる。
『いらっしゃいませ』
マティアス様を出迎えたお嬢様が、とても嬉しそうな声を上げていた。
どうやら、お嬢様もやる気満々らしい。お気に入りの薔薇香水をつけ、薔薇色のドレスを着、バッチリと化粧をしたお嬢様は、わたしの目から見ても美人だ。これで性格も良ければ良かったのだけれど。
そんなことを思いつつ、わたしは菓子を乗せたカートを押し、お嬢様とマティアス様が待つ庭へ向かった。
お嬢様はマティアス様とおしゃべりをしていた。頬が薔薇色に染まっているということは、かなり機嫌がいいということだ。つまり今日は、お嬢様の八つ当たりを受ける使用人はいないということでもある。
その会話を邪魔しないように、わたしはテーブルに菓子とティーセットを並べた。
音もなく去ろうとすると、綺麗な声がわたしを止める。
「ありがとう」
わたしは珍しく、動揺してしまった。
目を見開き声が聞こえたほうを見れば、そこには漆黒の髪をした男性がいる。彼は――マティアス様は青い瞳を細め、わたしに笑いかけてきた。
まさか、使用人に礼を言うなんて思わなかった。少なくとも、旦那様、奥様、お坊っちゃま、お嬢様は言わない。同時に、手紙と同じように優しい人だということが分かり、胸が苦しくなった。
わたしは直ぐに我に返ると、一礼して立ち去る。
お嬢様のことは他の使用人に任せ、わたしは使用人用の裏方に引っ込んだ。
ばくばくと音を立てる心臓を抑えつつ、わたしはその場に座り込む。
実物を見たら、恋心なんて冷めてしまうと思っていた。手紙だからこそときめいていたのだと、そう思っていた。
だけどどうやら、違っていたらしい。
わたしは顔を両手で覆いながら、叶わない恋心に絶望した。
「わたしの馬鹿……相手は伯爵令息よ? わたしみたいな平民が、好きになっていい相手じゃないわ」
自分に何度も言い聞かせたけど、涙は止まらない。
できることなら、わたしが代筆しているのだと叫びたかった。でもそんなことをしたら婚約解消は免れない。わたしがクビになるどころの騒ぎじゃなくなるだろう。
お嬢様のことだ。いたぶるだけいたぶって、気が晴れたら捨てそうだ。それだけは嫌だ。
だけど。だけれ、ど。
「……お嬢様とマティアス様が結婚したら……きっとマティアス様、困るわ」
お嬢様の外面の良さと性格の悪さは、わたしが一番知っている。使用人たちの印象は最悪だけど、辞めていった人たちは報復を恐れて何も言えないのだ。
わたしだって怖い。怖いし、生活が送れなくなる。わたしがマティアス様にすべてを暴露したところで、わたしの利益になることは絶対ないと思う。
でも、どうしてだろうか。わたしの心は妙に凪いでいて、頭の芯はとても冷えていた。
今まで誰かのために何かをしようとは思わなかった。自分のことで精一杯だった。
だけど今回だけは、この初めての恋だけは大事にしたい。そう思う。
泣くだけ泣いて落ち着いたわたしの覚悟は、決まっていた。
仕事の合間を縫って、わたしは手早く手紙を書き綴った。
翌日、マティアス様から手紙が届く。昨日のお茶会は楽しかったという内容の手紙だった。紙からは薔薇の香りがする。
マティアス様の手紙を読むのも、今日が最後だ。
寂しさを抱えながら、わたしは昨日書いた手紙を封筒に入れて蝋印を押した。
お嬢様が中身を確認することはないから、この手紙は無事にマティアス様のもとへ届くだろう。そしておそらく、お嬢様との婚約を解消することになるはず。
わたしは目をつむり、息を整えた。
「……あの素敵な殿方が、幸せになれますように」
脳裏に浮かぶのは、マティアス様の優しげな笑み。
その笑みを噛み締めながら、わたしは手紙を出すために屋敷の外へと踏み出した――